韓国通信NO577
これまで韓国に何回でかけただろうか。100回にはならないはずだが、とにかく数えきれない。
40年前に韓国語の勉強を始め、1987年にその仲間たちと始めて韓国を旅行した。民主化宣言直後の韓国を個人で旅行するのは考えられない頃だった。旅行社の添乗員と現地の添乗員つきでソウルの市内観光、慶州と釜山を駆け足でまわる3泊4日の旅だった。その感動を冊子『からくにの記』にまとめた。
それから4年後、1カ月の休暇をとって韓国中を旅した。観光バスから解き放たれたひとり旅は驚きに満ち溢れていた。帰国後、『続からくにの記』にまとめた。
『続からくにの記』を読んだ作家の永山正昭さんに夏目漱石の『満韓ところどころ』より面白いと褒められた。漱石と比べるなんて、おそれおおくて冗談話に聞き流したが、最近、漱石を読み、永山さんの指摘がわかったような気がした。日韓併合直前に満州、韓国を旅した漱石には中国人と朝鮮人は汚らしく感じられたようで、文明国から見た中国・朝鮮にたいする侮蔑感があった。リュックを担いで悪戦苦闘した私の姿に永山さんは漱石より上等なものを感じられたのかも知れない。
「臨場感に溢れ 一緒に旅をしているような どきどき感!」と感想を寄せてくれた詩人の茨木のりこさんも私の韓国に対する愛情を感じ取ってくれたような気がする。
今回の旅行は7泊8日。短くも長くもない旅だったが31年前の初旅行、そして27年前のひとり旅に劣らない印象深いものになった。「通信」でのレポートを、名付けて、『続・続からくにの記』としてまとめたい。
汝矣島(ヨイド)はソウルを流れる漢江の中州(なかす)である。地名の漢字には「お前は島なんだなあ!」「それでも島か?」という意味があると聞いたことがある。国会議事堂、大韓生命の63ビルを始めとして高層ビルディングが林立し、金融センター、テレビ局、新聞社の本社があって、とても島とは思えない。本当に「それでも島か」と実感してしまう。ソウルの「マンハツタン」ともいわれているが、かつて空き地で政治集会や労働組合の集会が開かれた場所としても知られている。1998年、留学時代に民主労総の決起集会を見に行った記憶があるが、その場所らしいところは今では見当たらない。川沿いの桜並木もそれは見事なものだった。
そのヨイドのケンシントンホテルから旅は始まった。学生の団体客の騒音で妻は耳栓をしなければ眠れなかったとこぼした。耳が遠くなったのか酒が効いたのか、私には何も聞こえなかった。
翌朝、朝食を済ませてからヨイド公園を散策した。ビジネス街のど真中で紅葉を楽しみながら住民たちがジョギングや散歩を楽しんでいた。まさにそこは都会の「オアシス」だった。妻はカチ(カササギ)の姿を追って写真に夢中だった。カチという鳥、鳴き声はカラスに似ているが姿はとても優雅で人懐こい。日本には棲息しないと思っていたが佐賀出身の友人が「カチがらす」という名前で佐賀にもいると教えられた。ソウルの都会、全国で姿を見ることのできる韓国のシンボル的存在、韓国を訪れた人なら印象に留めている人も多いはずだ。
10月も後半ともなるとソウルのどこへ行っても紅葉が美しい。ヨイドから旧市街、徳寿宮を散策した後、裏道を通って鐘路、光化門通りに出た。李舜臣の銅像近くに黄色のテントが見えた。ローソクデモが起きた2年以上前からテントは常設されている。以前に比べると規模は小さくなったような気がしたが、テントの向かい側にある展示パネルを見学する人が後を絶たない。2014年4月のセウォル号沈没事故の抗議のテント小屋だ。署名をしていたら声をかけられた。日本人観光客としてインタビューを受けた。機関誌の記事にするという。
Q 日本人としてこの問題に何故関心をお持ちですか。
A 事件発生直後から関心を持っていました。福島の原発事故と似ています。真相解明と責任者の処罰を求めているのにそれが出来ていないことに心を痛めています。皆さんの粘り強い運動に学ぶところは大きいです。
