絵画の中のマルチチュード

何も持つものはなかった。未来はなかった。だから二人は小さなことにこだわった。

              ―アルンダティ・ロイ、『小さきものたちの神』(工藤惺文訳)

 三鷹市美術ギャラリーで2021年12月4日から収蔵作品展Ⅱと題される展覧会が前後期二期に分けて開催されている。前期は2022年1月16日までで、すでに終了しているが、後期は2022年1月22日から2月27日まで開催されている。前期は赤瀬川原平、荒木十畝、池田龍雄、池田満寿夫、池田良二、一原有徳、上前智祐、宇佐美圭司、宇留河泰呂の九名の現代美術画家の作品が、後期は瑛九の作品が出展される展覧会であり、私は特に、宇佐美圭司と瑛九の作品を見たいと思ったが、先ずは前期の九人の画家達の作品を見るためにこの市民ギャラリーへ行った。

 今回の展覧会で見ることができる画家の作品の中で、私は、池田龍雄に対しては「目の呪縛からの解放:池田龍雄の絵画について」(以後サブタイトルは省略する) というテクストの中で、瑛九に対しては「瑛九の点描画」というテクストの中ですでに考察を行っている。池田に関する論考も瑛九に関する論考もこのテクストと深く関連するゆえに、この二つの論考の中心的探究課題であった三つの問題=概念を最初に語っておく必要がある。それは点描とマルチチュード(multitude) とアナクロニズム(anachronisme) という考察視点である。この三つの問題=概念は現代絵画における根本的な探究課題であるだけではなく、この三つの問題=概念の持つ横断性、対話性、意味生成性は現代思想、政治、社会、経済とも交差するものでもある。

 ここでは、今回の展覧会の前期作品を見ることによって発見できたいくつかの注目すべき観点を上述した三つの問題=概念を通して、瑛九と宇佐美圭司の点描画の持つ可能性とわれわれが生きている現代という時代が浮かび上がらせている新たな意味形成の方向性という視点に立って、究明していきたいと思う。

点描

 この問題については上述した「瑛九の点描画」の中で詳しく検討したが、このテクストではそれとは別な角度から考察していきたい。それは解体構築(déconstruction) に基づく大きさと形態に係わる角度からの考察である。そのために、先ず、「目の呪縛からの解放」の中でも引用したワシリー・カンディンスキーの『点・線・面―抽象芸術の基礎 (カンディンスキー著作集2)』(西田秀夫穂訳) の中にある「(…) われわれの観念にある幾何学上の点は、 沈黙と発言
との最高且つ唯一の 結合なのである」(訳文の「,」は「、」に変更している。以後の彼の言葉の引用はこの本からである)」という言葉に関して検討してみたい。点は始まりであると共に終わりである。終わりであると共に始まりである。点の持つこの特有性については「目の呪縛からの解放」でも強調したが、それに加えて、ここではカンディンスキーのこの発言が西洋絵画史における解体構築の展開として捉えることもできる側面に注目したい。彼は具象画と抽象画における点の持つ存在性をこう述べている。「前者にあっては、要素《それ自体》の有する響きは、ヴェールに覆われ、抑圧されてしまう。抽象絵画においては、それは、ヴェールをかけられることなく存分に鳴り響く。そこでは、それこそ小さな点までが、抗辯の余地なき証言の役を果たすことができるのだ」と。これは点の独自の力、エネルギーの可能性についての言説である。

 一般的に、絵画とは遠い世界の中で生きている人は点描と言うと、ジョルジュ・スーラが描いた「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886) のような、ある形態を構築するために要素分解された細かな点によって描かれた絵を思い浮かべてしまうのではないだろうか。それは具体的なある形を表すための一技法であり、その場合、点は下位要素あり、上位要素である何らかの形態 (線や面) に従属するものであり、上位要素の抑圧から解放されることはない。だが、点一つ一つの存在性を損なうことなく、ある形態を絶対的に表すのではなく、ある形態の生成の方向性だけを表すことができるならば、それは現代絵画が目指すべき新たな道を作り出す試みとなるのではないだろうか。「瑛九の点描画」において私が考察した問題は瑛九の「田園」(1959) という作品の持つ、そうした新たな創造性についてであったが、こうした創造性 (私はそれを「マルチチュードの可能性」と形容した) は、今回の前期の展覧会を見て、瑛九だけが目指したものではなく、1950年代後期から2000年代にかけて、宇佐美圭司をはじめとする日本の現代美術の多くの画家達に共通した一つの探究方向性であったのではないかと思われたのだ。

 ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオはインディオの世界を描写した『悪魔祓い』(高山鉄男訳:以後、ル・クレジオの言葉の引用はこのテクストからである) の中で、「美は偶然を好まず、個人的な不安には関心がない。美はその知恵と言語を完結する。美とは、世界と浸透しあうことであり、世界に対する優しさだ。美は支配せず、消耗させもしない。美にとって大空を飛ぶことや、自然力の破壊が何になろう。美は人間を破壊することを欲しない」と書いている。インディオの世界の美とは自然との共生と調和による意味生成性である。それゆえ、インディオが描く文様は、終りが破壊ではなく始まりであることを、始まりが新たな創成のための終わりであることを示している。始原と終焉が交じり合い、反発し合いながらも一体化しようとするダイナミズム。だが、近代文明に完全に侵食されてしまった現代美術の画家達はインディオ達のように謎に満ちた神聖な形態を想像することも、生み出すこともできない。もしもインディオの世界に匹敵する美の世界を構築することを望むならば、解体と再生の物語を新たに作り出さなければならない。その物語はマルチチュードと呼び得るものである。

 

マルチチュード

 個であることと全体の一部であることが矛盾しないような存在について考えることは可能であろうか。個が個であり続けるならば、それは他の個とは常に別な存在であり、それぞれが同一のものとして存在することは不可能である。また、個が全体の構成要素にしか過ぎないのならば、それは全体の部分にしか過ぎず、個ではない。それゆえ、個であると同時に全体の部分であることは両立し得ないことのように思われる。だが、生成と崩壊、崩壊と生成の過程において、この矛盾は解消されるのではないだろうか。それがまさにマルチチュードの瞬間である。

 アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの思想の根本概念の一つであるマルチチュード。私が知る限り、彼らが美術的概念語としてこの言葉を使ったことは一度もない。だが、『マルチチュード:<帝国>時代の戦争と民主主義』(幾島幸子訳、水嶋憲一、市田良彦監修) の中での「習慣の形成や行為遂行性、あるいは言語の発達と同じく、<共> の生産は指令や情報を発する何らかの中心点によって導かれるものではないし、個人間の自然発生的調和の結果として生み出されるものでもない。それは、間の、、空間、コミュニケーションからなる社会的空間において姿を現す。マルチチュードは協同的な社会的相互作用のなかで測られるのである」という彼らの言葉が表しているように、マルチチュードは個でありながら全体を構築していこうとする、個と全体との間で作動するダイナミズムである。このダイナミズムを絵画における図像化という視点に応用するならば、また、カンディンスキーの三分法に従ってそれを述べるならば、マルチチュードは線や面ではなく、点によって表現する必要性があるのではないだろうか。それも、自己存在を強く主張する大きな点ではなく、小さな無数の点がある方向に向かおうとしている様態を表現していく必要性があるのではないだろうか。何故なら、空間を埋める特異性と独立性を有する点だけが、線の持つ直進性や限界性、面の持つ占有性や閉鎖性を超越できるからである。

