童子丸開「銃剣なき全体主義 太初(はじめ)に結論ありき」

著者: 松元保昭 まつもとやすあき : パレスチナ連帯・札幌
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みなさまへ    松元
バルセロナの童子丸開さんから、日本の「はじめに結論ありき」という全体主義の進行についての貴重な論証が送られましたので紹介いたします。
——–(以下転載)————–

「銃剣なき全体主義 太初(はじめ)に結論ありき」

はじめに結論があった。結論は権力と共にあった。結論は権力であった。結論は初めから権力と共にあった。すべてのものはこれによって作り上げられなければならなかった。これによらないものは全て投げ捨てられた。この結論には筋書きがあった。筋書きは結論のみを導くものであった。そしてその筋書きが人々を導いた。人々は筋書きを喜び、筋書きに合わないあらゆる事実を壊し隠し誤魔化した。
もちろんこれは新約聖書ヨハネによる福音書の冒頭をちょっともじったものですが、2000年前の賢人の言葉は実に長い生命を持っているようですね。ちょっと書き換えただけで見事に現代の世の姿を浮き出させてくれます。

フクシマとは直接の関係の無い事から始めますが、9月26日に小沢元民主党代表の元秘書3人に有罪判決が下ったと報道されました。すでに多くの方がご存知のことでしょうが、裁判所は、検察から提出された多くの調書を採用しなかったにもかかわらず、「客観的な状況証拠」から犯罪と認定したそうです。
なっ、何ですか?その「客観的な状況証拠」ってのは?? 法律の専門の方、ご解説願えますか?
被告である石川代議士の主任弁護人、木下貴志弁護士は、「検察官が主張もしていない、証拠も出していない事実について裁判所が事実として認定している」という憤りの声を上げています。しかも、不採用になった調書の内容が検察から記者クラブにリークされ大きく報道されたのですが、これはマスコミによる「心証真っ黒」の印象操作と言えます。もはや証拠や筋道などどうでもよいのです。最初から決められている結論にたどり着いてその印象を国民の全員が心に刻めばそれで全てが完結するというわけでしょう。こちらの自由報道協会のThe Newsによる報道(田中龍作氏)をご覧ください。
要は「はじめに結論がありそれを導く筋書きがある…、筋書き通りに人々を導いてその結論へと至らしめる…」ということです。その思考と論理の回路は徹底的に閉ざされています。証拠があろうが無かろうが、この3人の元秘書には初めから有罪という結論が用意されており、その結論を導く筋書きに沿って、当初の結論に至ったのみです。残念ながら小沢代議士についても同様なのでしょう。
しかしこういった「はじめに結論ありき」の裁判は、日本では昔から当たり前だったのです。小出裕章先生は伊方原発設置許可取り消しを求めた訴訟について、次のように語っておられます。「ざまあみやがれい」様のサイトから文字起こしをお借りしました。(下線強調は私の方から。)

【前略】
小出「それは、あの、国を相手のまあ内閣総理大臣を相手の訴訟ですけれども。えーそれで国側にたびたび書類の堤出を、裁判所への提出を求めましたけれども。まずは拒否をされてしまうと。それで、出てくる時には、みんな黒塗りという」
水野「ええ?」
小出「そういう事がずうっと続きました……」
水野「はあーー……。その黒塗りというのは余程見られたくないこと、書かれてるんですか。どういう事であろうと推測されますか」
小出「分かりません。サイエンスのデーターですから、別に明らかにして、私は困らないと思ったのですが、企業機密だという理由で、国が裁判所への堤出を拒否しました。」
水野「へえー。裁判所は、何やってんだってなりますよね?」
小出「堤出命令を出したのですけれども。それでも従いませんでした。」
水野「へえー」
小出「そうすると国側の証拠が結局無いわけですから、結局私たち住民側が勝訴するはずだったのですけれども。えー判決は国側の勝訴でした(苦笑)」
水野「はあ、結局、証拠にできるだけのデーターが揃えられない状況になってしまうわけですか」
小出「ええまあ、裁判等のはお互いに証拠を出しあって、証拠に基づいてどちらが妥当性があるかということを判断するというのが多分原則だと思いますけれども。えー私が関わった伊方の裁判においては国側が立証を放棄したのです。それでも国側が勝ちました。」
【後略、引用終わり】
小沢氏とその周辺の人物に対する社会的排除にしても、核エネルギー(原発)開発にしても、ともに決定的な国家意思です。国家意思が働くときには裁判所は「初めから決まっている結論」を結論として出すのみなのです。それは日本だけの現象ではないのですが、特に日本では昔からそうでした。本質的な部分で日本が全体主義と帝国主義を棄てた時など無かったのです。そして藤田省三が「安楽全体主義」と呼んだ時代に、小出先生と伊方原発建設差し止め訴訟原告は、この最初から判決が用意されている裁判での敗訴をかみ締めていたのです。

