「老氏の徒、動もすれば天を言い性を言う。而して聖人の道を譏りて偽りと為す。故に子思性に本づけ天に本づけ、以て聖人の道の偽りに非ざることを明かす。性とは性質なり。人の性質は上天の畀うる所、故に天の命ずる之を性と謂う。聖人は人性の宜しき所に順いて以て道を建つ。天下後世是れに由りて以て行わしむ。六経の載する所、礼楽刑政の類い皆是れなり。」
1 『中庸』の徂徠解
冒頭に掲げた言葉からなる徂徠の『中庸解』は経典的テキストについての一般の注解とは性格を異にしている。これは『中庸』首章「天の命ずる之を性と謂い、性に率がう之を道と謂い、道を脩める之を教と謂う」の前二句についての徂徠の解釈である。さらに第三句「道を脩むる之を教と謂う」について徂徠は古学臭芬々たる解を示している。「脩とは本脩脯の脩なり。姜桂を加えて之を鍛冶するを脩と謂い、姜桂を加えずして之を盬乾するを脯と謂う。故に脩とは治して之を易く用い可からしむるの義なり。」この首章冒頭の三句についての徂徠の解を読むことから始めよう。私はここで徂徠の解を現代語でもって読み下した私の文章を掲げることにした。三段からなる首章テーゼの解をやはり三段に分けてここに訳してみた。
「老氏の徒はややもすれば天をいい、性をいって、聖人の道を譏り、それが偽りであることをいった。それゆえ子思は道を性に本づけ、天に本づけて、聖人の道が偽りでないことを明らかにしたのである。
一)性とは性質である。人の性質は天が人に賜与するものである。それゆえ「天の命ずる之を性と謂う」のである。
二)聖人はその人性に適応するようにして道を建てたのである。天下後世の人をしてこの道に由って行わしめようとしてである。六経の載せる礼楽刑政の類いは皆この聖人の建てた道である。
三)脩とはもと脩脯(ほじし)の脩である。姜桂を加えて肉を鍛治することを脩という。姜桂を加えずに肉を盬乾することを脯という。それゆえ脩とは治(なお)してこれを用い易くする義である。」
このように現代語をもって読み下してみてあらためて私は『中庸解』とははたして経典テキストの注釈であるかを疑うのである。冒頭の「老氏の徒はややもすれば天をいい、性をいって、聖人の道を譏り、それが偽りであることをいった。それゆえ子思は道を性に本づけ、天に本づけて、聖人の道の偽りでないことを明らかにしたのである」というのは、子思(前492-431)の時代の思想状況をふまえた『中庸』の制作意図をいうものである。そして徂徠におけるこの制作意図の解明は、子思に続く孟子(前372?-289?)荘子(369-286)荀子(298?-235?)の時代を見通しながらなされている。いいかえれば「性善」「性悪」といった「性」論の系譜を見通しながらなされている。徂徠は『中庸』第一章を概括する文章の中で、「夫れ聖人は性に率いて道を造る。子思は率うを言いて造るを言わず。其の流れ孟子の性善を言うに至りて極まる。荀子廼ち造るに賭ること有り。故に性悪を曰う。豈皆一偏の言ならずや」といっている。こうした言葉は徂徠の『中庸解』が子思の制作になる『中庸』の批判(クリティック)からなるものであることを教えている。批判とは徂徠古学の立場から『中庸』テキストを批判的に解読することをいう。「夫れ聖人は性に率いて道を造る」とは、徂徠による『中庸』の批判的解読から導かれたものである。
2 「六経はその物なり」
「夫れ聖人は性に率いて道を造る」という徂徠の『中庸』の批判的解読の言辞が彼の「古学」から導かれるとするならば、その「古学」とは何か。徂徠はこの「古学」的視点の修得を『弁道』でこういっている。
「不侫(ふねい)、天の寵霊に藉(よ)り、王・李二家の書を得て以てこれを読み、始めて古文辞あるを識る。ここにおいて稍稍六経を取りてこれを読む。年を歴るの久しき、稍稍、物と名との合するを得たり。物と名と合して、しかるのち訓詁始めて明らかに、六経得て言うべし。六経はその物なり。礼記・論語はその義なり。義は必ず物に属(つ)き、しかるのち道定る。すなわちその物を舎てて、ひとりその義を取らば、その氾濫(はんらん)自肆せざる者は幾希(すくな)し。」[2]