 ここで今回の展覧会にあった宇佐美圭司の何点かの油絵に目を向けよう。先ずは、1960年代に制作された「還元」(1963)、「レイチェル」(1965)、「連帯」(1968) を比較してみよう。「還元」は点描ではないが、白いキャンパスの上に点に非常に近いタッチで置かれた連続的な痕跡によって表現された作品である。この作品は誕生しようとする様態を提示しているように私には思われる。形になる手前の点の集合の運動性を宿した姿がそこに現前しているからである。それはマルチチュードへと向かう直前の形態のように私には思われる。「レイチェル」は形ができる前の混沌から逃れようとする姿である。世界は無秩序から何らかの秩序に向かっているが、その形態は荒々しく、激しい、生みの苦しみに色づけられている。だが、「連帯」では線が規則的な方向性を刻印している。統一された動きがそこにはあるが、まるで空想的ユートピア思想のように、軽妙過ぎる軌跡の遊戯をそこに見てしまうのは私だけであろうか。それはあまりにも安易な調和。もう一度壊されなければならない仮の統一体。多分、そうであるからこそ、約二十年後に「切断の内側に空が」(1987) が創作されたのではないだろうか。二十年の歳月を経て、宇佐美は統一された形態が不十分であり、その方向性に満足できないことを痛感したゆえに、「切断の内側に空が」という更なる解体構築を行った作品を生み出したのではないだろうか。だが、それは完成ではなく、一つの通過点であったはずだ。

 絵画的マルチチュードという側面から見て根本的な問題は、個と全体とが同時に存在すること、多様性と全体的調和が同時に存在すること、過去、現在、未来が直線的に並ぶのではなく同時にそこにあることである。こうした形の原初的様態を生み出すための一つの大きな手法が点描であると私には思われる。それも、その点描は・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」ように描かれたものではなく、瑛九の「田園」のように描かれた作品である。今回の展覧会の宇佐美圭司の作品を凝視すれば、彼の作品の中にある解体構築の歴史の跡を追うことが可能であると共に、マルチチュードの可能性を追い求めた現代美術作家が瑛九だけではなかったことが明確に理解できる。次のセクションでは絵画空間が示す時間性という問題を導入しながら、マルチチュードについて考えてみたい。何故なら、それは絵画の持つ対話性であり、また、それはマルチチュードという概念をヴァルター・ベンヤミンの星座(Konstellation) という概念へと開示していくものだからである。

 

アナクロニズム

 生成と崩壊との同時性は、時間概念を過去、現在、未来と並列しようとする西洋的な時間の直線性を打ち破るだけでなく、空間概念における点、線、面という広がりを発展として捉える世界観をも打破する。点による描写は徴候としての意味生成性を有しているからである。この点に関して、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは『イメージの前で:美術史の目的への問い』(江澤健一郎訳、以後サブタイトルは省略する) の中で興味深い指摘を行っている。彼は「(…) 徴候とは、危機的出来事、特異性、侵入のことであるが、しかし同時に意味に満ちた構造の、体系の発動である。出来事はこの体系を出現させる役割をするが、しかしその意味作用の安定した総体としてではなくまさに謎として、あるいは指標現象、、、、として現れるように、この体系を部分的に、、、、、矛盾状態で、、、、、出現させるのである」と述べ、更に、「(…) 徴候は二重の面を、輝きと隠蔽、事故と至高性、出来事と構造という二重の面を持つ記号論的実体なのだ」と述べている。ディディ=ユベルマンのこの発言は徴候という現象に対する指摘であるだけではなく、瑛九の「田園」や宇佐美圭司の「還元」といった点描画や点描画に近いタッチの作品が有する対立する二面性を同時に有する絵画に対する鋭い指摘ともなっている。何故なら、こうした作品における点、あるいは、点に近いタッチの一つ一つの痕跡は出来事の印を表し、その形態の出現性は構造化を表しているからである。

 この二重性は別の響きを持っていることも注記しなければならない。その響き、あるいは、反響はアナクロニズムという概念と関係する。宇佐美圭司は『20世紀美術』の中で、現代美術の有する崩壊へと向かう方向性について論述している。遠近法の確立によって、安定して、調和的で、具体的な形の追求が可能となった西洋美術は、遠近法を基盤とした写実的方法を極限まで高めっていったが、もうそれ以上に高く上ることができなくなった時に、遠近法と具体的な写実性を徐々に壊していくようになる。印象派の登場以降、この解体構築へと向かう流れは留まることなく流れ、濁流となり、やがて激流となり、西洋美術の伝統的形態を打ち砕いく。1950年代から1980年代の米ソ冷戦時代。アメリカとソ連という政治イデオロギーの二大陣営において、この美術史上の崩壊過程は極北に至った。宇佐美はアメリカ現代美術における貪欲なオリジナリティー至上主義の一つの結果である、巨大さと強さへの追求がもたらした美術界の極端な貧困化に対する詳細な論考を行っている。彼は上記した本の中で新たな方向性と彼が還元的情熱と述べている方向性の再構築 (それは「解体構築」という語を用いて表した方がより正確な論述になると思われるが) を模索しようとしている。それは不毛で、陳腐で、醜悪な巨大化と強大化を否定し、アナクロニズムへの道を切り開くものである。