さて、フクシマに関してちきゅう座様のサイトで47プロジェクト代表の岩田渉さんの次の記事を拝読しました。
はじめに結論ありきの「福島国際専門家シンポジウム」
勝手にではあるのですが引用させていただきます。ただしその最初の部分だけですので、ぜひ、リンク先から入って記事の全体をお読みください。

https://chikyuza.net/archives/14386
はじめに結論ありきの「福島国際専門化(ママ)シンポジウム」
http://www.pj47.net/art/125.html
会議の終わりに提出された“福島国際専門家シンポジウム「放射能と健康リスク」の結論と提言”の日英訳を添付してお送りいたします。またこちらからダウンロードできます。
http://www.crms-jpn.com/art/134.html
やはり想像していた通り、結論ありきのシンポジウムであったことは、提出された結論と提言に明らかです。
1.放射線の健康リスクに対する過小評価
2.事故直後から取られた/取られなかった施策の肯定
3.県民健康管理調査が有効であるとの文言
どれをとっても見事に予想されていた通りの結論に驚いています。
”結論と提言”をまとめる際には、専門家以外の出席者、メディア関係者もみな会議場を出され、後ほど、U-Streamで配信するとの発表でしたが、組織委員会は配信を取りやめたとの情報が寄せられました。
結論と提言に関してはほとんどあらかじめ、決まっていたのですかね。
記者会見の質問に対して回答する役割分担でも決めていたのではないかと思えるくらい、記者会見時には、組織委員会の面々(特に山下氏)が見事に回答役を割り振っていました。
当日は何人かの専門家と直接話ができたのですが、科学者であるというよりも、官僚といった印象です。
科学者が「権威をたてにした”科学的事実”」という小枝を振り回し、”愚かな”人々の社会生活に対して、代わりに決定を下そうという傲慢な姿勢は、危険極まりなく、それは近代、そして現代の姿であり、特徴の一つであることを実感しました。
【後略、引用終わり】
<岩田渉(いわたわたる):47プロジェクト代表>
9月11,12日に行われた、”国際専門家会議”に対する公開質問状の共同提出、賛同にお名前を連ねていただきどうもありがとうございました。
以下に公開質問状の日英文を掲載しております。

