米国の「中立姿勢」の背景を解明 矢吹晋著「尖閣衝突は沖縄返還に始まる」

日本政府による尖閣諸島(中国名;釣魚島)3島の国有化(2013年9月11日)から間もなく1年。尖閣周辺海域では、連日のように中国公船が接近し巡視船と並走ゲームを演じている。まるでお船の運動会。日中双方で新政権が誕生し、関係打開への期待が高まったものの、中国とは首脳会談どころか閣僚レベル対話も中断したままである。その一方、安倍政権は

「日米同盟を強化して中国を包囲する」政策をとり、多くの大手メディアもそれに「右へ倣え」している。中国包囲政策が機能し効果を発揮するには、二つの前提条件が満たされねばならない。第一に米中両国は常に対立する関係であり、「米中新冷戦時代が既に来た」か「来る」とみる。第二に「日米同盟」は中国を敵視するために存在し、同盟強化によって中国を「孤立」させることができるー。どうだろう。この1年の日米中関係を振り返ってみて、現実はこの前提条件通りに展開しているだろうか。6月の米カリフォルニアでのオバマ・習近平会談は延べ6時間にも及び、両者は対立ではなく新たな協調関係を確認した。その一方、安倍は6月中旬、北アイルランドでの主要国(G8)首脳会議で、オバマとの日米首脳会談を希望したにもかかわらず、あっさり「振られる」始末。一、二の事例を挙げただけで、米政権は決して中国を敵視しておらず、中国は孤立していないことが分かろう。逆に、中国と韓国という隣国のニューリーダーに会うことができず孤立しているのは安倍政権の方ではないか。われわれはかつて、日清・日露戦争の勝利に慢心し、中国大陸とアジア侵略を拡大、日米開戦へと突き進み自滅した。ここで肝に銘じなければならないのは、米中関係と日米関係についての現状認識を誤ると「ボタンの掛け間違い」は、軌道修正されることなく最後まで続くという歴史の教訓である。

窮余の一策
前置きが長くなった。尖閣に話を戻す。中国、台湾というメーンプレーヤー(主役)に加えて、もうひとりのメーンプレーヤーである米国の役回りを正確に認識しなければ、誤りをくり返しかねない。そこで紹介するのは「21世紀中国総研」のディレクター、矢吹晋・横浜市立大名誉教授の新著「尖閣衝突は沖縄返還に始まる――日米中三角関係の頂点」(花伝社 2013年8月)=写真である。
タイトルの通り、日本、中国、台湾の領有権争いは沖縄返還交渉に始まったことを、米上院や国務省の文献、「蒋介石日記」など、豊富な資料を丹念に当たって読み解いた作品である。ことし1月に上梓した「尖閣問題の核心」(花伝社)に続く尖閣第2弾。70歳代半ばとは思えないエネルギッシュな執筆意欲は並大抵のものではない。
尖閣紛争の炎上以来、「もやもや」とした疑問を抱きながらも、解明の努力を怠ってきたテーマがある。それは、米国が、尖閣の領有権と施政権を分け「領有権については特定の立場はとらない」という「中立姿勢」をとった経過と理由である。昨年公開された米政府文書を基に、沖縄・尖閣返還と日台韓との繊維交渉との「密約」や「取引」を指摘した報道は幾つかあった。しかし本書のように米公文書だけでなく、台湾の公文書や日本の国会議事録まで多角的にあたり解明しようとした例は知らない。尖閣返還後もなぜ米軍は尖閣2島を射爆場として使ったのかというナゾを含め、目の前の霧が晴れるような読後感があった。
「はじめに」では、その問題意識を一問一答の形で分かりやすく読者に提示する。「Q&A」の形式は、日本外務省が昨年10月、HPにアップした「尖閣諸島に関するQ&A」でも採用している。筆者は、日中国交正常化交渉の記録を外務省が「抹殺」「改ざん」したと厳しく指弾してきただけに、筆者一流の茶目っ気ぶりがうかがえる。
少し長くなるが、米政府がなぜ曖昧政策で臨んだのか、そのさわりを引用する。

