世界各地でテロ事件が続いている。その多くは社会不安を煽り、政治的不安定を引き起こすことを目的とするテロ組織によるものだろう。しかし、事件の中には科学的常識からして不審な点があって、権力犯罪の可能性を考えざるをえないケースもある。
全世界に衝撃を与えた2001年のアメリカ同時多発テロでも、ビルの不可解な倒壊過程など多くの不審点が指摘され続けている。分かりやすい一例をあげれば、乗っ取られたフライト93便の中では、携帯電話で家庭と連絡をとって事情を知った乗客の一部が犯人たちと格闘したとされている。しかし今でも富士山で携帯電話の通話が可能なのは7,8月のみである(DOCOMOを除く)。つまり電話会社にすれば、顧客(通話者)のいるはずのないところ(上空など)に電波を飛ばすのは無駄なだけで、基本的に航空機内からの携帯電話による通話は不可能である。
また2015年1月に発生したパリのシャリルー・エブド事件でも、アラブ系フランス人によるテロ事件とする公式見解に異議を申し立てた書籍が事件後間もなく出版された(『シャルリ・エブド事件を読み解く – 世界の自由思想家たちがフランス版9・11を問う』)。そこには様々な疑問点が列挙され、複数の寄稿者がイスラエルの秘密組織モサドの事件への関与の可能性を示唆している。日本語版も出版されており、5月に本サイトでも取り上げられている。
一例をあげれば、この事件では犯人に射殺されたはずの警察官の姿が、近くのビルから撮影していた市民の動画に残っている。しかし犯人の発射したマシンガンは空砲だったのか、当の警察官の頭部から1メートル近く離れた個所で白い煙のようなものを発生させている。現在でもユーチューブで確認可能である。至近距離からマシンガンの弾を頭部に受けていれば、頭部は粉砕され大量の流血があるはずであるが、まったくその様子はない。
さて日本において、科学的常識からしてありえない公式見解が出され、公的な検証が終わっている事件としては、1985年8月に発生した日航123便の墜落事故がある。その事故報告書が科学的な検証に耐えうるものだと考えるものはほとんどいない。
事故報告書では、事故機はボーイング社による修理を受けていたが、その修理にミスがあったのが原因だったとする。羽田から大阪に向かうべく上昇していた事故機の後部隔壁に亀裂が入り、加圧されていた客室から垂直尾翼に向けて激しい空気の流出があり、垂直尾翼を破壊し、油圧系統もすべて使えなくなった結果、操縦不能となり墜落に至った、というものである。我々は高層ビルでエレベーターに乗れば、耳の異常を感じる。高度一万メートルで、突然、機内から大量の空気が流出すれば、激しい耳の痛みを生ずるだけでなく、酸素不足から直ちに意識を失うはずである。しかし、生存者の証言や機長らの交信記録から、そのような状況が発生しなかったことは明らかだ。
この7月、元日本航空の乗務員だった青山透子氏による『日航123便 墜落の新事実』が出版された。副題は「目撃証言から真相に迫る」である。青山氏は2010年に『天空の星たちへ 日航123便 あの日の記憶』(マガジンランド)を上梓し、亡くなられた元同僚への鎮魂の文と、ジャーナリストなどによって指摘されてきた事故の疑問点を取り上げている。今回の著書は、前著の出版後に連絡をしてきた遺族や、事故現場に近い小中学校に残されていた子どもたちの、事故当時の思い出を綴った文集など、その後に得た新たな情報をもとにしている。
新たな情報の一つは遺族の吉備素子さんから得た情報である。事故後の遺体などの処理について日航の態度に不満を抱いた吉備さんは、当時の日航の高木社長との直談判に臨んだ。「現在の作業を中止するよう、一緒に首相官邸に行って中曽根首相に直訴しましょう」と言ったところ、高木社長がブルブル震え出して「そうしたら私は殺される」と激しく怯えたなどの証言は興味深いものがある。彼女の証言の中には、警察関係者との話のなかで「事故の原因追及をするとアメリカと戦争になる」という話があったことも出てくる。