スターリン圧政下のソ連でさえこんな馬鹿げた「会議」が開かれたことがあるのか、と首を傾げたくなりますね。議論の過程とその内容など全く分からない「ブラックボックス」の中から、「結論と提言」だけがポンと取り出されてきたわけです。「提言」というのはその「結論」のみを導く筋書きですね。
はじめに結論がありそれを導く筋書きがある…、筋書き通りに人々を導いてその結論へと至らしめる…
閉ざされたのは会議場の扉だけではありません。日本から、思考の筋道、意思決定の筋道、政策決定の筋道、人と社会と国家を動かす筋道の全てが閉ざされました。
福島国際専門家シンポジウムが扉を開けたものがあるとすれば、それは日本全体を覆うむき出しの全体主義でしょう。この徹底的に閉ざされた回路があらゆる場面に作られる社会があるなら、それは紛れもないファシズム社会です。未だにほとんど人がそうとは気付いていないでしょう。そこに特高警察も憲兵隊もいないからです。しかしその代わりに権威者たちと大小のメディアと民間の発言者たちが、この回路をくぐる以外の思考と行動を「異物化」して、人々に許さないようにしています。
私が『
徐京植さん「フクシマを歩いて」に基づく考察 根こぎと全体主義』でも書いたことですが、現代の全体主義には軍靴も銃剣も必要ではありません。「結論と提言」にそぐわない事実の全ては無視されるか捻じ曲げて伝えられ、その回路の外にある研究や言論は「似非科学」「トンデモ」とされ、事実に基づいた筋道を主張する人々は「異物」として、しつこいレッテル貼りを通して排除と封じ込めの対象とされます。時折のシンボリックな検挙と起訴と有罪判決が恐怖感をかき立てて、外れようとする人々をこの閉ざされた回路に引き戻します。そこに誰かによる特別な「陰謀」など必要ありません。それは「みんながそう望んでいる」方向に進んでいくのです。

先日、九州電力玄海原発の再稼働の意図に抗議して7月に佐賀県庁での抗議行動に加わった俳優の山本太郎さんらが、京都の某政党に所属(告発時)する27歳の男性によって建造物侵入と威力業務妨害などの容疑で告発され、9月14日に佐賀地検がそれを受理したという報道に触れました。次の記事を見てみましょう。(読売新聞2011年9月22日

【前略】告発状によると、告発されたのは、山本さんと氏名不詳の反原発団体の複数のメンバー。山本さんらは7月11日、県庁前で再稼働に反対する抗議行動を展開。知事に請願書を渡すため、立ち入りを拒否されたにもかかわらず、県庁内に侵入し、一部は警備員を羽交い締めにするなどしたとしている。男性はテレビでこの状況を見て、同25日に告発状を提出したという。

告発状が提出されれば地検が受理するのは当然なのですが、この告訴はいわゆるバッシングです。中部大学の武田邦彦教授は次のように語っておられます

昔、憲兵・・・今、バッシング
戦争前、突然、憲兵が訪れて有無を言わさず連行され、拷問にかけられたという話は多くありました。その話を聞くと戦後の日本は自由でいいなと思っていましたが、2011年の原発が起こってから、現代の憲兵は、マスコミや一般の人からのバッシングだなと感じます。【後略】
「バッシング」は、ある特定の人物や見解などを、レッテル貼りや人格攻撃や法的手段を通して社会の中で「異物化」し、排除し封じ込めるために行われるものです。先日の鉢呂前経産大臣に対するマスコミのバッシングなどはその典型でしょう。鉢呂氏は原発とTPPには消極的な代議士でした。はじめに「そんな人物が大臣であってはならない」という結論があり、そしてその結論を導く筋書きが作られ、それに沿った徹底的なバッシングが全マスコミを通じて行われたわけです。それを通して、核エネルギー基地(原発)維持とTPP推進断行という結論に至る筋書きが、しっかりと守られることになります。そしてそれは「机の上の空 大沼安史の個人新聞」様の記事にもあるように、十分に組織化され洗練された形になっています。
民意? 民意など「作られるもの」です。マスコミや権威あると思われている人が「これは民意だ」と言えばそれが「民意」になります。日本人は「みんなに合わせる」ことを最優先し「自ら事実を確かめて自ら筋道を立て自ら結論を出す」ことをタブーのように遠ざける傾向を強く持っていますので、簡単に「顔の見えない群衆」化します。その群集の上に「民意」の造花が咲くというわけです。そして情報社会におけるファシズムは必ずしもヒトラーのような強烈で個性的なシンボルを必要とはしません。情報操作は警察や軍隊以上の暴力性を発揮することができます。特に全体主義の傾向をはらみやすい日本では、むしろ「顔の見えない群衆」が「顔の見えない官僚機構と主要メディア」にコントロールされながらそのまま怪物化していくでしょう。そこに誰かによる特別な「陰謀」など必要ありません。それは「みんながそう望んでいる」方向に進んでいくのです。

