大手化学メーカー、住友化学のウェブサイトで「アフリカ支援」のページを開くと、子ども二人が蚊帳の中に座る写真に「マラリアを予防する。」との文字が添えられた画像が現れる。米倉弘昌・経団連会長が会長を務めるこの会社は、農薬蚊帳の普及によるマラリア予防を社会貢献活動の柱として推進し、それを企業活動のシンボルにしている。
この農薬蚊帳「オリセット・ネット(以下、オリセット)」は、世界保健機関(WHO)によって2001年に「効果が長期間続く殺虫剤処理蚊帳」の第1号に推奨された。以後、ユニセフ(国連児童基金)などが買い上げてアフリカなどで無償配布されており、日本の外務省も政府開発援助(ODA)資金を「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)」(注1)に拠出して、積極的に支援している。
だが、この農薬蚊帳の効果や安全性には、一部のNGOから強い疑問が提起されている。09年7月のNGO・外務省定期協議会では「第三者機関で効果、費用、安全性を科学的に評価すべき」との意見が出され、さらに12年7月3日には東京・早稲田で国際開発学会・社会連携委員会の主催によるメーカー側との意見交換会が開かれた。
いったいどこに問題があるのだろうか。調べると、使われている殺虫剤に当初は未知だった毒性が次々に明らかになっていた。加えて、「いのち」に対する想像力を欠く企業の体質や、途上国の貧困層まで市場化してしまうグローバル化の実相、そしてマラリア撲滅の国際戦略が農薬に偏重している実態も浮かんできた。
(まず「上」では、農薬蚊帳オリセットが無駄で危険なアフリカ支援であることを述べる。そこでは毒性学や脳科学の最新の研究に基づき、農薬などの子どもたちへの健康被害が明らかにされる。続く「下」では農薬蚊帳が含んでいる問題点を解説する。そこでは日本を代表する企業の体質や、経済産業省が推奨する「BOPビジネス」のいかがわしさ、WHOという国連機関の実態が明らかにされる)
◆読売国際協力賞を受賞
マラリアはハマダラ蚊が媒介する感染症で、エイズ、結核と並ぶ三大感染症の一つとされる。その予防のために開発されたオリセットは、ペルメトリンというピレスロイド系の殺虫剤(農薬)を(重量で2%分)練りこんだポリエチレン繊維で編んである。網目を蚊が通れるほどの大きさ(4×4ミリ)にしてあるので、蚊が通過するとき蚊帳にとまり、蚊帳から浸みだしてくる殺虫剤で駆除されるという(注2)。
住友化学はWHOの推奨を得てからオリセットの生産を段階的に増やし、とくに08年にWHOがサハラ以南の国々で「住民2人に1張りの農薬蚊帳を配布する」という方針を決めたのを受けて、世界での年間生産能力を6000万張りに拡充した。WHOは現在、長期残効型蚊帳としてフェスターガード・フランゼン社(デンマーク)の「パーマネット」(ピレスロイド系殺虫剤のデルタメトリンを使用)など13種類を推奨しており、オリセットはパーマネットに次ぐシェアを占めている(注3)。
オリセットの生産工程のうち、ポリエチレン配合ペレットを溶融・紡糸して蚊帳に加工する工程は中国などで行っていたが、03年からはアフリカでも始めた。
まずタンザニアの蚊帳メーカーに技術供与して生産を始め、07年には合弁会社を設立した。間接的な効果を含め7000人の雇用を現地で創出したという。単なる慈善事業ではなく、技術移転によって雇用を創出し、支援先の経済自立に貢献しているというのが同社の売りである。
この事業は日本政府だけでなく、マスコミも高く評価している。06年には朝日新聞社が「第3回朝日企業市民賞」に選び、12年10月には読売新聞社が「第19回読売国際協力賞」を与えている。選考委員会座長の佐藤行雄・日本国際問題研究所副会長は「企業の国際貢献のあるべき姿を示している」と称賛を惜しまない(『読売新聞』12年10月23日)。
◆耐性もつ蚊の出現
いいところだらけに見えるオリセット事業だが、早くから強い疑問を感じる人たちがいた。その一人がNPO法人「サパ=西アフリカの人達を支援する会」の野澤眞次事務局長だ。
野澤は企業人として27年間、東南アジアで熱帯農林業に携わった後、NGOを設立して15年間、西アフリカで貧困解消の活動をしてきた。マラリアとの付き合いが長く、予防法を体験的に熟知している。