―Q4.米国はなぜ「尖閣諸島/釣魚台」の争いについて、「立場をとらない」「中立の立場」を強調するのか。
A4. 沖縄返還に際して、「尖閣諸島/釣魚台」の「施政権のみ」を日本に返す。領有権問題では「中立の立場」を守ることを中華民国政府(蔣介石)と約束したからだ。
Q5.米国はなぜ中華民国政府(蔣介石)とその約束したのか。
A5.一つは繊維交渉で米国案を押しつける代償として蔣介石に譲歩せざるをえなかった。もう一つは、国連代表権問題の行方(台湾を追放し、北京を招く動き)に不安を抱く蔣介石を慰撫するため黄尾嶼、赤尾嶼に射爆撃場を設け、米軍が管理する約束をした。これは台湾の安全保障のためである―

ここまで読めば、筆者の問題意識は鮮明になるだろう。沖縄返還交渉の過程で、蒋介石が米側に台湾への返還を要求した経緯とこれを受けたニクソン政権のジレンマが次のように描かれる。

――沖縄返還に尖閣諸島を含めるか否かは、返還交渉終盤の最大の争点となった。終盤で蒋介石が尖閣諸島の「台湾への返還」を強く要求したからだ。板挟みに陥ったキッシンジャー自身がジレンマに囚われた。「尖閣を日本に返還しながら、米国は台湾と東京間で、中立だというのは筋が通らないではないか。かといって、尖閣諸島だけは日台間の話し合いがつくまで米国が預かる案(ニクソン政権の財務長官ケネデイ繊維特使の発案)もイマイチだ。こうして調印10日前にニクソンが決断した。「尖閣諸島を含めて沖縄全体を日本に返還する」、「但し返還は施政権のみ。領有権ではない」。この米国の立場を対外的に公表することで蒋介石の了解をとりつけた。この約束こそが米国の「立場を取らない」(takes no position)声明にほかならない―(8p)

意図的陰謀ではなかった
このニクソンの決断は最初から「意図した陰謀」ではなく、繊維交渉と中国代表権問題の中でジレンマに陥ったニクソン政権の「窮余の一策」だったと、筆者は読み込む。

―こうして、尖閣返還は「施政権のみ」と限定する論理は、その後米国が日中台関係に介入するうえでのピナクル(尖閣)と化した。これは最初から意図した陰謀というよりは、苦し紛れの方便から生まれた窮余の一策にすぎないことは、経過を見れば分かる。とはいえ、「窮余の一策」もまた次の展開にとって「重要な布石」に転化できよう。それが外交的知恵の使い所ではないか―(p36)

領有権と施政権を分けた理由について評者は自著(「尖閣諸島問題 領土ナショナリズムの魔力」蒼蒼社刊)で、豊下楢彦・関西学院大教授の論考を引用しながら、次のように書いた。
―日中間に領土紛争があれば、沖縄返還以降も米軍の沖縄駐留が正当化されるため「あえて紛争の火種を残すことによって、米軍のプレゼンスを確保する狙い」(『世界』2012年8月)ではないかと指摘する―

「(日中間に)あえて紛争の火種を残す」という分析は、説得力をもつようにみえるが、それを裏付ける公文書や文献があるわけではない。あくまでの豊下の分析に基づいた見方である。矢吹が56頁を費やして論証した部分は、評者はわずか1頁半弱で「お茶を濁した」。一介の記者の拙速原稿という誹りは免れないだろう。
さて「分離論」は、「窮余の一策」だったが、尖閣問題が日中間の火種になるなかで、結果的に米国を「中立」「調停者」というベスト・ポジションに置く効果を発揮した。矢吹の言う「重要な布石」に転化したのである。今から130年前、琉球処分をめぐり米元大統領のグラントが日清両国の調停役を果たしたように、米国は「分離論」のおかげでいまも調停者としてフリーハンドを握り続ける。
政府・外務省は事あるたびに、尖閣諸島は「日本の施政下にあり、日米安保条約の適用範囲」という言質を米国側から引き出し、悦にいっている。これぞ「我田引水」の好例であろう。米国の基本的スタンスは「話し合いによる平和的解決」にあり、日中の軍事衝突は最も避けたいシナリオである。日米安保が発動されるような事態が起きれば「調停者」としてのベスト・ポジションを失ってしまう。慰安婦問題や侵略戦争の定義をめぐり安倍が本音をちらつかせた4月以降、オバマ政権は、中国との対話再開の道を探るよう安倍の背中を押し続けている。「調停者」として。

射爆場は台湾の要求
さて矢吹は、もう一つの「もやもや」に迫る。それは、久場島(黄尾嶼)と大正島(赤尾嶼)が、施政権返還後も米軍の射爆場として使用されてきた経緯と理由である。彼は蒋介石の息子である蒋経国(写真)の総統文書を引用し次のように書く。