一方でデータのごまかしは日常化しています。福島県の「環境放射能水準測定結果」が、9月26日にこっそりと修正の発表をしています。(文科省の元データはこちらだが26日時点での修正は無し。)最初にいかにも人々を安心させるような数字が公表されて、その何ヶ月も後にひっそりととんでもなく高い数値が、ほとんどの人が気付かない形で公表されたという実例です。最初のデータで安心した人たちは、後で修正された数値など意にも介しないでしょう。もっとも何ヶ月も後になって気付いたところで、もうすでにどうしようもないのですが。
下に、すさまじい桁違いの「修正」の例を掲げておきます。(単位は[MBq/km^2])

日時Cs-134
(修正前)
Cs-137
(修正前)
Cs-134
(修正後)
Cs-137
(修正後)
6/11 09:00 ~ 6/12 09:006.68.0 160 200
6/18 09:00 ~ 6/19 09:005.77.2 82 100
6/18 09:00 ~ 6/19 09:00 6.1 7.6 170 210
7/19 09:00 ~ 7/20 09:00 31 39 590 750
7/26 09:00 ~ 7/27 09:00 6.2 7.5 85 100
8月6日より後のデータ発表はいまだにありません。また福島県のホームページにはこの修正の記載はありません。我々は3月11日以来、どれほどこの種のデータ誤魔化しにつき合わされてきたのでしょうか。その一部はこのように後で「修正」されるわけですが、しかし本当はどちらが正しいのかを判断する材料を人々は持っていません。人々の目の前に現れるのは「原発の推進・維持」という結論だけを導く筋書きに沿って調整された数字だけです。

実を言えば私はいまさらこんな程度のことに全く驚きません。それは2001年以来の世界で、私が散々に、へどがでるほどに、見慣れたものだったからです。2004年の3・11マドリッド列車爆破事件しかり、2005年の7・7ロンドン地下鉄バス爆破事件しかり、2005年アンマン爆破事件しかり…。そして何よりも、2001年9・11同時多発テロ事件しかり…。
それらの一つ一つに最初から「絶対の結論」が存在しました。そしてその結論のみを導く「無謬の筋書き」がありました。それは『大嘘』と呼ばれるべきものです。その筋書きに沿わない論調と研究の全てはバッシングの対象となります。その『大嘘』に合わない事実の全ては破壊と無視の対象となります。こうしてその全てが「客観的な状況証拠」によって「イスラム・テロである」と断定されてきたのです。私はそのすべてを克明に記録し告発し続けてきました。
それは人類史上類を見ない世界規模のファシズム社会の到来を意味しています。本来ならばそれは2001年に多くの人々が気付くべきものでしたが、すでに10年の年月が過ぎました。

「この門をくぐる者は一切の希望を棄てよ」(ダンテ、神曲『地獄編』より)
2011年に生きる日本人は、すでにその門をくぐってしまっているのです。そうと覚悟してください。ダンテの言葉のように、一切の希望を棄ててください。
一切の希望を棄てたうえで、一つ一つの事実を拾い集め、一つ一つを自らの目で確かめて、自ら分かっていき、一つ一つの現実を自ら噛み締めていくことによってしか、我々はもはや一歩も歩くことができないのでしょう。人間らしく生きるためには、そうしよう!と決意するしかないように思います。希望があろうが無かろうが、我々は最後まで人間らしく生きるしかないのではないでしょうか。

(2011年9月28日 バルセロナにて 童子丸開)

(転載終了)

転載元のURLはhttp://doujibar.ganriki.net/fukushima/in_the_beginning_was_the_result.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1642:111001〕