ゾルゲ事件の被告ブランコ・ド・ヴケリッチといっても、知る人は多くはないだろう。ソ連赤軍第4部(GRU)に登録された、リヒアルト・ゾルゲの組織した対日諜報団の核を成す5人組の一人である。ゾルゲは、いうまでもなく、20世紀インテリジェンスの世界で高名なマスター・スパイである。日本では元朝日新聞記者・近衛内閣嘱託の尾崎秀実がゾルゲの盟友としてよく知られているが、二人の協力者であるアメリカ共産党出身の画家宮城与徳、アヴァス通信記者ヴケリッチ、無線技士マックス・クラウゼンは、どうしても脇役になる。
ゾルゲ・尾崎は1944年11月に死刑、宮城与徳は未決拘留中に獄死、ヴケリッチは無期懲役で、服役中の1945年1月13日に酷寒の網走刑務所で獄死した。ただ一人生き延びたクラウゼンは、日本の敗戦と共に政治犯として釈放され、ソ連経由東独へと帰国できた。ブランコ・ヴケリッチも、あと8 か月、網走で生きながらえれば、釈放されて、戦後に貴重な証言を残しただろう。
そのヴケリッチの長男ポール・ヴケリッチさんが、オーストラリアに住んでいて、冷戦終焉・ソ連崩壊の頃から、父の足跡を追いかけてきた。日本でゾルゲ事件の国際的・学術的研究を進める白井久也・渡部富哉氏らの日露歴史研究センターを訪ねて来日した時、たまたま私も臨席していた。その後の2013年上海、14年東京でのゾルゲ事件国際シンポジウムにもポールさんは出席し、日本の研究者・ジャーナリストとも親しくなった。
2015年12月の第9回ゾルゲ事件国際シンポジウムは、このポールさんの発案によるもので、東京、モスクワ、ドイツ、モンゴル、アゼルバイジャン、沖縄、上海、東京と重ねてきた国際会議が、初めて南半球で開かれることになった。私にとっても、真夏のオーストラリア訪問は、10数年ぶりだった。
とはいっても、国際会議開催は、容易ではなかった。1930年生まれのポールさんは、オーストラリアの西海岸パースからさらに奥に入った小さな町バンバリーに住む。ゾルゲ事件など知る人はおらず、適当な学術研究機関もない。それでも日本の研究者に来てほしいというのは、1941年9月、父ブランコ・ヴケリッチを含むゾルゲ諜報団が検挙される直前に日本を離れた母子が、香港経由オーストラリアに入り、戦争と貧困をのりこえ、苦学と勤勉の末にオーストラリアに根付き、いまや大きなスーパーマーケットの入るショッピングモールのオーナーなど、西海岸でも有力なビジネスマンになるまでの物語を、幼年時代を過ごした日本の人々に知ってもらいたい、ということだろう。
ゾルゲ事件の本筋とは関係なさそうだが、事件の被告たちには、それぞれに家族の物語がある。ポール・ヴケリッチさんは、もともとクロアチアの名門出身でパリ大学卒の国際ジャーナリストである父ブランコと、ブランコとソルボンヌ時代に知り合ったデンマーク人の母エディットとの間に生まれた。日本での幼時の生活を、古いアルバム写真の中に想い出していた。それがスパイの汚名での父の異郷での獄死の発端で、離日後の母との苦難の人生の始まりであったにしても、ポールさんにとっては、かけがえのない家族の記憶であった。その資料と証言を、今日でもゾルゲ事件に関心を持ち続けている日本の人々に提供したいという。
ちょうど敗戦直後の日本で、尾崎秀実の獄中から家族にあてた手紙『愛情は降る星の如く』がベストセラーになったように、戦後70年にあたって、ゾルゲ事件被告の反戦・反ファシズムの理想を、今日に蘇生させる意味を持つ。日露歴史研究センターをはじめとする日本側代表団の関心にも、おおむね合致する。私自身の著書『ゾルゲ事件—覆された神話』(平凡社新書、2014年)も、そうした流れにある。日本側は、ポールさんの企画に乗ることにした。
もっとも、10人以上の日本人が、オーストラリア西海岸のポール・ヴケリッチ家にでかけて、ブランコ・ヴケリッチの家系図を聞き取り、資料を集めるだけでは、国際シンポジウムにはならない。日露歴史研究センターとしては、大学・研究機関が多い東海岸にゾルゲ事件に関心を持つ研究者を見つけ、ヴケリッチ家の物語を含む国際シンポジウムを開こうと考えた。
そこで、上海での第7回シンポジウムに、ポール・ヴケリッチさんと共に参加したオーストラリアの元外交官ルイス・マギーさんに連絡したところ、知り合いのオーストラリア外務省ネットワークから、アジアの諜報活動に関心を持つ数人の外交官・研究者をみつけ、オーストラリア側報告を用意できることになった。
英語での交渉と翻訳では、日本側の吉田臣吾・篠崎務両氏が大きな力を発揮したが、どうやらマギーさんらの関心は、オーストラリア外務省の諜報活動にたずさわった経験から、アメリカCIA、イギリスMI6のライバルであった旧ソ連のNKVD/KGB、GRUの諜報テクニックを、ゾルゲ事件を素材に学ぶことらしい。彼らの知るゾルゲ事件とは、いうまでもなく、「共産主義ソ連の赤色スパイ団」をマッカーシズム期に告発した1949年米国陸軍省発表、GHQ/G2のウィロビー報告と、その後の英文で書かれたゾルゲ本である。