―中華民国の周書楷駐米大使の後任、沈剣虹大使は一九七一年五月一三日に尖閣に射爆撃場をつくる提案(『蔣経国総統文書』No. 005-010205- 00159-015)を行い、翌七二年三月二六日には周書楷外交部長も台北駐在のW.マコノーヒ大使に対して尖閣諸島を米軍の射爆撃場とするよう提案(『蔣経国総統文書』No. 005-010205- 00013-002)している。前者は返還協定調印の約一カ月前であり、後者は返還協定が実行される約二カ月前であった―(p47)

なぜ台湾側が繰り返し要求を出したか。その背景と政治的意味について、次のように説明する。

―ニクソン政権は最終的に尖閣諸島を含む沖縄を日本に返還したが、同時に中華民国側に対しては「尖閣の主権問題は日台間で係争中」であり、「主権の最終状態」(final status)は「未定」である旨を台湾側に約束し、日本側にもこの問題で台湾側と協議するよう強い圧力をかけていた。ケネディ特使に至っては、尖閣のみは沖縄から切り離して、「返還棚上げ・一時米軍預かり」扱いとし、日台で領有権問題が結着した暁に改めて最終処理を行うことさえ提案していた。このケネディ特使提案に呼応する形で、台湾側は尖閣諸島を「米軍の射爆撃場」(U.S. firing range)とする提案を行ったと読むことができよう。
そこには二重の意味が込められていた。一つは、米軍が引き続き管理することによって日本への返還を骨抜きにすること。もう一つは中華民国政府の安全保障を守るという「米国の約束」の象徴として「射爆撃場を置き、米軍が引続き管理する」という意味だ―(p49)

解説は不要であろう。

不透明な「中立」の決定過程
本書が明らかにしたポイントは(1)領有権と施政権の分離は、進行中の繊維交渉と中国代表権問題でジレンマに陥ったニクソン政権の「窮余の一策」だった(2)米軍射爆場は、台湾の要求をニクソン政権側が受け入れた(3)米軍管理によって日本への返還を骨抜きにすることと、中華民国政府の安全保障を守るという「米国の約束」の象徴の意味があった―の3点にまとめられよう。ニクソン政権は、領有権をめぐる日台の対立に、「中立政策」をとるのだが、本書ではその決定過程は十分に明らかにされていない。それは著者自身が「国務省当局の、この『中立』策がどのようにして生まれたか、その背景は必ずしも明らかではない」と認めている通りである。
米政府は沖縄返還の際、台湾政府が尖閣の主権を主張している事実を公表するよう、蒋経国から要求される。これを受けて国務省は返還時に次のようなコメントを出したと、著者は書く。

―「国務省の立場は一九四五年に琉球と尖閣を占領し、一九七二年に返還するに際して、次のようなものだ。すなわち対立するクレームについては、いかなる部分についても、いかなる判断も行わない。それらは関係諸国間で直接に解決すべきである」。
米国はこうして、日台の対立する要求に判断を行わず、「両者間の直接解決を求める」、米国は日台の争いに対して「中立の立場を保持する」方針を採用したのであった―(p28)
国務省のコメントが、42年後の今も継承されている米国の「中立」の「ひな形」となっている点は興味深い。本書のタイトル「沖縄返還に始まる」を裏付けるコメントである。著者はまた、1971年5月23日付け『ニューヨーク・タイムズ』に、在米華人が意見広告「保衛釣魚台」を掲載し、「釣魚台は中国の領土であると主張した」という広告を引用(p17)した。興味深いのは、この広告が「……国務省マクロスキー報道官は一九七〇年九月一〇日に、米国は(主権問題について)中立を保つと言明しました」と書いている点である。その意味について著者は次のように書いている。

―尖閣の領有問題について「米国が中立の立場を保つ方針」を「一九七〇年九月一〇日の時点」で、すでに国務省スポークスマン・マクロフスキーが明らかにしたことに触れている。マクロフスキー発言を在米の保釣運動の活動家たちが知っていたことはきわめて重要であろう―(p17)