サパ事務局によれば、農薬蚊帳の問題点は大きく分けて三つある。
第1は、マラリア予防には、網目を蚊が入り込めない2×2ミリにした「普通の蚊帳」で十分であることだ。
同じ熱帯に位置していながら、東南アジアではマラリア被害がきわめて少ない。それは普通蚊帳が昔から普及していたからではないかと野澤はみる。またサパがギニア共和国の4集落で普通蚊帳を配布し、4カ月間調べたところ、蚊や他の虫による子どもたちへの被害はほぼゼロだった。
これに対し住友化学はいくつもの研究から農薬蚊帳の防除効果は歴然と説明するが、普通蚊帳の効果を否定はしていない。普通蚊帳を配布した場合の効果をきちんと調べるべきだ。
普通蚊帳なら現地の中小・零細企業で製造できるが、農薬蚊帳の製造には先進国の技術が必要だ。農薬蚊帳の無償配布の影響で倒産した現地蚊帳メーカーも出ているという。
また農薬蚊帳は使用後の廃棄処理が難しい。農薬が残った蚊帳を放置すれは、環境汚染や健康被害を起こしかねない。住友化学の水野達男ベクターコントロール事業部長は12年7月3日の意見交換会で、使用済みの蚊帳は回収し、燃料油として再利用する方針だと述べながらも、すべての蚊帳の回収は困難であることを認めた。また燃料油に不純物などが含まれている場合、燃やすと他の有害物質が発生する可能性があるのではないかとの質問には返答しなかった(注4)。
農薬蚊帳がはらむ第2の問題点は、殺虫剤に抵抗性(耐性)をもつ蚊が必ず発生し、効果が薄れることで、これはWHOも重視している。
WHOの『ワールド・マラリア・リポート2011』(注5)によると、ピレスロイド系殺虫剤に耐性をもつ蚊が39カ国で発生しており、うち27カ国がサハラ以南の国々だ。これらの国々で網目の大きい農薬蚊帳を使えば、蚊が通過して中にいる人々を刺すことになる。
これについて住友化学は、耐性蚊にも駆除効果のある新タイプ「オリセット・プラス」(オリセット・デュオともいう)を開発し、それに切り替えていく方針だ。WHOの推奨も得た新タイプは、ピペロニルブトキシド(PBO=注6)という共力剤(農薬の効果を高めるために添加される薬剤)を加えたもので、現在のオリセットより殺虫力が約6割高いという。
しかし、新タイプにもやがて必ず抵抗性をもつ蚊が発生する。いたちごっこをいつまで続けるのだろうか。
◆時代遅れの安全性評価
第3の問題点は、蚊帳に練りこまれるペルメトリンの毒性(安全性)である。これは最大の論点なので詳しく検討しよう。
オリセットの安全性に関する住友化学の説明は3段構えになっている。まず、ピレスロイド系殺虫剤は除虫菊の花に含まれる殺虫成分(ピレトリン)と類似の化学構造をもつものであり、「除虫菊の成分なので、人体に影響はない」という(注7)。
次にペルメトリンについては「高い殺虫活性を有するが、人を含む哺乳動物への影響はきわめて弱いことが各種実験で確かめられており、発売以来、30年以上にわたり農業分野や公衆衛生分野で使用されてきた。米国では、アタマジラミ駆除用のシャンプーなど、人体に直接用いる薬品の成分としても利用されている」と説明する(注8)。
さらに農薬蚊帳オリセットについては、新タイプも含め「WHOの定めた指針に基づいて、蚊帳として人での使用の実態(接触、摂取など)を想定した安全性評価がすでに実施され、十分な安全性が確保されている」と述べる。
しかし、これらの説明にはいずれも疑問がある。まず、ピレスロイド系殺虫剤といっても、人工合成されたものは(分解しやすい除虫菊由来の)ピレトリンと違って自然物にはない化学構造を有しており、必ずしも安全とはいえない。
たとえばペルメトリンは、2重結合の炭素に塩素が結合した危険な構造を含んでおり、水生生物への毒性が非常に強く、しかも影響が長期に続くことがわかっている。このため欧州連合(EU)では00年に農薬登録が抹消されている。
国際化学物質安全性カード(注9)によれば、ペルメトリンは短期の曝露で「眼、皮膚、気道を刺激する」ので、扱う場合は「粉塵の拡散を防ぎ、換気をし、保護手袋や保護衣、顔面シールドを着ける」よう指示している。このような農薬を身の回りで使って大丈夫なのだろうか。