 西洋近代の構築した直線的時間性への疑念を呈し、宇佐美は『20世紀美術』において、「シュール・レアリズムとアブストラクト・ペインティングに至るさまざまな試みの全体を超えるのに、「大きさスケール」と「強度」が必要であった。そしてその「大きさ」と「強度」が第二次大戦後の世界の美術界の価値基準をつくりあげたのである」と語り、その結果に対して、「それらは、より強く、より大きくといった拡張主義、進歩主義につながっている。そしてそれは人間不在の美術、美術の死への道につながっている」と語っている。この膨張し、爆発しそうになった現代美術の限界点を踏み超えれば、残されるものは砕け散り、散逸していく破壊の道が残されるだけである。しかし、その崩壊のドラマが再生への息吹を孕んだものとなったとしたら、どうなるであろうか。『廃墟巡礼:人間と芸術の未来を問う旅』において、宇佐美は「人は未来を思考しようとして過去を振り返る。振り返る過去の姿が二〇〇年であるか、二〇〇〇年であるかは、未来のイマジネーションに大きな影響を与えるだろう。死んでしまったと思われる「時」が、未来へと反転して語り出す。私たちはその声に耳を澄まそう」と述べているが、この考えにじっと耳を傾ける時、ミハイル・バフチンの対話に関するあの語りの言葉が聞こえてはこないだろうか。時間的にも、空間的にも隔たった二つの言説であっても、微かな主題的な接触によって、語りの僅かな類縁性によって対話関係を構築するという語りが。それはアナクロニズムが持つポリフォニーの響きである。

 

ポリフォニー的概念

 解体構築、マルチチュード、アナクロニズム、星座という概念は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの用語を使えば、横断性(traversalité) を有する概念であり、これらの概念を美術概念として用いるためには、スラヴォイ・ジジェクの言葉を使えば、「斜めから見ること(looking awry)」を行なわなければならない。しかしながら、横断性や斜めから見ることが必要であるということは、哲学、政治、社会といった美術とは異なる領域の歴史的方向性が美術の歴史と同一の方向性を有しているという証明になるのではないだろうか。このセクションでは、ここで考察した四つの中心概念について、それらの連続性は何か、それらの基盤となる始原的マグマは何かという点を検討していきたい。

 『20世紀美術』の中で、第二次世界大戦後の数十年、趨勢を極めたアメリカの現代美術を強く批判し、宇佐美は「「進化」という考え方は、変化の最終形にスポットをあて、その過程全体を対等にあつかうことをなしえない。還元的情熱が表現の改革を主張したその全過程が対等に検討されるべきであり、抽象表現に到りついた、、、、、という発想、およびその到達点をさらに発展させようという「進歩」概念は修正されねばならない」という発言を行っている。この発言にある考え方は、ネグリやハート、あるいは、ジャック・アタリが現代の世界の様相に対する分析概念として用いた「帝国(Empire)」と極めて近接したものではないだろうか。宇佐美の主張の中に新自由主義やグローバリゼーションといった言葉は語られてはいないが、肥大化し、世界をアメリカ化(américanisé) していく資本主義帝国の姿は現代の政治、経済、社会にだけ反映されたものではないことを宇佐美の美術論は明確に語っているのである。

