明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館で10月6日から11月11日まで「明治維新150年記念特別展:明治が見た世界~巨大壁画でたどる日本開国史~」という展覧会が開催されていた。明治維新から150年という問題に特別関心があった訳ではなかったが、近くで用事があり、その帰り道に気軽な気持ちでこの展覧会に寄ってみた。しかし、この絵画館に飾られている80枚の壁画を見て、検討すべき問題が数多く見出され、私は日本の近代史において重要な時代と見なされている明治期についてじっくりと考えるべきであると思った。もちろんこの短い論考で多くの問題を十分に分析することはできないであろうが、それでもこのテクストを書くことによって何らかの考察が可能であると思ったのである。
展覧会には開国当時の写真、明治政府お抱え外国人の描いた歴史画、日露戦争を勝利に導いた秋山兄弟の手紙など多くの史料が展示されていたが、私の探究心を刺激したものは常設展示されている80枚の壁画であった。何故なら、この壁画を分析することによって、大正後期から昭和初期にかけて一般大衆をイデオロギー的に誘導した象徴的な政治・宗教的コントロール装置を理解できると考えられたからである。この壁画の分析だけで厳密に当時の支配階級の用いていた政治・宗教的コントロール装置の本性を厳密に解明することはできないであろうが、それでも大まかな様相は捉えることは可能であろう。それゆえ、ここでは以下の手順に従って80枚の壁画の特質を考察していこうと思う。
最初にこの80枚の壁画が制作された経緯や壁画のテーマとしてどのような歴史的出来事が主題化されているかという点について見ていく。次に壁画の描写対象、人物構成などを数量的に分析し、そこから導かれる問題について考察していく。三番目に歴史画という視点から他の国とくにヨーロッパで描かれたこの種のジャンルの絵画と80枚の壁画の何点かを比較検討する。そして最後にこの三つの探究結果を総合化していく。
壁画構成について
明治神宮外苑が発行した『明治神宮 聖徳記念絵画館壁画』によると、聖徳記念絵画館は大正15年 (1926) 10月に着工から約20年の歳月を要して完成した。80枚すべての壁画の完成はさらにその10年後であった。美術史家の林洋子は「明治神宮聖徳記念絵画館について」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第11号)の中で、壁画のテーマ選択や描写する情景などの判断基準として、①「政治、外交、軍事、教育など分野別のバランスを取る」、②「東京や京都だけでなく、地方での出来事も考慮に入れる。とくに新領土 (琉球、朝鮮半島など)についても配慮する。」、③「絵画化しにくいものはできるかぎりさける」④「天皇に直接関係がなくとも、国運に関するものは入れる (日清、日露戦争など)、⑤「天皇だけではなく、皇后のご事跡についても配慮する。「画面上の配合調和ニ資スルコト甚大ナルベシ」という造形上の配慮」、⑥「功臣の姿を入れるように配慮する」という点が壁画制作前に決められていたと述べているが、この選定基準は壁画構成において大きな役割を果たした。
作者に関しては80枚の内、40枚が日本画、40枚が洋画であるが、当時著名だった76名の画家が制作にあたった。壁画の大きさはすべての作品が縦3m、横2.7mであり、基本的に一人の画家が一点の壁画を描いたが、小堀鞆音は三点、近藤樵仙と結城素明は二点の壁画を描いている。制作者の名前を見ると、当時の絵画界を考慮すれば、バランスの取れた人選となっているとは言い難いことが判る。また絵画レベルに関しても林洋子が上述した論文の中で、「約八○人にも及ぶ画家の選定は相当困難を究めたに違いない。かなり画家の層も厚くなったとはいえ、一流と呼べる画家はその数に及んでいなかったのである」と書いているように、満足のいくものではなかった。また、林は洋画家の人選について、「対象の再現性を重視する絵画館の趣旨を考えれば、当時台頭してきた前衛画家たちが含まれていないことも頷ける (…)。安井曾太郎、梅原龍三郎らフォーヴィズム (野獣派)の傾向を持つ作家も除外され、岸田劉生や旧草土社のメンバーが含まれないのは彼らの画風が大画面の歴史画に向かないと考えられたためであろう」と、日本画家の人選について、「芸術性の追求を重視する専門委員と理事会の間で議論が紛糾した。怒った横山大観は委員を辞任し、候補者リストから院展系の作家の多くを引き上げてしまう (…)。これに伴い、川合玉堂、竹内栖鳳も手を引き、結果として院展系、及び京都系の大半を除いた画家たちによって描かれることとなる」と述べている。