テントで貰った黄色いリボンを旅行の間つけて歩いた。私にとって黄色いリボンはセウォル号事件の犠牲者に対する哀悼の気持ちだけではない。福島原発事故の被害者との「連帯」、再び事故を起こすな、「反原発」の意思表示として帰国後もつけている。
教保文庫に久しぶりに寄った。ローソクデモ関連の図書を探したが、特別なコーナーはないとあしらわれてしまった。淋しい気がした。具体的に本の名前を挙げないと「検索」できないようだった。
水曜日なので日本大使館前に。従軍慰安婦の定例デモは正午から開かれる。どんな立派な大使館を作ろうとしているのかわからないが、二年前と同様に日本大使館は基礎工事の段階だった。会場で尹美香(ユン・ミヒャン)さんと久しぶりに再会して声を交わした。まず集まった中高生たちの多さに圧倒された。「スゴイでしょ」彼女も誇らしげだった。彼女のスピーチは日本政府への批判にとどまらない。それは、あらゆる戦争によって引き起こされた女性が蒙った性被害に対する批判で、それはベトナム戦争において韓国軍兵士たちが犯した性犯罪にまで及ぶものだった。教師のように生徒たちに向かってわかりやすく話をしていた。従軍慰安婦問題から始まった運動が今や全世界の女性の人権の回復と向上を訴える運動になった。
若者たちは熱心に耳を傾けていた。水曜日ごとに市内、近郊から、おそらく学校の先生に引率されてやってくる生徒たちは、数少なくなった元慰安婦のハルモニたちを励まし、社会の問題、とりわけ性暴力の問題について学んでいるようだった。
日本人の発想では、平日に先生と一緒に大使館前の抗議に参加するのは教育の中立性から、「いかがなものか」ということになるのかも知れないが、韓国社会では生きた社会勉強するのは当然と受け止められているようで興味深い。数年前、ハルモニたちが次々と亡くなっている現実に、運動をどう広げていくか議論した時、若者たちにどう伝えていくかが議論されたことがある。慰安婦の運動が着実に若者たちに広がっているのを感じた。
タクシーの運転手にすすめられて昌徳宮(チャンドッククン)にでかけた。かつて「秘園(ピウォン)」と呼ばれた庭園の紅葉は絵葉書のような見事なものだった。正殿から後宮までの一周を歩くのに一苦労したが大いに癒され楽しんだ。
李朝最後の皇太子李垠(イグン)(高宗の息子)と結婚した李方子(イ・バンジャ)(梨本宮方子)と高宗の娘である徳恵翁主(トッケオンジュ)がともに暮らした屋敷の前。見学していた韓国の女性に「徳恵翁主がここに住んでいたの知ってるか」と尋ねると、「もちろん知ってるわ」と返事が帰ってきた。「小説と映画が評判だったようだけど」と聞くと、「もちろん見た」とのこと。「僕も見た」と云ったら、日本人と気づいた女性たちは「変な日本人」にしきりに感心していた。対馬の藩主宗武志と結婚した徳恵の悲劇的な生涯については小説と映画をとおして日韓併合が生んだ悲劇として多くの人たちは忘れていないようだ。
遅い食事をとった後、清渓川の橋に設置された全泰壱(チョン・テイル)(労働基準法を守らせるために闘い抗議の自殺をした1970年)の銅像を見ながら、広蔵市場、平和市場、東大門市場にある衣料品のデバート「トゥンサンタワー」を巡った。初めて韓国を訪れた時に見た野球場があったあたりは跡形もなく、映像とファッションの華やかな街に変わっていた。屋台をまわりながら、このあたりだったろうか、一緒にスンデ(豚の腸詰)を食べながらマッコルリを飲んだのは。故人となった日本フィルの松本茂君の懐かしい顔を思いだした。新しい町の中に思い出を見つけるのに苦労する。
ソウルは二泊して明日は移動日だ。この日は時間を惜しむように随分と歩きまわった。食事や休憩時間を除いても5時間はたっぷり歩いたが、そのわりには疲れはない。地下鉄5号線でヨイナル駅下車。ホテルまでの道を間違え、夜道を30分は歩いただろうか。おまけの30分で疲れが「どっ」と出た。夕食にホテル近くのパン屋でサンドウィッチと菓子パンを買った。昼食の焼き肉サムパップ(野菜巻)とのカロリーのバランスを図った。焼酎とビール各1本ずつ。
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