これは徂徠における古学(古文辞学)の成立を自ら語るよく知られた言葉である。古学とは古代先王の事蹟を伝える六経の学びである。ところでこの六経にあるのは後に「道」といわれる概念の具体的な事行としてのあり方である。これを徂徠は「物」という。この「物」の学びを通じて「道」とはかくのごときものであることを知るのである。それを徂徠は「物」と「名」とが合することだという。それは「道」の概念がはじめてわれわれにおいて成立することである。すなわち「道」の本来的な意味を「物」としての「道」においてわれわれは知るのである。そこから「六経はその物なり。礼記・論語はその義なり」といわれるのである。さらに徂徠は「義は必ず物に属(つ)き、しかるのち道定る。すなわちその物を舎(す)てて、ひとりその義を取らば、その氾濫(はんらん)自肆せざる者は幾希(すくな)し。これ韓・柳・程・朱以後の失なり」というのである。韓愈・柳宗元・程子・朱子という唐・宋の学者文人に成立する儒学的言説を徂徠は物を舎ててただ義を取る「氾濫自肆」するものの言説だとするのである。
己れに成立する古学をこのように語る徂徠の言葉を見れば、この古学的な批判的言説はわれわれにおけるポスト構造主義的な批判的言説と方法論的に類似していることに気づく。まず徂徠の批判は物を舎ててただ義だけを語り出していく儒家的な「道」の言説に向けられる。批判がまず人の〈語り出し〉に向けられるかぎり、その批判は言語論的、あるいは言説論的である。義だけを語り出す人の言語が問われているのである。ではその言語を人はどこから問い質すことができるのか。それはその言語の外部からである。徂徠はこの外部を「六経」の世界に取るのである。しかも徂徠は「六経はその物なり」という。徂徠は「六経」をそこから語り出される内的な意味言語の全くの外部である「物」だとするのである。もし徂徠古学の方法論をわれわれにおける言説批判の方法論に重ねてこのように理解することが正しければ、徂徠古学は朱子学に代表される後世的儒学言説の批判の学としての意義をもっぱらもつものとなるだろう。だが徂徠古学がわれわれの近代史において持った意味はそこにはない。われわれは儒学における中心的概念である「道」をめぐる徂徠古学的批判の書『弁道』を読まねばならない。
3 先王の道は先王の造る所
徂徠はまずいう。「孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり」(弁道2)と。徂徠がまずいうのは、道とはもともと先王の道であって孔子の道ではないということである。しかも道とは天下を安らかにする道であって、身を修める道ではないということである。「六経」を本とする徂徠古学とは「先王の道」を道の本来とする古学だということである。では先王の道とは何か。「道なる者は統名なり。礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者を挙げて、合せてこれに命くるなり。礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり」(弁道3)。天下安民を目的にした「礼楽刑政」という制作物の総体が道だと徂徠はいうのである。道とは先王の道であり、それは天下安民を目的に建てられた礼楽刑政の総体であることを知らない後世の儒者たちは「専ら中庸・孟子に拠りて、孝弟・五常を以て道と」したりする。彼らはみな「道とは統名」であり、先王による天下安民を目的にした制作物の総体であることを知らないのだと徂徠はいうのである。かくて徂徠はこういうのである。
「先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。けだし先王、聡明叡知の徳を以て、天命を受け、天下に王たり。その心は、一に、天下を安んずるを以て務めとなす。ここを以てその心力を尽くし、その知巧を極め、この道を作為して、天下後世の人をしてこれに由りてこれを行はしむ。あに天地自然にこれあらんや。」(弁道4)
これは「道」の再定義である。徂徠の「先王の道」の古学は、後世の「思・孟」的儒学世界から「六経」の先王の礼楽的世界へと批判的に超出しながら、「道」を「先王の造る所」として再定義していくのである。「道」はいま「天下を安んずる」ことを目的とした先王の制作物となるのである。徂徠は『弁名』で「聖」を「聖なる者は作者の称なり」としてこういっている。「古の天子は、聡明睿智の徳あり、天地の道に通じ、人物の性を尽くし、制作する所あり、功、神明に侔しく、利用厚生の道、ここにおいてか立ち、しかうして万世その徳を被らざるはなし。いはゆる伏羲・神農・黄帝は、みな聖人なり。」[3]古えの天子は道の制作者として聖人であったというのである。かくして人間の世の始まりの古代は徂徠によって政治論的に塗り替えられる。『中庸』の「性に率う、之を道と謂う」もまた政治論的に読み替えられるのである。