もっともペルメトリンについてEUのような措置をとっている国・地域はまだ少なく、多くの国々ではいまなお多用されている。日本でも農薬登録が継続され、農薬として使用されているほか、シロアリ駆除剤、動物用医薬品、害虫用殺虫剤などとしても使われている。
ペルメトリンが日本などで広く使われているのは、安全性評価(審査)が不十分なせいだ。これらの国では動物実験によって「無毒性量」(これ以下なら毒性を発揮しない量)が定められ、それに安全係数(100分の1)をかけた用量以下なら人間の健康に悪影響はないという考え方で安全性が評価されている。
ところが近年、農薬を含むさまざまな化学物質に「低用量作用(影響)」のあることが明らかになっている。たとえば、無毒性量をはるかに下回る低用量の曝露(摂取)で(種の保存や生命の維持に重要な役割を果たす)内分泌系(ホルモン)を攪乱する物質があるし(いわゆる環境ホルモン)、子どもの脳神経系の発達を阻害する物質もある。こうした毒性学のパラダイム・シフト(基本的な考え方の転換)はまだ、ほとんどの国や国際機関の安全性評価には反映されていない(注10)。
◆毒性が次々明らかに
そして近年、ペルメトリンなどついて具体的な毒性が次々に明らかになっている。
在野の研究者、渡部和男によれば、脳の発達に関する研究がこの20年ほどの間に飛躍的に進み、哺乳動物の周産期(ヒトでは妊娠22週から出生後7日未満まで)などが脳の発達にとって決定的に重要な時期であることが分かった。この時期にDDTやPCB、ニコチン、有機リン系農薬、パラコート(除草剤)などをごく低レベルでも被曝すると脳機能に不可逆的な変化を招くことが、動物実験で明らかになっている。ピレスロイド系農薬もそうした物質の一つである(注11)。
たとえば01年に発表された研究は、妊娠中のラットに1週間、ピレスロイド系殺虫剤のデルタメトリン(パーマネットに使われているもの)を少量投与し、生まれた子ラットを生後6週目と12週目に迷路学習を用いて調べたものだ。その結果、デルタメトリンに曝露された子ラットは曝露されない子ラットより記憶能力が低かった。こうした結果はピレスロイド系殺虫剤に共通する可能性があるという。
ペルメトリンについては11年8月、曽根秀子・国立環境研究所主任研究員らによる研究結果が国際科学誌に掲載された(注12)。
それによれば、妊娠マウスにペルメトリンを投与し、子マウスへの影響を調べたところ、胎仔マウスの脳の血管が短いなど脳血管の形成に異常が確認された。また生まれた子マウスの自発行動に異常が確認された。脳血管の異常は子どもの発育への影響だけでなく、脳梗塞など重篤な病気の原因になる可能性がある。
さらに新タイプのオリセットに使われるPBOについては、米国コロンビア大学のチームが11年2月の小児科学誌に疫学研究を発表している(注13)。
この研究は、(PBO添加のペルメトリンがゴキブリ駆除剤などとして多用されている)ニューヨーク在住の妊婦とその子たちを対象に3年間行われた。その結果、高濃度のPBOに曝露されていた母親から生まれた子どもは、3歳児の知能テストで、低濃度曝露の3歳児より精神発達が遅れていたことが分かった(注14)。
住友化学が主張する三つめの点である「WHOの指針に基づく安全性評価」についていえば、同社が(農薬蚊帳使用時の子どもたちのペルメトリン被曝量など)具体的なデータの公表を拒んでいるので、検証できない。
しかも、農薬蚊帳に使用されているピレスロイド系殺虫剤の危険性について、WHOも住友化学も十分に承知していると思われる内部文書が最近、明らかになった。
これは「農薬蚊帳の包装材の安全管理に関する暫定的推奨策の草案」と題された文書で、農薬蚊帳を包装した袋や梱包した材料の正しい処分方法を検討したものだ。11年11月に関係者に公開され、意見を求めている。
それによると、包装袋などには農薬が付着している可能性があるので、正しく扱わなければ人体と環境に有害な影響を及ぼすとし、厳重な管理を求めるとともに、袋などの収集・分類・リサイクル・廃棄にかかわる人は、適切な防護用具を使用しなければならないとしている(注15)。
包装材でさえそれほど危険なものであれば、農薬蚊帳そのものはどうなのだろうか。大人は毎日、蚊帳を吊ったり外したりするし、子どもは直接触ったり舐めたりするに違いない。「回収、廃棄に携わる人にはこれほど綿密な予防措置をとっておきながら、農薬蚊帳を使う子どもたちは今後、一体どうなるの」。この文書を見つけた則武都子(サパ事務局)は憤りを隠さない。
