在学中の中学校と進学先の筑波大学付属高校との間の時限的な提携校進学制度を活用した上、一般入試も受験し、2月16日に合格が確定したとの報道である。ちなみに今年の募集要項をみると、男女ほぼ同数の合計80名、英・国・数・理・社の五教科(300点満点)と調査書(80点満点)をもって総合的に判断する、となっていた。大学名は変わったが、私の母校には違いなかったので、なんとなく気にはなっていた。
私が受験した当時は、五科目に加えて、音楽、体育、職業・家庭、図工が加わっての9科目であった。苦手だった音楽と体育の実技の試験が不安であった。体育は、運動場に出て、先生(後から思えば広井先生)の前で逆上がりをやった記憶がある。この実技に、私は半そでの体操服でのぞんでいたのを、手伝いか何かで、どこかで見ていた内部進学の生徒がいたらしい。あとで、「寒いのに、かなり張り切っていたじゃない」とからかわれたのを覚えている。また、音楽は、一人づつ教室に入って、黒板に書かれた楽譜の楽典的な知識と歌唱のテストであったと思う。
募集定員は男子30名、女子15名であった。付属中学校からの内部進学者と合わせて各クラス男子30名、女子15名の5クラス編成で、高校からの外部入学者は、各組に男子6名、女子3名が配属されたことになる。入学当初は、「付属文化」?みたいなものに戸惑いながら、高校からの女子3人が固まっていることも多かったが、それぞれの性格や選択科目の違いもあって、まじりあっていくことができたのだろう。私は、嫌いではなかった「書道」を選択、上条信山先生の時間は楽しかった思い出がある。高校なのに、第二外国語があるというので、ドイツ語を選択したものの挫折した。大学でもドイツ語を選択、英語も一緒なのだが、まったくものになっていない。後に海外旅行をするたびにいやというほど知らされた。
担任は三年間、化学の米山勝太郎先生だった。授業では「なぜって、おめぇ」が口癖だった。数年前、白寿を全うされた。数学の横地清先生は「もう、人生に疲れたな」風のボヤキで始まる授業だったが、指導はきびしく、あてられて黒板で立ち往生、解答できないと、妙な宿題が課せられた。理不尽ながら従うしかなかった。そうして、時どき、勧められたのが「ヴィーチャとその友達」という少年向けの物語だった。ロシアの子どもたちはみな教え合って向上するという話らしかったが、読みかけたものの登場人物の名がややこしくて、こんな余裕はないみたいなことで挫折?いまだに先生の宿題は果たしていない。世界史の山本洋幸先生は、物語調の弁舌で、聞いていて楽しかったが、受験対策としてはどうであったのだろう。
数年後、大学での「社会科」の教育実習で、母校でお世話になるのだが、指導の金原左門先生には絞られた。「一般社会」で「国際社会の成立」?あたりの授業だったのだが、人前で話すことが苦手だった私は、「君は教職には向かないかも」とも言われた。一方、池袋の薬屋で育った私は、店番に立つことは、けっこう好きで、栄養剤を勧めたり、資生堂の高い化粧品を売って、花椿会入会の勧誘をしたりした。土地柄、男性用品を買いに来たお客には「ダースですか、バラですか」なんて応じていたのだから。
高校での校外生活、夏の冨浦海岸、蓼科高原での生活、二年の東北、三年の関西の修学旅行は、かなりの日数、家を離れることになり、出先から、何枚ものハガキを家に書いていたらしい。休業日もなく働いていた家族たち、旅行などというものは七つ上の兄が高校の修学旅行に出かけたくらいだったからだろう。スポーツでは、対外戦も盛んで、学習院との大掛かりな試合は「院戦」と呼ばれた。馬術とか開成とのボートレースとかの観戦も体験することができた。
私の最初の就職先が学習院大学で、二年で飛び出したっけ。そして、いつの頃からか、天皇制への関心が高まった。妙な因縁ではある。コロナ禍の前に、高校最後の同期会というので、何十年ぶりかで参加した。これも数十年前のたった一冊の同窓会名簿も処分した。会費は納めていないが、同窓会「会報」だけは頂戴している昨今である。
岩波少年文庫で、1954年1月に出版されてたというから、当時は新刊であった。
初出:「内野光子のブログ」2022.2.17より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/02/post-4ab989.html
〔opinion11769:220219〕