地域のミニコミ誌に以下を掲載いたしました。これまで、短歌を作ったり、短歌にかかる文章を書いてきたことを近隣で知る人は少なかったのですが、今回、友人のすすめもあって、寄稿いたしました。編集者による見出しや挿絵も入った誌面となりました。ありがとうございます。
私の八月十五日
1944年の秋、私と母は、母の実家がある千葉県佐原に向かった。乗り換えの両国駅の混雑は相当なものだったらしい。というのも、列車に乗り込むとき、私は、つぶされないように大人の男性たちの頭の上を手から手へと母のところに運ばれ、事なきを得たという話を後から知ったからだろうか。
母の実家には、すでに縁故疎開をしていた小学生の次兄がいた。母の実家は、母の長兄はすでに病没、義姉が3人の子ども抱え、農業を継いでいた。非常時の疎開とはいえ、私たち三人が転がり込んだことになる。しばらくは、食事も世話になったに違いない。庇に薄縁を敷いて寝泊まりし、母が七輪で煮炊きしている姿をおぼろげながら思い出す。
1945年4月14日未明、城北大空襲で池袋の生家は焼失、父と長兄は手拭いで手を縛り、逃げ果せたという。家族五人はそろったが、そのまま世話になるわけにもいかず、どうした経緯で決まったのか、私たちは、香取神宮に近い馬市場の管理人の古家に引っ越した。馬の取引が行われていたというだけに、牧場のように広い草原の正面には、いくつもの馬小屋が並んでいた。古家は、二階建てではあったが、つっかい棒が二カ所ほどに立てられ、危ないから二階には決して上がるなと言われていた。
敗戦直後、この馬市場に兵士たちが集合、解散式らしきものがなされた。私たちは、家の灯りをすべて消して、板戸の隙間から、息をひそめて、闇のなかの兵士らの動きに目を凝らしていた。
馬市場跡の原っぱは格好の遊び場であり、野菜や芋類を育てた場でもあった。「オワイ」と呼んだ人糞を、兄たちは、畑に運んだ。素人の畑仕事は難しかったことだろう。農家から分けてもらった「オキナワ」という水っぽいサツマイモ、農家の収穫後、「持っていけ」と言う親切な農婦もいて、畝に残ったニンジンやジャガイモを拾った。蒸して主食の代わりにもなった。スイトンやコウリャンやムギ入りのご飯はご馳走であった。そのご飯をめぐって、「三杯目はダメだぞ」「まだ二杯目だ」と兄たちが口論したこともあった。
・容赦なく変電所にも突き刺さる焼夷弾を見たり父にすがりて
・農婦らに哀れまれたか収穫後の畝に残れるニンジン拾う
・ふとんには青大将の落ち来たる敗戦の夜は兄たち黙しぬ
・幼かりし我には疎開地ひろがれる水田の果ての直ぐなるポプラ
(「花しょうぶ通信」2025年8月)


わが家の空襲罹災証明者の写しである。現物はペラペラの紙に、謄写印刷も薄くて読みにくい。太く濃くなっている文字は、父が後からなぞったと思われる。
初出:「内野光子のブログ」2025.7.29より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/07/post-6435fc.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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