以上をまとめると、子どもたちをマラリアから守るために配布されている農薬蚊帳が、実はその健康を蝕んでいる可能性があるということになる。こうした場合は「疑わしきは使用せず」の予防原則に基づき農薬蚊帳の使用を控えるのが賢明であり、それが日本を代表する企業として取るべき態度だろう。(敬称は略しました)
注1 世界基金は途上国の三大感染症対策を支援するため、2002年に設立された国際機関。先進国などが資金を拠出し、途上国が行う予防・治療・ケアなどの事業に資金を提供している。
注2 従来の農薬蚊帳(ITNs)は半年ごとに農薬液に漬けて殺虫成分を浸みこませる必要があったのに対し、オリセットなどの「長期残効型蚊帳」(LLINs)は殺虫成分を練りこむなどの措置をしてあるので、効果が3~5年間続く。
注3 すべての推奨蚊帳がピレスロイド系殺虫剤を使っており、これらの農薬蚊帳にもこの記事で指摘する疑問はほぼ当てはまる。
注4 使用済み蚊帳の処理についての私の質問に住友化学は「共同研究をしている企業との秘密保持契約上、現段階では答えられない」と回答してきた。
注5 http://www.who.int/malaria/world_malaria_report_2011/en/。マラリアに関する統計数値やWHOの対策の内容は原則としてこれによった。
注6 PBOはピペロニルブトキサイドともいう。日本では農薬(殺虫剤と植物調整剤)としての登録は失効しているが、食品添加物としては認可され、使用されている。そのほか衛生害虫用殺虫剤や動物用医薬品にも添加されている。さらに別の農薬の補助成分やシロアリ防除剤にも使われている可能性があるが、表示義務はなく、実態は不明だ。パーマネットの新タイプもPBOを使っている。
注7 たとえば米倉弘昌・住友化学社長(当時)の発言(08年5月27日づけ『毎日新聞』)。
注8 ペルメトリンのアタマジラミ駆除用シャンプーを使った子どもたちの尿から、ペルメトリンの代謝物が未使用時より高濃度で検出されたという研究が09年に米国で発表され、研究者たちは危険性を警告している。
(http://www.beyondpesticides.org/dailynewsblog/?p=1313)。
注9 国際化学物質安全性カード(ICSC)は、働く人たちが使用する化学物質について健康や安全に関する重要な情報を簡潔にまとめたもの。WHやUNEPの共同事業として作成されている。
注10 遠山千春・東京大学大学院教授は、低用量影響は多数の実験によりすでに確認されており、毒性学の基本の革新的変化を考慮した化学物質の総合的リスク評価手法を確立する必要があると述べている(木村-黒田純子「環境ホルモン研究の現状」〈ダイオキシン・環境ホルモン問題対策国民会議=以下、国民会議=『ニュース・レター』76号〉)
注11 渡部和男「ピレスロイドの発達中の神経系に対する影響」(渡部のサイト)
注12 曽根秀子ら「胎児期曝露によるピレスロイド系農薬の子どもの発達への影響」(国民会議『ニュース・レター』74号)
注13
http://pediatrics.aappublications.org/cgi/content/abstract/peds.2010-0133v1
(化学物質問題市民研究会の安間武によるアブストラクトの邦訳が同研究会のサイトにある)
注14 以上のような最新の研究成果について住友化学に見解をただしたが、回答はない。
注15 この文書によれば、サハラ以南の地域で08年~11年6月末に合計約3億4000万張りの農薬蚊帳が配布され、12年もほぼ同数が配布される見通し。文書は完全な処分方法が確立するまでの暫定的な方法として、切り刻むなどして再利用できないようにすることと、住宅地や水源から離れた浸透性の少ない土壌に埋めることを推奨している。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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