壁画の奉納者という側面からは次の点が指摘できる。奉納者を大別すると①個人 (貴族):36枚、②一般企業:5枚、③地方自治体:13枚、④省庁議会関係:7枚、⑤銀行:8枚、⑥団体組織:11枚の6つにグループ分けが可能である。近衛文麿公爵、島津忠重侯爵、渋沢栄一子爵などの有力貴族の個人的な奉納数が多いことが目に付くが、その他にも一般企業、地方自治体関係、省庁議会関係、団体組織などが奉納していることから、この壁画計画が官民挙げての一大事業であったことが理解できる。また、北海道庁が「北海道巡幸屯田兵御覧」(42:これ以後タイトルの後の数字は展示されている壁画の番号である)、貴族院及び衆議院が「帝国議会開院式臨御」(56)、日本医学会及び日本医師会が「広島予病院行啓」(61)、台湾総督府が「台湾鎮定」(63)、朝鮮各道が「日韓合邦」の(77)というように、その組織や団体及び地域と関係の深い壁画が奉納されている点が注目できる。
描かれている出来事の年代については以下のような点が指摘できる。明治天皇 (以後、天皇とのみ表記する)の前半生を日本画によって後半生を洋画によって描くことが決められていたが、描かれた年を列挙すると、1852年:1 (以下、:の後の数字は描かれた枚数) 、1860年:2、1867年2、1868年:12、1869年:2、1871年:3、1972年:3、1873年:3、1874年:2、1875年:4、1876年:1、1877年:3、1878年:2。以上40点が日本画である。洋画は、1879年:1、1881年:3、1882年:2、1883年:1、1885年:1、1887年:1、1888年:1、1889年:2、1890年:4、1894年:4、1895年:4、1897年:1、1902年:2、1904年:1、1905年:5、1906年2、1909年:1、1910年:1、1912年:3である。こうして見ると、壁画は天皇の誕生から死去までのほぼすべての時期を満遍なく網羅していることが了解できる。また歴史的出来事として、1868年前後、1875年前後、1884年前後、1905年前後に描かれたものの点数が多くなっていることに気づくが、これは明治維新前後、明治の政府の安定期、日清戦前後、日露戦争前後というこの時代の重要イベントの時期と重なっている。
壁画が上記したような背景を持って制作されたことは興味深い問題であるが、この問題については結論部分でもう一度詳しく検討することにして、次のセクションではテーマ的側面と技術的な側面を中心とした分析を統計的な方法を用いながら行おうと思う。
数量的分析
絵画的主題と技術的な問題という点から見て注目できる点は数多く存在するが、ここでとくに熟視したい事柄は以下の4点である。一点目はどのような対象が描かれているのかという問題であり、二点目はそれぞれの絵の対象の表現の仕方と関係する問題であり、三点目は天皇と昭憲皇后 (以後、皇后とのみ表記する)の描写と係わる問題であり、四点目は全壁画の中での戦争画関連の絵の割合の多さと関連する問題である。
第一の問題については、まず以下の点に着目する必要がある。人物がまったく描かれていない絵は「御降誕」(1)と「中国西国巡幸長崎御入港」(23)の二点しかなく、その他のものはすべて複数の人物が描かれている。それも殆どのものは多数の人物が描かれている。歴史画としての意義を提示すために人物像が必要であるのは当然のことであろうが、歴史的事件であるにも係わらず描かれた人物の表情は平板で衝撃性がない作品が多い。10月29日の産経新聞に掲載されていた「「正気」が光放った明治の気概を」というタイトルの記事の中で、文芸評論家の新保裕司は、「これらの壁画は、(…)歴史画として明治という偉大な時代をよく描いていると感じられた。観終わった後に、心に強く浮かんでくるのは、明治という時代のなんと悲劇的なまでに偉大であったことよ、という感嘆である」と述べている。だが、私は新保とはまったく異なる印象受けた。これらの絵画の持つ歴史画としての特質は後のセクションで詳しく論述するが、そのレベルは高度なものとは決して言えず、何処に悲劇性を感じるのかがまったく理解できない。私には新保の感想が極めて主観的であると思われるのだ。また人間以外の生物で描かれているものは馬と鳥と牛だけであるが、馬が19作品 (9、10、17、24、25、27,29,35、42、52、54、58、63、64、65、69、70、74、78:以下この段落では壁画番号のみを示す)に登場するのに対して、鳥が2作品 (31と40:鳥は他にも壁絵の一部などに描かれているが、生物としてではない)、牛が1作品 (77)に登場するだけである。その理由はこの時代の陸上交通手段が馬を中心に行われていた点が大きかったからであろう。とくに騎兵が近代陸軍の中心であったことによって戦争と関係する作品の多くに馬が登場している点からも、このことが了解できる。それに対して鳥も牛も構図の中心に配置された作品はなく、副次的なものである。
