明日(4月7日)にも、インフル特措法に基づく緊急事態宣言の発出がなされるとの報道に気が重い。とは言うものの、宣言の効果として可能となるべきことの多くが既に前倒しで実行されてきたのだから、今さらの宣言で変わるところは小さい。
もっとも、宣言の法的効果は小さくとも、宣言自体がもつ社会心理的効果には大きなものがあるだろう。損失補償のないままに、民間諸団体への営業や興行への自粛の要請や指示が横行することになるに違いない。そして、危惧されることは、政府の要請や指示に従わない者に対するバッシングや同調圧力の強化である。それこそが、緊急事態条項のもつ最大の副作用である。
本来行政のなすべきことは医療態勢の充実でなければならないが、ここで露呈したものは、日本の医療の脆弱さである。にもかかわらず、行政はコロナ禍の蔓延を国民の行動に転嫁しようとしているのだ。行政も自治体も、これまでの医療行政の怠慢を率直に認めた上で、たらざるところに国民の協力をお願いするという真摯な姿勢を貫かねばならない。国民・都民からの信頼薄い安倍・小池である。至難の業であることを肝に銘じなければならない。
なお、この間の厖大なコロナ関連報道の中で見えてきたものがある。感染症予防策とは、臨床医療とはまったくの別物だということである。両者は、相補う関係であるよりは、どうやら相反するものであるらしい。専門家には常識なのかも知れないが、門外漢にはこのことの自覚が重要ではないか。
感染症予防が保護対象として関心をもつのは個人ではなく社会である。未罹患者も患者も、個人は統計上のサンプルとして扱われる存在に過ぎない。常に、社会防衛のためには個人の犠牲は甘受せざるを得ないと割り切られる危険を背負っている。政策としてのコロナ対策も、感染症予防に力点を置きすぎると、患者を切り捨てる弊害を招きかねない。安倍や小池のやることである。常に、批判の視点が必要なのだ。
感染症予防には、社会全体としての利益の最大化が大切なので個人の犠牲は些事であるという匂いを感じる。社会の多数者の生き残りと対処こそが大切なので、そのための施策で患者個人に不利益があったとしてもやむを得ないとする。
臨床診療は、医療従事者の目の前にある患者個人の生命と健康の救済が課題のすべてである。この患者を見捨てることは許されない。
今回のような緊急時に、両者の矛盾が露わとなる。
陽性患者となったあるタレントが、自覚症状発現後PCR検査を受けるまでの経過が次のように報道され、身近な人がこう語っている。
https://lite-ra.com/2020/04/post-5352.html(リテラ)
「3月21日に発熱があり医師の指導で2日間自宅待機、その後25日に仕事復帰。26日に味覚障害・嗅覚障害があったことから、以降仕事をキャンセルし自宅待機。その後4月1日にCTで肺炎の診断、ようやくPCR検査を受け、3日夜に陽性が確認された。」
〈先週、味がしない・匂いがしないの症状が出て、26日木曜日から仕事を休んでいます。〉〈そこから病院に診察に行っても、コロナ検査をしてもらえず。自分で保健所に電話しても、その症状だけだと検査してもらえなくて。でも、不安で、今週水曜日、いくつめかの病院で、頼み込んで頼み込んで頼み込んで、ようやく検査してもらえました。やっとです。発熱して、体温が高ければ検査してもらえたのかもですが、これが一番怖いです。検査してもらえない。〉
感染症対策は、大量患者の観察から検査規準を設定して、規準該当者だけを要PCR検査対象とし、この規準からはずれた者は敢えて検査対象としない。検査態勢が脆弱で数的限界があるからでもあり、あるいは、規準からはずれた厖大な者までを検査対象とすることは、コストパフォーマンスの視点から効率的ではないと割り切るのだ。
さらに、検査対象を拡大することによる陽性患者の大量輩出には診療態勢が追いつかないのだから、検査対象は絞り込まざるを得ないことになる。医療行政は得てしてこのような視点に立ちやすい。
ここには、近代社会が克服したはずの優生保護思想や社会ダーウィニズムと通底する反人権的な考え方がひそんでいる。社会として持続するに必要なだけの生命の確保は必須だが、その余の犠牲はやむを得ないとするものである。
医療従事者にも、感染症対策の専門家にも、そして医療行政にも政治家にも、決して国民の命の選別は許されない。今こそ、その当然の道理について、声をあげなければならない。
(2020年4月6日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.4.6より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=14634
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9620:200407〕