国連の会議で核兵器禁止条約が採択されたというニュースに接したとき、私の脳裏に浮かんできたのは、昨年11月13日に88歳で亡くなった池田眞規・弁護士のことだった。池田さんこそ、全身全霊を込めて平和憲法擁護と核兵器廃絶、被爆者救援に奔走した稀代の弁護士だったからである。「池田さんも、あの世で核兵器禁止条約の採択を喜んでいるに違いない」。そんな思いに私はしばし浸った。
核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会(略称・日本反核法律家協会、JALANA)の機関誌『反核法律家』の最新号である第91号(2017年 春号)に、特別企画「池田眞規前会長を偲んで」が掲載されている。同号58ページのうち21ページがこの特別企画。大特集と言ってよい。これをベースに池田さんの生涯を紹介したい。
池田さんは1928年(昭和3年)に韓国・大邱で生まれ、釜山で育った。敗戦後、日本に引き揚げ、1953年に九州大学法学部を卒業。風早八十二弁護士事務所の事務員となり、1966年に弁護士登録。
弁護士登録とともに、池田さんは百里基地訴訟の弁護団に加わり、やがて、その事務局長になるが、これは、航空自衛隊基地建設をめぐる憲法訴訟だった。1950年代半ば、政府は茨城県小川町(現小美玉市)にあった旧海軍航空隊の跡地を買収し、航空自衛隊の基地を建設しようとした。これに対し、地元の反対派農民が、自衛隊を憲法9条違反として土地買収の無効を主張し、土地所有権をめぐる裁判となった。結局、1989年に最高裁が憲法判断を回避して国の所有権を認める判決を下し、農民側の敗訴となった。
池田さんはそのかたわら、長沼ナイキ基地訴訟の弁護団にも加わる。これも自衛隊の合憲性が問われた訴訟だった。北海道長沼町に航空自衛隊のナイキ地対空ミサイル基地を建設するため政府が1969年に国有保安林の指定を解除、これに対し地元の住民が、「自衛隊は違憲、したがって保安林指定解除は違法」として、処分の取り消しを求めて起こした訴訟だ。一審の札幌地裁は初の違憲判決で処分を取り消したが、二審の札幌高裁は一審判決を破棄。住民側は上告したが、最高裁は1982年、憲法には触れず、原告適格がないとしてこれを棄却した。
百里基地訴訟、長沼ナイキ基地訴訟は、北海道の恵庭事件と並んで自衛隊の憲法違反を問うた裁判であった。池田さんは、憲法第9条がうたう「戦争放棄」「戦力不保持」を実現するためひたすら奔走したわけである。
その延長だろう。1991年に湾岸戦争が勃発し、海部政権が多国籍軍に91億ドルを支出すると、市民有志が「湾岸戦争国費支出違憲訴訟」を起こしたが、この時、池田さんは弁護団の団長格としてこれを支えた。
1970年代後半からは、原爆被爆者との交流が始まる。百里基地訴訟の控訴審がきっかけだった。池田さんは、医療関係団体の機関紙上で語っている。「私が被爆者と出会ったのは1977年の百里基地訴訟一審判決がきっかけでした。その判決は『自衛のために防衛措置をとることを憲法は禁止していない』という最悪のものでした。『これは裁判官が“政府の行為によって再び戦争の惨禍をくりかえさない”という憲法の立場で9条を解釈していないからだ』と私たちは考えました。そこで 控訴審では『戦争の惨禍』を裁判官の頭に叩き込もう、と法廷での証人を被爆者にお願いしたのです。人類初の核兵器に苦しむ、戦争の最大の犠牲者ですから」。その時、証言台に立ったのは、この3月に亡くなった被爆医師・肥田舜太郎さんだった。
被爆者たちは、1970年代初めから、国家補償に基づく被爆者援護法の制定を政府に求め続けた。これに対し、厚生大臣(今の厚生労働大臣)の諮問機関の原爆被爆者対策基本問題懇談会が、1980年に「原爆も戦争被害であるから受忍すべきだ」とする援護法制定の必要性を否定する報告書をまとめた。怒った日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)と市民団体が「核兵器の非人道性を告発する国民法廷」を全国で展開すると、池田さんは他の弁護士と共にこれを全面的に支援した。
その後、池田さんの活動は国際的な団体との連帯を深めてゆく。なかでも、池田さんが大きな役割を果たしたのは「世界法廷運動」だ。