こうして、「ソ連の赤色スパイ」の汚名をぬぐおうとする西海岸のポール・ヴケリッチ家と、「赤色スパイ団のインテリジェンス・テクニック」に関心を持つ東海岸のオーストラリア外務省チームの関心に、日露歴史研究センター代表・白井久也氏の「日本陸軍憲兵隊とゾルゲ事件」、私の「ゾルゲ事件と731部隊」、それに渡部富哉氏の「ゾルゲ事件とヴケリッチの真実」という日本側報告3本をそろえて、何とかシドニーでの国際シンポジウム開催にこぎつけた。
出席者は同床異夢ではあったが、とにかくゾルゲ事件など全く取り上げられたことのないオーストラリアで、マギーさんの知り合いの勤めるシドニー工科大学の会議場で、数十人のシンポジウムを開くことができた。その詳しい記録は、当日配布された英文・日本語文報告をもとに、日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』に収録されるはずである。
オーストラリア側報告の一つは、「ハルビンファイルに見る秘密とスパイ」と題した、旧満州ハルビンに住んでいた白系ロシア人一家の流浪の物語だった。日本の満州国建国により、やむなくソ連に戻ったロシア人一家が、モスクワでは「日本のスパイ」と疑われ、スターリン粛清の犠牲となった歴史を、旧ソ連秘密文書から追いかけた、女流作家Mara Moustrafineさんによる”Secrets and Spies: The Harbin Files”(Vintage Books 2002)の要約だった。マーラさん自身も元外務省職員で、今はシドニーに住むロシア系オーストラリア人一家の彷徨の旅のルーツに、日本の満州侵略とスターリン粛清を見出したもので、もともと旧ソ連在住日本人の粛清研究から「国際歴史探偵」の世界に迷い込んだ私には、有益だった。この本は、日本では北海道大学スラブ研究センターに1冊入っているだけのようだから、関心のある方は、筆者まで連絡されたい。
ここでは、今回の目玉となった、ヴケリッチ父子の話に絞ろう。実は、日本でヴケリッチを扱う際には、もう一つの複雑な事情が加わる。ゾルゲ事件の5人の中心メンバーは、家族愛が戦後に感動を与えた尾崎秀実を含めて、それぞれに複雑な男女関係を抱えていた。ヴケリッチの場合、長男ポールの記憶に残る日本での両親との生活は、つかの間のものだった。1933年2月にゾルゲよりも早く夫婦で日本に着任し、ゾルゲと共に東京ゾルゲ団の中心だったブランコ・ヴケリッチは、アヴァス通信特派員としての活動を始め、ポールをデンマークのエディットの実家から呼び寄せた1936年頃には、日本の津田英学塾生・山崎淑子と知り合い、不倫の恋におちていた。エディットとポールを軽井沢に置いたまま、ゾルゲにも隠れて再婚してしまう。後にゾルゲを通じてモスクワ赤軍諜報部で離婚・再婚が承認され,山崎淑子との間に、東京で次男・洋をもうける。
こちらの話は、山崎淑子が網走で獄死したヴケリッチの遺骨を引き取り、戦後に回想を残したため、日本有数のユーゴスラヴィア研究者に育ったポールの異母弟・山崎洋による著作と相まって、テレビにもとりあげられる愛情物語になった。
山崎淑子(編)『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』(未知谷、2005年、初版1966年)、ロベール・ギラン『ゾルゲの時代』(中央公論社、1980年)、片島紀男『ゾルゲ事件ヴケリッチの妻・淑子』 (同時代社、2006年)、山崎洋(編)『ブランコ・ヴケリッチ 日本からの手紙―ポリティカ紙掲載記事(1933-1940 )』(未知谷、2007年)などの書物があり、1998年には、NHKのETV特集「私のゾルゲ事件 愛は国境を越えて ブランコ・ヴケリッチ夫人・山崎淑子」が放映された。篠田正浩監督の映画『スパイ・ゾルゲ』(2003年)では、女優小雪が山崎淑子役を演じて、その清楚で凜としたイメージが定着
他方、対日諜報活動のさなかに離婚され、放り出された前夫人エディットと長男ポールの物語は、ちょうどゾルゲの遺骨を引き取り多磨墓地に葬った愛人石井花子の陰に隠れて、ゾルゲのモスクワ妻カーチャが長く消息不明だったように、数百のゾルゲ事件関係書籍・論文の中で、ほとんど無視されてきた。戦争の時代に国境とイデオロギーを越えて愛を貫いた自立した日本人女性・山崎淑子にスポットが当てられ、夫のブランコ・ヴケリッチさえ、ここでは脇役だった。