第二の問題に移ろう。対象の描かれ方に関して、まずは描かれた人物の服装に注目できる。「聖徳記念絵画館オフィシャルガイド~幕末・明治を一望する~」には天皇と皇后の服装が和服から洋服へと変化していた経緯についての言及がある。洋装の天皇が初めて登場するのは「中国西国巡幸鹿児島着御」(24)であり、皇后の最初の洋装の登場が「東京慈恵医院行啓」(49)であることが指摘されている。だが、洋装が壁画の中に初めて登場するのは「二条城太政官代行幸」(9) である。この絵は1868年の出来事の描写であり、和装姿の人物も数多く描かれているが、左手に整列している歩兵は洋式の軍服姿である。24の天皇の服装も様式の軍服姿であるが、この絵は1872年の出来事の描写であり、最初の洋装が描かれた年から僅か四年しか経っていない。それに対して49は1887年の出来事の描写であり、洋装の人物が壁画内で最初に描かれた年から約20年後のことである。洋装の浸透が軍服から起き、男性の方が女性よりも早くに洋装化していったことが壁画の流れを追うことによってもはっきりと判明する。また、一瞥した限りではあるが、日章旗や旭日旗が描かれた壁画が9点であるのに対して、天皇家の菊の紋が印された旗などが描かれている作品が11作品以上ある。このことは日本という国家よりも天皇家の存在が前面に押し出されていることの一つの表れであると判断できる点のように感じられる。さらに、はっきりと夕方から夜にかけての時間帯の出来事が表現された作品は「広島大本営軍務親裁」(60)と「不豫」(79)と「大葬 (御葬儀)」(80) の三点のみで後半にしかなく、他のものはすべて日のある時間帯の作品である。このことは明治という時代の新しさを強調し、夜の象徴する終焉のイメージを避ける意図があったと考えられるものである。
第三の問題は連続する壁画の流れにおける中心人物である天皇と皇后に焦点を合わせた場合に解明できる事柄である。描かれた対象についての大まかな考察は第一の問題の検討箇所で行ったが、ここではとくに天皇と皇后の存在性について、それも身体的な問題について考察していく。天皇の存在が示された作品は48点 (壁画番号を記すと1、2、4、6、8、9、11、12、15、16、17、19、20、22、23、24、25、27、29,30、31、33、35、36、38、39、41、42、43、44、45、47、50、51、52、53、54、55、56、57、60、64、68、73、74、76、78、80)あり、皇后の存在が示された作品は16点 (18、28、32、34、38、39、40、48、49、51、52、53、57、61、67、76)ある。これらの作品を身体の表し方によって、①立位で正面から描かれている作品、②天皇や皇后がその中にいることはタイトルなどで示されているが身体がまったく描かれていない作品、③身体の一部分または全身であっても正面から立像で描かれていない作品の三つに大まかに区分できる。天皇に関しては①が4点 (38、43、47、56)、②が10点 (1、9、16、17、23、25、52、55、78、80)、③が34点 (①と②以外の作品)であり、皇后に関しては①が5点 (28、32、38、40、49)、②が2点 (18、52)、③が9点 (①と②以外の作品)である。天皇と皇后が二人とも描かれている絵が7点 (38、39、51、52、53、57、76) あるので、天皇と皇后以外の人物が描かれた絵は23点である。このことからこの会館の壁画における天皇と皇后のテーマ的中心性が浮き彫りになるが、その描かれ方は特殊である。上記したことからも判るように天皇が正面を向いた全身立像で描かれたものが4点しかない点とまったく身体が描かれていないがタイトルなどによって乗り物や建物の中に天皇がいることが理解できる作品が9点もあるという事実には驚かざるを得ない。