経済大国中国の、度しがたい人権後進国性。

(2022年10月22日)
 本日、第20回中国共産党大会が閉幕。胡錦濤強制退去の一幕も含めて、面白くもおかしくもないシラケたセレモニー。要するに習近平一強独裁体制を追認し、さらに習近平個人崇拝路線確認の儀式。一党独裁にも辟易だが、個人崇拝となるとカルト並みの不愉快さ。

 かつて、毛沢東の権力集中と個人崇拝に鄧小平が異を唱えたとき、私は事情よく分からぬまま「社会主義の正統に修正主義派の横槍」と解した。今となっては、不明を恥じるばかり。だが、その開明派・鄧小平も、天安門事件では民衆に銃口を向けることをためらわず、人権と民主主義の芽を摘んだ。以来中国は、社会主義の理想も民主主義の理念もない、専制と拝金主義社会に堕したまま今日に至っている。

 改革開放政策が始まった当時には確かな希望を感じた。中国が外部世界に開かれ、人と物と情報の流通が繁くなれば、水が高きより低きに流れて落ちつくように、自ずから中国の民主化も進展するだろうと楽観しのだ。が、この期待は見事に外れた。

 中国は経済的には興隆し発展した。しかし、政治的自由は育たなかった。そもそも民意を反映する選挙制度がなく、相も変わぬ一党独裁。国内少数民族の弾圧が続いている。人権は無視され、言論の自由も、信教の自由も、三権分立も、裁判の公開原則すらない。経済大国ではあっても人権後進国と言わざるを得ない。

 鄧小平の言葉として知られる「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るのが良い猫だ」論。改革開放政策の合理性の説明として耳にした。目的さえ見失わなければ手段にこだわる必要はないの比喩だが、目的と手段の内容の理解次第で、どのようにも解釈ができる。

 「資本主義でも社会主義でも、役に立つならどちらでもよい」「私的利潤追求活動が貧富の差を拡げるとしても、社会の富を増すのだから肯定してよい」として、「先富論」を肯定したと理解した。

 大事なことは、けっしてこれを政治原則の理解としてはならないことである。「民主主義だろうと専制だろうと、人民を喰わせることができればどちらでもよい」「究極の目標は国家の富の蓄積である。そのために民主制が有用であればこれを採用し、独裁がより合理的であればそちらを採用する」「人民の自由の獲得という条件が成熟するまでは、一党独裁でも個人崇拝でも『良い猫』である」などと言ってはならない。
 
 人権・民主主義は、手段的価値ではない。それ自体が目的的価値なのだ。他のどんな究極的目標をもってしても、人権・民主主義をないがしろにしてはならない。「人権・民主主義にはバリエーションがある。中国では中国式の人権・民主主義を実践する」などと詭弁を弄する姿勢は醜悪というほかない。
 
 好意的な報道では、高度成長に成功した鄧小平時代が終わり、中国の伝統とマルクス主義をミックスした「中国式現代化」を目指す「習近平時代」が本格的に幕を開けた、という。
 
 鄧は経済が遅れた中国では資本主義的手法が許される初級段階が少なくとも100年は必要だと考えた。これが、社会主義の旗を降ろさずに資本主義経済を進めることの方便となり、不均等発展を容認する「先富論」をもなった。
 今大会での習の報告は、「なお初級段階にある」と触れただけで「長期」は消えた。代わりに「中国式現代化」「時代に適合したマルクス主義の中国化」という言葉が登場した。こうして、「先富論」は、「共同富裕」というスローガンに置き換えられることになろう。

 だが、こうも報道されている。「鄧は、毛沢東に権力が集中し個人崇拝を生んだことを反省して、『任期制』を採用し、『集団指導体制』を強めた。そのどちらも、習近平によって破られた」。こうして、習近平に権力が集中し、習欣平個人崇拝が生まれることになる」

 なんとも憂鬱な中国状況である。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.10.22より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=20176

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