今回のシドニー国際シンポジウムにあわせて、日本のゾルゲ事件研究を主導してきた渡部富哉氏が、改めてゾルゲ事件の中でのヴケリッチ夫妻の役割を整理し、先妻エディットの上海連絡や無電交信に果たした諜報活動上での役割、1941年9月のエディット、ポール母子の離日が北林トモ検挙に始まる東京ゾルゲ団総逮捕の直前であったことの政治的意味などを、初めて本格的に論じた。
圧巻は、ポールさん自身の記憶の断片や、ポール家に残されたアルバム写真、それに英語で完成されたポールさんの私家版評伝、Wilma Mann “The Paul Vukelic Story: With Respect, A Personal Journey”(2015) であった。評伝の表紙は、著名な国際ジャーナリストであるロベール・ギランが、アヴァス通信東京支局長時代に、同僚ヴケリッチの家でスケッチした幼いポールの絵で飾られた。ブランコ、エディット、ポールの家族写真も残っていた。 ポールさんの80歳の誕生日記念に、子供たちが作ったパワーポイントで130 枚近いカラー写真中心の記録 “An extraordinary man, an extraordinary life” が、その生涯を綴っていた。そのppt.記録も、ポール家から提供されたから、日本でも追体験できる。
(PAUL VUKELIC, Drawing by Robert Guillain, Tokyo circa 1936-38)
ポールさんの日本での想い出は、つつましいが幸せな5年間だった。1941年離日後に、エディットの妹を頼り香港経由オーストラリアに入った戦時難民母子の苦難の記憶に比べれば、ある種の陽画でさえあった。戦後は苦学し、新聞配達やアルバイトをしながら高校まで通い、ガソリンスタンドと中古車販売で成功して、裕福な地域のビジネス・リーダーになった。
6人の子供と11人の孫に囲まれたサクセス・ストーリーの原点として、ポール・ヴケリッチさんは、日本とのつながりを復活した。家族の2人は日本語を学び、慶応大学に留学した。山崎淑子の子であるブランコの次男・山崎洋さんとも連絡がつき、2014年東京・明治大学での第8回国際シンポジウムでは、異母兄弟が肩を並べて登壇し、握手した。私たちのオーストラリア訪問の直前、祖父の命を奪った網走刑務所の監獄を、ブランコの孫夫妻とひ孫が訪れた(「ゾルゲ事件で獄死のブケリッチ氏…孫が網走市を訪問」『毎日新聞』2015年11月7日)。
私たちから見ると、豪邸で大家族に囲まれたポールさんの今日は、移民・難民にやさしいオーストラリアの、自由な多文化社会の産物だった。第二次世界大戦中でさえ、「一億が一つ心で防諜団」となった日本のような排他的差別や迫害は、オーストラリアにはなかった。
同時に、自然とも共生した豊かな生活は、戦後オーストラリアの市民社会により醸成されたものだった。正規・非正規を問わず時給2000円の最低賃金や手厚い雇用保険・年金制度など、かつてのイギリス労働党政権の「ゆりかごから墓場まで」の理念が残されていた。
一橋大学時代の留学生の教え子二人にも会えて、日豪関係やシリア難民・ISテロ、中国・中東問題の南半球からの見方も知ることができたが、ゾルゲ事件そのものよりも、戦後70年の日本社会の達成の貧しさを実感する旅であった。
(お断り:この参加記のオリジナルは、2015年12月のシンポジウム出発前に頼まれた早稲田大学20世紀メディア研究所年報『インテリジェンス』購読会員用ブログ原稿で、「ゾルゲ事件被告ヴケリッチ家のオーストラリア」と題して寄稿した。そこに新年に入って、日露歴史研究センター白井久也代表からの参加記執筆依頼があり、国際会議開催の経緯と内容紹介を加えて作成したものが本稿で、日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第45 号(2016)に掲載されることになったものである。日露歴史研究センターからは、「ちきゅう座」への転載許可を得たが、ヴケリッチ家についての記述は、オリジナルのブログ寄稿と重複することをお断りする。そちらに関心がある向きは、早稲田大学20世紀メディア研究所ホームページhttp://www.waseda.jp/prj-m20th/ から、『インテリジェンス』購読会員に登録されたい。)
日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』45 号(2016)掲載
加藤哲郎先生より許可を頂いて転載しました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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