正面を向いた全身立像の天皇においても顔が影になって見えないものや絵の中での大きさがあまりにも小さなものが殆どで、堂々した画面いっぱいの天皇像はない。また、私の知る限りで、テーマとなる王や皇帝の身体が描かれず、その存在性だけが示された絵がこれほど多く描かれた国は日本以外にない。この特殊性は特筆すべきものである。皇后の絵に関してもやはり正面を向いた全身立像は少ないが、作品点数が天皇のもののように多くないため極端に少ないとは断言することはできない。それでも皇后の身体が描かれていず、その存在性だけを示す絵が何点か発見できることは確かである。こうした天皇及び皇后の描かれ方はやはり特殊と言わざるを得ないが、この点に関する考察はここではこれ以上行わず、まとめのセクションで改めて行うことにする。
第四の問題として、戦争及び軍事関係の作品が23点ある点は私がとくに注記したい問題である。この壁画の中で戦争・軍事関係の作品は全体の三割近くを占めている。幕末から続いた戦闘、日清、日露戦争関係の作品の多さによって明治時代がいかに戦争の多い時代であったかということが理解できるが、それだけではなく天皇の参加した軍事演習に関する絵も三点ある (「習志野之原演習行幸」(27)、「御練兵」(29)、「陸海軍大演習御統監」(54) )。この時代、天皇の軍事演習参加が一大イベントとして考えられていたのだ。天皇は国家元首であると共に日本軍の最高司令官でもある。明治期には軍事国家的側面が強かったことが、こうしたことからも窺い知ることができるのではないだろうか。また、この壁画内で戦争がどのように表現されているかという事柄も注視すべき点である。実際の戦闘シーンは殆ど描写されてはいず、軍隊の凱旋する模様や停戦のための会談を描いた作品が多い。戦争の残酷さや悲惨さはこうした絵からはまったく感じられず、戦勝という点だけが強調されているように感じられるが、この問題に関しても後のセクションで詳しく論ずることにする。
歴史画として80枚の壁画
歴史画は世界各地で数多く描かれているが、聖徳記念絵画館の80点の壁画が、他の歴史画と大きく異なる点がいくつか存在する。ここでは構図、人物像とくに天皇と皇后の作品中での大きさ、天皇と皇后の表情という三つの問題点に着目しながら考察していきたい。
第一の構図については人物が描写されていない絵がほんの僅かしか存在していない点がまずはピックアップできる。人物がまったく描かれていない絵は「御降誕」(1)と「中国西国巡幸長崎御入港」(23)だけであり、78枚の絵の中で人物が表現されており、それも多数の人物が描かれている絵が殆どである。このことは歴史的重大事件が絵画主題として選択されているゆえに当然であると考えられるが、多数の人物を描くことによって天皇や皇后だけでなく日本人全体が明治期を築いたというような印象を見手に抱かせるという効果を狙っているようにさえ思われる。しかしながら、多数の人物が登場する絵においても画面の多くの部分を占めているのは前景や後景となっている植物、空、山、建物、壁、天井などである。こうした物の優位性は他の国の王家の人々を描いた作品の人物中心的な構図と比較した場合 (たとえば、アンソニー・ヴァン・ダイクの「狩場のチャールズ1世」にしろ、フランシスコ・デ・ゴヤの「カルロス4世の家族」にしろ、ジャック=ルイ・ダヴィッドの「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」にしろ、生命力のある人間としての王の姿が強調されている)、反ヒューマニズム的歴史観の反映とも、アニミズム的歴史観の延長とも見なし得るものでもある。
第二の問題に関しては、天皇や皇后が構図の中心になった作品はいくつかあるが、その大きさが絵の中で大きな面積を占める作品がない点はこの連作壁画の大きな特質として強調できる。歴史的事件の中で天皇や皇后の役割が占める割合を客観的に導き出すことは不可能であるが、出来事の中心にいたからこそ、それぞれのテーマの壁画が奉納されたことは事実である。だが、それぞれの壁画における天皇と皇后の姿はあまりにも小さく描かれているものが多い。前記したダヴィッドの絵のナポレオンは絵の中心におり、白馬に跨り勇壮な姿をしたいかにも英雄という印象を受ける姿をしている。だが、たとえば「御練兵」(29)という馬に跨り歩兵を指揮している天皇の壁画とダヴィッドのナポレオン像を比べた場合、絵の中の天皇の像が大きくないだけではなく、その描写のされ方もみすぼらしいものではないだろうか。横向きの天皇に威厳も英雄的なオーラも感じられず、その表情も田舎臭く、野暮ったく感じてしまう。一国の指導者の姿としてはあまりにも哀れなものである。また、国家元首を描いた歴史画において、国家元首の像が部分的にしか表現されていないものは日本以外では殆ど存在していないのではないだろうか。「御即位」(15)を見てみよう。即位式の場面であるにも拘らず天皇の姿は殆ど幕に隠れており、僅かしか身体が見えてはいず、顔はまったく見えない。即位式という大イベントに対する描写としてはかなり特異な表現方法ではないだろうか。こういった特異性は極めて重要な問題であるが、このことについても結論部分でもう一度詳しく検討する。