1992年のことだ。国際平和ビューロー(IPB)、核戦争防止国際医師の会(IPPNW)、反核国際法律家協会(IALANA)、世界保健機関(WHO)といった国連専門機関が、世界法廷運動を提唱する。国際司法裁判所(IJC、オランダ・ハーグ)に「核兵器の使用は国際法違反」との決定を出させようという運動だった。
日本にその情報をもたらしたのは池田さんだった。なぜなら、池田さんは1989年にハーグで開かれたIALANAの設立総会に参加していたからである。
この提唱に日本の原水爆禁止関係団体は積極的な反応を示さなかったが、池田さんの呼びかけに応えた日本被団協や日本生活協同組合連合会を中心とする市民団体が、IJCへの要請署名に取り組み、集めた310万筆の署名をIJCに提出した。
1996年7月、IJCは「核兵器の使用・威嚇は一般的には国際法、人道法の原則に反する」とした国連への勧告的意見を発表、核軍縮史上の画期的な出来事として世界的な反響を呼び起こす。今回の国連会議における核兵器禁止条約の採択も、この世界法廷運動の延長線上にあると言ってよい。条約には「ヒバクシャおよび核実験の被害者にもたらされた容認しがたい苦難と損害に留意し」と書き込まれた。
この運動を進める中で、池田さんは日本反核法律家協会(JALANA)の創設に主導的役割を果たし、1994年の協会設立時には事務局長に就任。2004年から2010年まで会長を務めた。
晩年における最大の功績は、原爆症認定集団訴訟の弁護団長を務めたことだろう。
被爆者は、原爆による放射線が原因の病気やけがについて全額国の負担で医療の給付が受けられるが、そのためには、病気やけがが原爆の障害作用によるもので、現に治療を要するという厚労相の認定を受けなければならない。しかし、国は2003年当時、被爆者27万人のうち約2200人(0.81%)しか原爆症と認定せず、多くの認定申請を却下してきた。このため、2003年から全国各地で原爆症認定集団訴訟が起こされ、裁判は17の地方裁判所に及んだ。各裁判所は国の認定行政を批判し、原告・被爆者側の「連戦連勝」に終わった。2009年には、麻生太郎首相・自民党総裁と日本被団協との間で「一審判決を尊重する」などとする、集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書が調印された。
2011年に被爆者の体験記、証言集、被爆者運動の資料などを収集して後世に残そうという「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」が発足すると、池田さんは副会長を引き受けた。
「眞規さんは被爆者にしっかり寄り添っての生涯を全うされた。感謝の気持ちで一杯だ」。前日本被団協事務局長の田中熙巳さんは、『反核法律家』の特別企画「池田眞規前会長を偲んで」に寄せた追悼文でそう書いている。
池田さんは、被爆者との交流を深める中で、原爆被害の悲惨さを知り、被爆者の声に耳を傾けなければならない、何としても核兵器はなくさなければならない、との思いを強めていったのではないか。晩年には、よく「被爆者は神様だ」と話していたという。おそらく、それは「被爆者こそ、人類が核時代を生きるための道標を示す預言者のような存在」という意味だったろうと私は思う。
私の記憶の中の池田さんは、いつも万年青年と思える黒々した髪をしていて、声は弾み、大きな目をしていた。人なつっこく、しかも他人に対し面倒見がよかった。
ただ、その長話、長電話に悩まされた人もいたようで、特別企画でも、2人が長話、長電話をめぐるエピソードを語っている。私が池田さんを取材したのは「世界法廷運動」が始まったころのことだが、その時も、深夜、よく自宅に電話がかかってきた。それは、とうとうと自説を述べ、それへの賛同を求める長電話だった。
特別企画は、池田さんと親交があった反核国際法律家協会関係者からのお悔やみメッセージ」で締められている。冒頭にあるのは、C・G・ウィーラマントリー判事(スリランカの最高裁判事を務めた後、1991年から2000年まで国際司法裁判所の裁判官を務め、副所長も歴任。2017年1月、死去)からのものだ。
そこには「池田先生は、核兵器が全類にとっての脅威となって増大していることを、世界の民衆に知らしめる偉大な役割を果たしました」とある。
池田さんは世界的に注目されていた人物だったのだ。
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