「中庸に「性に率ふこれ道と謂ふ」と曰ふがごときは、この時に当りて、老氏の説興り、聖人の道を貶めて偽となす。故に子思、書を著して、以て吾が儒を張り、また、先王、人の性に率ひてこの道を作為すと謂ふなり。天地自然にこの道ありと謂ふに非ざるなり。また、人の性の自然に率ひて作為を仮らずと謂ふにも非ざるなり。辟へば木を伐りて宮室を作るがごとし。また木の性に率ひて以てこれを造るのみ。然りといへども、宮室はあに木の自然ならんや。大氐、自然にして然る者は、天地の道なり。営為運用する所ある者は、人の性なり。後儒察せず、すなはち天理自然を以て道となす。あに老荘の帰ならずや。」(弁道4)
ここで徂徠は人の性に率って道を作為することを木材でもって宮室を作る譬えをもっていっている。木材をもって宮室を造るにあたって、この木材はこの箇所へ、あの木材はあの箇所へとその材質が見分けられて用いられる。木材は人の配慮を介して用材となり、宮室建築の資材となる。ましてや人においてはその性の特質への配慮は一層重要となる。われわれはすでに「適材適所」という言葉をもっている。このような配慮を要求する人の「性」について徂徠は『弁名』でこういっている。「人の性は万品にして、剛柔・軽重・遅疾・動静は、得て変ずべからず。然れどもみな善く移るを以てその性となす。善に習へばすなはち善、悪に習へばすなはち悪なり。故に聖人は人の性に率ひて以て教へを建て、学んで以てこれに習はしむ」と。またこうもいっている。「先王の教へ、詩書礼楽は、辟へば和風甘雨の万物を長養するがごとし。万物の品は殊なりといへども、その、養ひを得て以て長ずる者はみな然り。竹はこれを得て以て竹を成し、木はこれを得て以て木を成し、草はこれを得て以て草を成し、穀はこれを得て以て穀を成す。その成るに及んでや、以て宮室・衣服・飲食の用に供して乏しからず。なほ人の先王の教へを得て、以てその材を成し、以て六官・九官の用を供するがごときのみ」[4]と。『中庸』首章の「率性之道」を「先王、人の性に率ひてこの道を作為す」と解する徂徠の政治哲学的思惟は「人の性」についてこのように語り出すのである。「性に率うの道」とは、人がその特性に率って有用な人材として自己形成をし、先王の制作意図をそれぞれに実現していく人の道であり、士の道であり、臣の道でもあるのだ。私はあえて徂徠の「性に率うの道」とは皇国における臣民の道でもあるといいたい。
4 徂徠「制作」論の射程
私はいまあえて徂徠の「性に率うの道」とは皇国における臣民の道でもあるといいたいといった。それは徂徠「制作」論の日本の近代に及ぶはるかな射程を思ってである。ところで徂徠「制作」論が日本近代にとってもつ重い思想史的な意味を語り出したのは丸山眞男である。丸山は『日本政治思想史研究』で「自然」と「作為」の対立概念をもって日本近世思想史を解読する意義についてこう語っている。
「朱子学も徂徠学も封建的支配関係そのものを絶対視していることに於いて何等の相違もない。しかしその絶対視する論理的道程に至ってはまさに正反対に対立する。筆者は以下に於いてその対立を「自然」と「作為」という二つの概念を指標として捉え、進んでこの対立が単なる封建社会の枠内に於ける“Wie”の問題にとどまらずして、むしろ中世的な社会=国家制度観と近代的市民的なそれとの対立という世界史的な課題を、内包している所以を明らかにし、更に「自然」と「作為」の論理の明治初期に至るまでの展開様相を辿って、近世思想がどこまでこの課題を解決したかを尋ねようと思う。」[5]
徂徠「制作」論にわずかな〈希望〉を見出しながら昭和戦時の丸山は『日本政治思想史研究』の諸論文を書いた。〈希望〉とは徂徠に僅かに見出した〈日本近代〉への政治的な新たな可能性である。そして戦後世代のわれわれはこの書を徂徠にかけた丸山の〈希望〉とともに受け取った。だがこの書は私に〈日本思想史〉という学問的世界を開いてみせながら、その世界への参入は丸山の〈徂徠〉像を乗り越えることによってしかないことをも教えたのである。丸山〈徂徠〉の乗り越えは八〇年代の「言説論的転回」と私が呼ぶ思想史の方法論的転換とともになされていった。そして徂徠「制作」論がもたらした言説論的な結実は水戸学的「国体」論であることを知ったのである[6]。私は徂徠古学の代表的著作『弁名』を読むことを課題とした講義[7]を行い、その講義録である『徂徠学講義』で徂徠の「性」概念をめぐる私の解読を次のような言葉で結んだ。これは『徂徠学講義』の「性」論の結びであるとともに、ここでしている徂徠「制作」論の結びの意味をももっている。