第三の表情の問題は二つ前のセクションでも触れたことと関連する。この連作壁画においては、描かれた人物の表情が乏しい作品が殆どである。「下関講和談判」(62)「日露役旅順開城」(69)など何点かにおいてはある程度の表情が示されているが (人間的な感情の動きが垣間見られるが)、これらはすべて天皇と皇后を描いたものではない。天皇の表情がある程度まで読める作品は「内国勧業博覧会行幸啓」(38)など数点しかなく、顔が描かれたものでも表情を読むことはできない作品が多い。読むことができないと言うよりもむしろ表情を消しているとさえ思われる。たとえば、「山形秋田巡幸鉱山御覧」(43)や「岩倉邸行幸」(47)といった絵では、天皇の顔の表情は黒い影によって消されているのだ。何故そうする必要があったのか。天皇を普通の生きた人間として描くことを避けるという意図が感じられないだろうか。皇后に関しては「富岡製紙場行啓」(28)や「初雁の御歌」(40)など顔の表情が読める作品が天皇の絵よりも多い。だが、その表情は厳かで畏敬を感じるものではなく、どれも似通ったもので能面のようでさえある。国家元首の妻がこれほどまでに貧しい表情をしていることには驚かざるを得ない。先ほど挙げたヴァン・ダイクの絵にしろ、ゴヤの絵にしろ、ダヴィッドの絵にしろ、作品に登場する王家の人物は皆何某らかの感情を示す表情があり、現実の歴史を生きた人物であるという印象を受ける。だが、80枚の壁画に登場する天皇の像にも皇后の像にもそうした生の様相は感じられない。こうした考察から、天皇と皇后の歴史的な位置づけが実際の歴史から乖離して捉えられように操作されているという結論さえも導き出せるように思われてしまう。この点も歴史画という視点から見た場合のこの連続壁画の大きな特異点となっているである。
ジャン=リュック・ナンシーは『肖像の眼差し』の中で「肖像が主題とするのは、肖像自体が主体であるということである。すなわち、肖像がしかじかの絵画の主題 (対象、モチーフ)であるのと同時に、この絵画は、しかじかの主体 (人、魂)を白日のもとに到来させるその場所でもある」(岡田温司、長友文史訳)と述べている。ナンシーは肖像画について語っているが、このことはここで問題にしている壁画に描かれている天皇や皇后や日本史において大きな役割を担った人物の像についても同様に語り得る事柄である。歴史上の人物がまさにその人であるということが理解されなければ肖像画の価値も歴史画の価値も存在しないからである。すなわち、代用品としての記号としてではなく、生きた像が描かれる必要性があるのだ。この点から見て、この壁画シリーズのテーマである明治天皇を巡る重大事件における天皇像と皇后像はあまりにも画一的で、単純化されてはいないだろうか。さらに、壁画にタイトルがなくともそこに描写された人物が天皇や皇后であるということが判断できる作品がどれだけあるだろうか。歴史的知識によって天皇が描かれていると判る絵は「憲法発布式」(51)や「対露宣戦布告御前会議」(68)などほんの僅かしかない。前のセクションでも指摘したように壁画内の天皇や皇后像は、肖像というよりも記号に近い形で描かれていると述べられるが、この記号化は表情の乏しさと平板さに起因しているのだ。さらにまた、身体が部分的に、それも顔を描かずに身体の一部分のみが表現されていることに起因している。だが何故このように描かれているのか。それは支配装置の特定化や決定を隠蔽するためではないだろうか。つまり、そこには実に巧みな印象操作があるように思われるのだ。