事故当時運輸大臣だった山下徳夫氏からも接触があって会食している。山下元運輸相が何を考えて青山氏との面談機会を自ら設定したかはわからない。その後14年に亡くなられているが、感触としては青山氏の事故原因追及の姿勢を、暗黙の裡に支持する意図があったのではないかと思われる。
その他、彼女のもとには当日の日航機の目撃証言が多く寄せられている。その地点を繋いでいくと、事故報告書の示した飛行ルートとは相当に異なっている。通常見ることのない場所で、異常に低空を飛ぶジャンボ機について、見間違えとか記憶違いということは考えにくいから、この一点だけでも事故報告書の信頼性は大きく揺らぐのである。
さらに彼女は上野村の小学校と中学校の文集を閲覧する機会を得る。事故前後の子どもたちの記憶が書き残されていたのである。その中には、墜落前の日航機の側を2基のジェット戦闘機が並走していたという証言がある。事故報告書や政府は否定しているが、多数の目撃証言が記録されている。また子どもたちの保護者には、営林署関係者なども含めて地元の地形を知り尽くしている人たちが多い。彼らが事故直後にほぼ正確に墜落地点(後に御巣鷹山と呼称される)の見当をつけていたにも関わらず、ラジオやテレビが、長野県など不自然に異なる方向を伝えていたことに多くの人たちが不審感を抱いたことも記録されている。
その他にも、当時の記憶を呼びおこした地元の人たちの証言が加わる。もっとも衝撃的なのは、早い段階で現場に入った地元消防隊員たちの、ガソリンとタールの異臭が立ちこめていたという証言である。消防隊員たちが燃焼物を間違えることは考えにくい。ガソリンが燃やされた可能性については、検視に当たった医師たちの、異様に炭化の進んだ遺体が多くあったとの証言とも一致する。ジェット燃料は一般家庭で暖房用に使われる灯油に近い成分であり、遺体が激しく損傷するはずはない。ガソリンとタールの混合物が使われたとすれば、武器である火炎放射器しかない。想像するにもおぞましいことだが、墜落後から翌朝までの間に、現場一帯で証拠隠滅のために火炎放射器が使用されたと考えるのが妥当である。
またジャーナリストや遺族には、公表されたボイスレコーダーの記録をもとに様々な分析を試みている人がいるが、じつはボイスレコーダーは「プライバシー保護のため」として、いまだに全面的に公開されているわけではないという。航空機事故において事故原因の調査に優先するプライバシーはありえないというのが国際常識だろう。
この事故(事件)をめぐる疑わしさは、当時の中曽根康弘首相の事故後の言動にも窺える。彼は軽井沢の別荘に滞在中であったが、事故発生時は帰京のため予定通り、旧国鉄(民営化は87年4月)の特急列車の車中であった。軽井沢駅を17時11分に発車し上野駅19時15分着であった。事故機は、18時24分異常事態発生、同56分墜落という経過をたどった。NTTの携帯電話サービスはまだなかったので、直接の連絡はなかったであろう。しかし、国鉄は内部連絡用に線路にそって電話線を引いている。首相には途中駅で事故の情報が入ったはずである。事実、彼は回想録(『中曽根康弘が語る』2012年、新潮社)の中では、「車内で報告を得た」と書いている。
しかし、官邸に戻った中曽根氏は記者の問いかけに対して、「ほう、そうなの?」と初めて知ったような反応をしている。また回想録では「防衛庁と米軍の間でやりとりがあったのではないか」と、他人事のような記述をしている。民間航空機の墜落事故にもかかわらず、「米軍と防衛庁が」と記述すること自体が、この事件がミサイル誤射などの軍事訓練による事故だったことを理解していたことを示している。
オスプレイの飛行ひとつとっても、日本政府はいまだ領空に関する主権を放棄したままである。日航機事故の犠牲者に対して、我々はまだ責務を果たしていない。事件の真相を明らかにし、責任を追及する努力を引き継いでいく必要がある。日本の真の主権回復は、このような作業をひとつずつ確実に積み上げていくことによるほかない。
青山透子『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、1,600+税)
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