 アタリは『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』(林昌宏訳) において、近代から現代への世界の思想・政治・経済の理念的歴史を、自由(Liberté) から平等(Égalité) へと中心理念が変化していったものが再び平等から自由へと移行していったと見做している。そして、現在よりも後の世界においては、この二つの理念の葛藤によって世界が変遷するのではなく、友愛(Fraternité) という概念が中心理念とならなければ世界は破滅するであろうという主張を展開した。新自由主義を背景としたグローバリゼーションが跋扈し、地球環境破壊と極端な不平等を前にした現在のわれわれにとって彼の主張は極めて示唆に富んだものであると一般的には考えられている。だが、自由、平等、友愛という三つの理念のどれが上位理念で、どれが下位理念であるかを、どれが優先されるべきもので、どれが従属的ものであるかを簡単に決定することができるだろうか。もしも新たな時代を、崩壊ではなく、再生の時代として作り上げようとするならば、この三つの理念は同時に、どれも欠けることなく実現されなければならないのではないだろうか。それこそがマルチチュードの可能性の追求であり、希望ある未来への投企である。そして、それはこの三つの理念が星座の輝きを持ち、それによって未来への第一歩を踏み出すことができる条件となることも示していると私には思われる。個であって全体、全体であって個であるためには三つの理念が星座として結びつかなければならないのだ。

 ここでもう一度点描という問題に戻ろう。このテクストで注目した瑛九の「田園」と宇佐美圭司の「還元」という作品は点、あるいは、点に近い筆のタッチの連続によって、ある具体的な形態を浮かび上がらせようとする絵ではない。この二つの絵はどちらも、細かな小さな点、あるいは、点に近い筆跡が形態を破壊すると共に、ある形態を作り出そうとする方向性を提示しているという共通性がある。こうした特異性を有する点描画は新たなる意味生成の道を提示している。ディディ=ユベルマンは『時間の前で:美術史とイメージのアナクロニズム』(小野康男、三小田祥久訳) において、時間性を超えたアナクロニズムについて厳密な探究を行っているが、それはまさにバフチンの対話概念へと広がっていく航路である。こうした小さなものの集まりがマルチチュードとなっていく過程を表現できる絵画技法が点描であり、それも、形態の構築において、強制的に具体的なある形を目指そうとしない点描こそが最重要問題なのである。一つ一つの点が全体の単なる要素ではなく、固有性を有する個であるが、それが他の点と様々に関連し合いながら、ある方向に向かおうとする生成の動きを表現できるからである。それゆえ、マルチチュードによって構築される星座は線によって無理やり繋ぎ合わされ、形を浮かび上がらせることはない。星座内には時を超えたアナクロニズムの対話としてのポリフォニーが囁かれている。その囁きは大きなものではないが、多くのものである。そして、いつでも一つ一つの個に解体されることができ、解体の後に新たな方向に向かうことができる解体構築の可能性を孕んでいる。この点描による表現は閉塞した現代の絵画芸術に一筋の明るい光の糸をもたらすと私には思われるのだ。

 

 このテクストのエピグラフに書いたアルンダティ・ロイの言葉は多くの希望を語る言葉である。小さなものであるゆえに実現可能なものがある。それは小さなものの多様性を認め、多様性の中のポリフォニーを聞き取る力を示そうとする言葉である。ロイは『民主主義のあとに生き残るものは』(本橋哲也訳)で、「ひどく間違った方向に進んでしまった世界を再構築するための最初の一歩は、異なる想像力をもつ人びとの絶滅を止めることだ。この創造力は資本主義のみならず、共産主義にとっても外部にある。それは何が幸福や達成を構成するかについて、まったく異なる理解を示す想像力である」と語っている。この想像力の実践をマルチチュードの実践とわたしは名付けたい。