「徂徠の性概念は、人材形成論を構成するものとしてよりは、国家の家臣論、臣民論を構成するものとして読むべきように思われる。私はさきに「徂徠における聖人の制作を前提にした社会的・文化的体系としての道と、非本来主義的人間観[8]とは相即するものであることを考える必要がある」といった。たしかに徂徠の性概念は、あらためて制作者聖人を前提にした社会的・文化的体系としての国家を考えさせる。この体系には国家意思(先王の制作意思)を体現して自己形成を遂げた「百僚有司」とともに、国家的支配のプロセスにもともと従順である「青人草」もまたすでに存在するのである。「朕が百僚有司」と「我が忠良なる臣民」とは、明治に成立する国家の天皇によって発せられた詔勅というメッセージのもっとも大事な二つの受け取り手であった。」徂徠の「性に率うの道」とは皇国の臣民の道でもあるのだ。
徂徠「制作」論が導いた近代日本の国体論的天皇制国家の存立という事態は、丸山が徂徠に読むとろでも、読もうとするところでもなかった。では徂徠「制作」論との理論的・思想的な強い影響的連関の中に近代の天皇制国家日本の成立を見ることは、丸山政治思想史に対する批判以上のいかなる意味をもつのか。もっとも重要なことは明治維新によって成立する国体論的天皇制国家日本を〈制作されたもの〉として見ることである。天皇を最高の祭祀者とした祭祀的国家日本は徂徠古学・宣長国学・後期水戸学によって再発見され、再構成されたものであるのだ。近代天皇制国家は制作されたものである。この国家を制作されたものと見れば、その再制作の課題と責任とは現代日本人の当然負うものであるはずである。
だが丸山もまた現代日本における制作主体=近代市民の確乎たる成立を願いながら『日本政治思想史研究』を書いたのではなかったか。それでは丸山から私を別つものは何なのか。それは今まで述べてきた徂徠「制作」論との関わりでいえば、その意味を近代国体論的国家日本の存立の上に見るか、その意味を近代的制作主体=市民の期待される成立の上に見るかの違いにある。私の立場はすでにいうように前者である。われわれはすでに近代を経由し、ポスト・モダーンの今ここあるという歴史認識から、すでに制作された近代国家日本を批判し、その再制作を要求する立場である。〈本当の近代〉を常に向こうに見出す近代主義とは私は歴史認識・世界認識を全く異にしている。
[1]荻生徂徠『中庸解』『日本名家四書注釈全書』第一巻学庸部一。
[2]荻生徂徠『弁道』西田太一郎校注、『荻生徂徠』日本思想大系36。
[3] 荻生徂徠『弁名』上・「聖」、西田太一郎校注、『荻生徂徠』日本思想大系36。
[5]丸山眞男『日本政治思想史研究』第二章「近世日本政治思想における「自然」と「作為」」、東京大学出版会、1952.仮名遣いは当用のものに改めている。
[6]徂徠「制作」論が後期水戸学を介して祭祀的国家日本とその「国体」論の形成に理論的に大きな力をもったことについて私は『国家と祭祀』(青土社、2004)で、新しくは『「維新」近代の幻想』(作品社、2020)で詳しく語っている。
[7]この講義は二度なされた。一度目は1999年の2月、ヘルマン・オームス教授に呼ばれてUCLAでした講義であり、二度目は2005年の9月から07年の3月まで大阪の懐徳堂研究会の講座でした講義である。『徂徠学講義』(岩波書店、2008)はこの二度目の講義を基にしている。
[8]私がここで「非本来主義的人間観」というのは、人の性を気質の性とし、本然の性という人の本来性の概念を否認する徂徠の人間観をいう。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2020.12.14より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/84638993.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1148:201218〕