表情の問題は先行するセクションですでに考察したが、ここでは顔というものが持つ意味について検討していく。アレグザンダー・スタージスは英国ナショナルギャラリーのガイドブック (田中純監訳、小澤京子訳、邦訳タイトル『顔』) の中で、ヘラルト・テル・ボルフの「ミュンスター条約批准の誓約」という1648年に描かれた作品について、「テル・ボルフの絵画では、個々の相違がこれ以上はありえないほど誇張されて描かれている。この作品は小品ではあるが、欠点もそのままで自然な風体の、多種多様な顔を見いだすことができる。(…)画家は、単に定型を継ぎ接ぎするだけでなく、実在の人物の特徴を記録しているように思われる」と語っているが、このことは顔が人物を特定するマーカーとして重要な機能を担うということだけを意味するものではない。エマニュエル・レヴィナスは主体の持つ存在の根源性は顔によって表されると主張した。もちろん顔は定型化も可能なものではあるが、特定の主体を示す顔は定型化した、すなわち、タイプ分け可能な顔なのではなく、豊かな表情に彩られた個別的な顔である。そうであるからこそ、特定のある人を思い浮かべる場合にわれわれはその人の顔を思い浮かべる。こうした個人の個人性を強く表すゆえにレヴィナスは顔の中心性を強調したのである。だが、もし歴史画や肖像画において顔の表情を可能な限り消して、平板に描写したならば、それはその人の顔ではなく、ある特定の機能を担ったマークにしか過ぎなくなるのではないだろうか。聖徳記念絵画館の壁画においては、こうしたマークとして機能する顔ばかりが目に付く。
ロラン・バルトは写真論である『明るい部屋』の中でプンクトゥムという概念を提示した。この概念についてバルトは「プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた、骰子の一振りのことでもある」(花輪光訳)と定義付け、さらに、「ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す (ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである」と述べている。バルトは写真のプンクトゥムについて語っているが、プンクトゥムはもちろん絵画にも存在する。だが、80枚の壁画の中で私がプンクトゥムを感じる絵は「振天府」(65)のみであった (この作品は現実のオブジェと空想のイメージが組み合わされたもので、向かって画面右上の小さく描かれた白馬の童子の姿に私はプンクトゥムを感じる)。この点は大きな問題となる。何故なら80点の作品の中でプンクトゥムを見出すことが可能な作品が僅か一点であるということは、壁画全体には意外性も驚きもなく、通俗的なイメージに彩られたものであることを示すからである。それは歴史の平板化された表現の集積ということができるだろう。その結果は誰にでも了解可能な記号が強調される一方で、壁画の中の人物、とくに天皇と皇后は個性を失った仮面のような顔を持った支配装置となっているのだ。
以上の考察に基づいて最後に聖徳記念絵画館の80枚の壁画とは何であるのかという問いに改めて答える必要があるように思われる。前記した新保の産経新聞の記事の中の「悲劇的」という言葉は明治という時代が多くの戦争や侵略が行われたという意味で言うならば、確かにそう述べ得る (新保はそうとは考えないであろうが) ものである。戦争によって血塗られた時代。だが、流された多くの血は壁画の中にはまったく描かれてはいない。それは逆説的な意味で歴史的悲劇である。悲劇性はそれだけに止まらない。明治天皇と昭憲皇后の描写の記号化は彼らの個性を奪っているだけではなく、支配装置としての意味のみを付与しようとする作為に満ちているとさえ見なされ得るものである。この絵画館の壁画には絵画技術の未熟さという問題もあるが、それは記号化の口実にはならない。こうした記号的な絵を明治時代の典型として展示公開しているということが日本の歴史における大きな悲劇ではないだろうか。明治を動かした支配者が個人ではなく人工的な装置であったと見なされ得るからである。聖徳記念絵画館の壁画の悲劇性はそれが明治という偉大な時代を表しているからなのではない。それは血塗られた時代性を隠蔽し、定式化した時代精神を表したものだからである。私は歩みを止め、一枚の絵の前に立ち、その絵の中にある顔のない支配者の身体を見つめた。もしもそこに顔が描かれていたとしても、その顔はのっぺらぼうであったに違いない。そう私は確信した。記号化された支配装置に顔があることは決してあり得ないゆえに。
初出:宇波彰現代哲学研究所ブログから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1006:181120〕
〔study1006:181120〕