 マルチチュードの実践は、政治的でもあり、社会的でもあり、経済的でもあり、思想的でもある。更に、それはここで探究した芸術的なものとも深く関連する。マルチチュードの実践は特定の領域だけに限定されるものではなく、横断的な行為なのだ。それも一人の個人による行為でも、指導者によって導かれた全体の行為でもない。マルチチュードを作り上げるそれぞれの個は、他の個と対立し、反発し合い、論争し合いながらも、共鳴し、共に力を合わせようとし、共に歩もうとする。それは個という小さな存在の結合であるゆえに、脆く、弱く、儚く、すぐにも消えてなくなりそうな集合体である。それゆえ、絶えざる解体構築の流れを止めてしまえば、分解され、それがあった痕跡さえも喪失してしまうものである。そうであるからこそ、この小さなものの集まりに価値を認める必要性があるように私には思われる。ロイの声にバフチンの声を、ベンヤミンの声にネグリの声を、ル・クレジオの声に宇佐美の声を、瑛九の声にアタリの声を、ある声に他のある声を重ね合わせようとするこうした多声性への試みによって、マルチチュードの実践が開始されるのではないだろうか。

 宇佐美は『廃墟巡礼』において、西洋文明が人間の身体を通して世界全体を捉えようとした歴史について語った後で、二〇世紀の文明がそれを不可能にしたことについて語り、「二〇世紀の美術は予見的に、その姿を「病む身体」として表現してきた。立体派で示されたピカソのゆがんだ顔。針金のようにそぎ落されたジャコメッティーの男。画面いっぱいに広がるデュビュッフェのゆがんだ女。むち打ち症にかかったような神経を逆撫でするフランシス・ベーコンの人物。もちろん歴史的名作となったこれらの作品は、必ずしも「病む身体」を表現しようとしたものではない。しかし、二〇世紀の美術は、身体を「病む身体」の系譜としてしか扱いえなかったのである」と述べている。だが、病んだ身体は現代の人間一人一人の身体の表現であるだけではない。20世紀は植民地主義の時代、戦争の時代、ファシズムの時代とも呼ばれているように時代精神も、時代を担う様々なシステムも病んだ時代であった。病んだ身体を解体し、砕いていこうとする動きがある一方で、システムの中心部分を強化して、システムの規模を巨大化しようとした時代でもあった。この二つの動きのせめぎ合い自身が病んだ身体の維持のための欲望発動装置の発展を増殖させていったのである。

 東欧の社会主義国の崩壊、グローバリゼーションと新自由主義による一極化する経済体制、極端に拡大した貧富の格差、技術革新による監視社会の実現、環境破壊と地球温暖化による危機的状況。こうした問題は21世紀に猛然と流入し、われわれに新たな時代の選択を迫っている。美術という文化領域だけではなく、政治も、経済も、社会も、思想も、あらゆる領域で解体構築の必要性が求められているのではないだろうか。だが如何なる選択がわれわれに可能であろうか。「(…) 美は見世物であることをやめる。美とは活動であり、運動であり、欲望だ。美は、未知の世界をおおっている無機質の表面をたえ間なくうち砕き、そこに道路を開いて、扉をつくりだす」とル・クレジオは書いているが、この言葉にある「美」という語を「マルチチュード」に置き換えたならば、それはまさに現代のわれわれが目指すべき像=イメージを的確に表現したものとなるのではないだろうか。美はマルチチュードであり、マルチチュードは美である。ル・クレジオの語りの向こう側にあるものは、この置換が可能であることをはっきりと示している。

 明日、私は収蔵作品展Ⅱ後期を見るために三鷹市美術ギャラリーに行こうと思う。そこで、もう一度私がこのテクストで展開した考えが妥当であるかどうかを、この考えによって導かれる方向性が正しいものであるかどうかを、私が行おうとしているアプローチが適切なものであるかどうかを確かめるために。それはこのテクストを解体構築するための試みでもある。現代において、小さな未来のための灯は、大きなものを分解し、細かく砕き、もう一度作り直すことによって点火されるものとなる。マルチチュードへ向かう小さな点である個の形の一つ一つをしっかりと目を見開いて見つめ直そう。そこにはある収斂しようとする力を見つけるだけではなく、そこにある新たな息吹を聞こう。それに耳を傾ければ、微かな声も聞こえてくるはずだから。更に耳を傾ければ、その声は一つではなく、ポリフォニーとなっていく。それは病んだ時代を再生するための多くの声である。この行為、それこそがマルチチュードの実践のための最初のステップである。私はそう確信している。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 絵画の中のマルチチュード (fc2.com)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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