きわめて重要な論点だと思うが、筆者はそれにさらっと触れただけで、踏み込んだ解釈は避けている。筆者が解明したように、ニクソン大統領は沖縄返還協定調印10日前に「返還は施政権のみ。領有権ではない」という分離論を最終決定した。しかし国務省報道官がそれ以前に「中立」を表明していたとするなら、最終決定以前に国務省内ではその方向で既に一致を見ていたという傍証となるからだ。
そこで「尖閣諸島領有にかんする米国務省マクロフスキー報道官の質疑応答」(昭和四十五年九月十日)=日本外務省仮訳=で、その内容を紹介する。

―問 琉球列島の一部として米国の施政権下にある尖閣列島に中華民国の国旗がたてられたという報道があるが、尖閣諸島の将来の処置に関し、米国はいかなる立場をとるのか。
答 対日平和条約第三条によれば、米国は「南西諸島」に対し施政権を有している。当該条約中のこの言葉は、第二次世界大戦終了時に日本の統治下にあって、かつ、同条約中ほかに特別の言及がなされていない、北緯二十九度以南のすべての島を指すものである。平和条約中におけるこの言葉は、尖閣諸島を含むものであることが意図されている。
当該条約によって、米国政府は琉球列島の一部として尖閣諸島に対し施政権を有しているが、琉球列島に対する潜在主権は日本にあるものとみなしている。一九六九年十一月の佐藤総理大臣とニクソン大統領の間の合意(写真 自由民主党)により、琉球列島の施政権は、一九七二年中に日本に返還されることとされている。
問 もし尖閣諸島に対する主権の所在をめぐり紛争が生じた場合、米国はいかなる立場をとるのであるか。
答 主張の対立がある場合には、右は関係当事者間で解決さるべき事柄であると考える―。

発言のポイントを絞る。米国務省は70年9月の段階では、(1)尖閣にも日本の潜在主権が及ぶ(2)しかし主権争いがあれば、当事者間で解決すべきーと考えていた。広告でいう「中立発言」とは「主張の対立がある場合には、右は関係当事者間で解決さるべき事柄であると考える」を指す。
従って、中立政策に関して言えば、国務省内では少なくとも70年5月の段階で、事実上決定していたのではないかという推測が成り立つ。細かいワーディングは別にしても、マクロフスキー・コメントは72年の沖縄返還時の国務省コメント「対立するクレームについては、いかなる部分についても、いかなる判断も行わない。それらは関係諸国間で直接に解決すべきである」と、内容的には全く変わらないからである。
最大の問題は「尖閣にも日本の潜在主権が及ぶ」の部分である。筆者は、第3章「占領下沖縄の残存主権とは何か」の中で、「71年前半に生じた国際情勢の激変」が、ニクソン政権を「施政権と領有権との区別論」に「豹変」させたとみる。「国際情勢の激変」とは、「周恩来がキッシンジャーの訪中を歓迎する意向を示す」(71年5月29日)(p76)など、対中関係改善に向けた動きが始まったことを指す。さらに「中立の立場」は台湾向け配慮であり、「区別論」はニクソン訪中に向けた「土産の一つ」になったと解釈した。
状況証拠は、筆者の解釈を十分後押ししているし事実関係に争いはない。その上で、次のような解釈はできないだろうか。
沖縄返還をめぐる69年のニクソン・佐藤会談で、国務省は台湾の猛反対を認識していたから、まず最初に中立政策を決定した。しかし残存主権と施政権については、サンフランシスコ平和条約時の判断をそのまま援用した。それがマクロフスキー・コメントのなんとも苦しい論理展開につながったのではないか。その後返還交渉の最終段階で、中立政策の論理的整合性を補強するため、区別論をとったー。
「中立の立場」と「区別論」は本来一体のはずである。台湾向け、中国向けという対象別の意図というより、尖閣問題の主役である日中台に対し、中立政策の論理の整合性を保つための整理が、ニクソンの10日前の決断だったのではないか。これはあくまでも評者の推論である。最終的にニクソン政権の「豹変」を促した国際情勢の変化という筆者の認識は、評者も共有していることを付け加える。

「フツーの日本人の素朴な疑問に答える」と書いているように、平易な文章は読みやすい。多くの文献にあたり「当初は藪の中に迷い込み、藪蚊に悩まされる心境」「米国が日中台関係に介入するうえでのピナクル(尖閣)と化した」「『沖縄返還』と『日中正常化』という二つの戦後処理は、いわば臍の緒で結ばれていた。その「臍の緒」こそが尖閣問題にほかならない」など、巧みな比喩と筆者らしいネーミングがちりばめられている。

初出:「21世紀中国総研」の海峡両岸論第40号
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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