米軍基地を拒否する沖縄県民の声を伝える - [書評] 由井晶子著『沖縄 アリは像に挑む』(七つ森書館、¥1800円+税) -

著者: 岩垂 弘 いわだれひろし : ジャーナリスト・元朝日新聞記者
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 「これで日本の国民を代表する日本の首相と言えるだろうか」。さる9月21日、ニューヨークでオバマ米大統領との初の会談に臨んだ野田首相の対応を報じた新聞記事を読んだ時の感想だ。懸案の米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題で、オバマ大統領が同県名護市辺野古への移設を迫ったのに対し、野田首相が「沖縄県民の理解が得られるよう全力を尽くす」と応じたからである。沖縄県民の総意はすでに「県外移設」でまとまっているのだから、日本国民を代表する立場にある首相なら、沖縄側に立って沖縄県民の総意を米側に伝えるべきなのになんたることか、との思いを私は禁じ得なかった。そして、こう思ったものだ。首相以下の政府首脳は、この『沖縄 アリは象に挑む』を読むべきだ、と。

 筆者の由井さんは沖縄県那覇市の出身。1955年、沖縄タイムス(本社・那覇市)の東京支局に入り、81~83年の本社勤務を除き90年まで東京在勤。その後、本社で編集局長、論説委員を歴任し、97年に退職、フリージャーナリストとなった。
 本書は、由井さんが退職後、情報誌『労働情報』に1997年から14年半にわたって書き続けている「沖縄報告」の中から、基地問題に関するものをまとめたものだ。

 この14年半という歳月は、そのまま日米間で最大の懸案となつている米軍普天間飛行場移設問題と重なる。
 よく知られているように、この問題の発端は、1995年9月の米兵による少女暴行事件だ。これを機に市街地の中心にあった米軍普天間飛行場の返還を要求する運動が盛り上がった。このため、日米両国政府によって「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)が設置された。96年4月には橋本首相とモンデール駐日米大使が普天間飛行場の全面返還を発表。その直後、SACOは「5年から7年以内の返還を目指す」「移設には十分な代替施設が必要」「代替施設として海上ヘリポートへの移設を検討」との中間報告を発表した。
 同年暮れ、SACOは最終報告を発表したが、そこには「海上ヘリポートの建設地は沖縄本島東海岸沖」とあり、建設地はあいまいな表現となっていた。が、97年初め、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ地域が移設候補地とされた。
 これに対し、名護市で住民投票が行われ、辺野古への移設反対が過半数を占めた。しかし、名護市の比嘉鉄也市長は海上ヘリ基地の受け入れと辞職を表明。99年には、稲嶺恵一知事(革新系の大田昌秀知事を破って当選した自民党推薦の知事)が新基地建設は辺野古沿岸地域と発表、岸本建男名護市長も新基地建設の受け入れを表明した。

 こうした状況の中、2004年8月、普天間飛行場近くの沖縄国際大学に米軍の大型ヘリが墜落して炎上、普天間飛行場の返還を求める県民の声は一段と高まった。このため、日米両国政府はこの問題の決着を急ぎ、2006年4月、移設先を辺野古沖とすることで合意する。
 ところが、2009年9月、民主、社民、国民新党3党連立の鳩山内閣が成立、鳩山首相が「移設先は最低でも県外」と宣言したことから、この問題は新展開へ。が、鳩山内閣はついに辺野古に代わる移設先を見つけることが出来ず、2010年5月、米国政府との間で「辺野古への移設」を再確認せざるを得なかった。そればかりでない。こうした混乱の責任をとって鳩山内閣は総辞職、後継の菅内閣も「辺野古移設」の日米合意の順守を表明するに至る。
   
 本書は、こうした普天間飛行場移設をめぐる一連の動きを時を追って解明してくれる。米国政府、日本政府の動き、そして、沖縄の県知事、県議会、県民、名護市、名護市議会、名護市民の対応。これらの機関、人々が普天間飛行場移設問題にどのように向き合い、行動してきたかがよく分かる。
 14年半の動きを追ってゆくと、その間、大転換ともいうべき変化があったことに気づく。この問題が派生して以来、普天間飛行場の辺野古への移設について沖縄県内にあった「容認」「反対」という相対立する意見が、「反対」にほぼ統一されて行ったという事実である。
 転機は、2009年11月の「辺野古新基地建設と県内移設に反対する県民大会」の開催だった。以後、名護市長選で辺野古移設反対の稲嶺進氏が当選(2010年1月)、沖縄県議会が普天間の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書を全会一致で可決(同2月)、名護市議選で稲嶺市長を支持する与党が安定多数の議席を獲得(同9月)……といった流れが続く。

 その流れは、やがて頂点に達する。同年11月の知事選は、自民党が推す仲井間弘多知事と県政野党3党(社民党県連、共産党県委員会、沖縄社会大衆党)が推す伊波洋一宜野湾市長の対決となった。争点は普天間飛行場の移設問題で、仲井間候補は「県外移設」、伊波候補は「国外移設」を訴えたが、仲井間氏が再選された。
 仲井間知事の前任者の稲嶺知事は「辺野古移設」の容認者だったから、仲井間知事の公約「県外移設」は明らかに県政上の「方針転換」だった。この選挙結果は「国内外に『県外移設』は県民すべての意思であることを示した」(本書214ページ)ものとなった。
 よく知られるように、沖縄では、敗戦以来、 革新陣営が一貫して「米軍基地反対」だったのに対し、保守陣営は一貫して「米軍基地容認」というのが変わらぬ構図だった。が、普天間飛行場移設問題では、保守層までもが基地反対派化したのだった。

 こうした変化を生み出したものはいったい何だろうか。由井さんは書く。
 「仲井間知事は普天間の『県外へ』と転換した。そこまで追い上げたのは名護市民投票以来14年間、平和・人権運動から自然保護、生物多様性保持運動との連携へ、また名護から世界へと発展させてきた市民運動と、組織・団体・有識者グループである」(本書214ページ)
 地道な市民運動こそが、この全県的な転換を生み出してきたというのだ。 

 本書の出版記念会が、由井さんを迎えて8月26日、東京で開かれた。由井さんのあいさつを聴いていて、とくに印象に残ったことがあった。それは「かつての沖縄の基地反対運動は組織による動員だった。つまり、上からの指示による運動だった。しかし、今は、下からのネットワーク、つまり、住民の個人、個人が思いを胸に手をつなぎ合うというスタイルだ。こうしたスタイルが形づくられたことで、運動が持続性のあるものになってきた」との指摘だった。
 社会運動関係者にとっては傾聴に値する意見だ。

 本書の末尾で由井さんは書く。
 「沖縄では、原発事故のすさまじい被害を沖縄の基地と重ねて考えないわけにはいかない。最も貧しいところに、危険でまた地球に害を及ぼすもの、最も嫌われるものを、経済振興というアメをつけて押し付ける。地元はアメによって潤い、それに依存せざるをえず、将来に負荷がかかり自立が困難になる。その構造は、基地も原発も同じだ」
 沖縄の人たちの心を代弁したものと言っていいだろう。

 本書の副題は、辺野古で新基地建設の反対運動の中心的なメンバーだった故金城祐治さんの言葉だという。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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