iPS細胞の臨床応用をめぐる『読売新聞』の大誤報、それを後追いして同じ誤報に陥った共同通信の失態、尼崎不審死事件の被告の顔写真を複数のメディアが他人のそれと取り違えて伝えた問題などなど、このところ、報道の現場でいくつかの不始末が相次いだ。
いずれの場合も直接の原因は、情報を確認するというジャーナリズムのごく基本的な作業を現場がおろそかにしたことにある。しかし、いまなぜ、そうした事態が各社の報道現場で起きているのか、それぞれが事後に検証した報告でも、その背景に踏み込んだ指摘はなされていない。
意思疎通欠いた現場
不始末の再発を防ぐには、その背景の事情を解明し、原因を取り除かねばならない。うわべだけの検証でお茶を濁すようでは、同じ過ちが繰り返されることになりかねない。
一連の不始末の原因を各社の検証記事などを基につぶさにたどると、二つの共通する要因が浮かび上がってくる。一つは、ディジタル革命の浸透で、これらの報道現場で取材や編集に関わる人たちの間に十分なコミュニケーション(意思疎通)がとられていなかったことである。
iPS誤報を検証した『読売』の報告(10月26日付)によると、iPS細胞の臨床応用の情報提供者を取材した科学部記者は、疑問点を6点指摘したメモをデスクに電子メールで送り、デスクはこの情報を他の3人のデスクにメールで伝え共有した。が、そのあと、記者はデスクに疑問点を報告したことで「安心し」、さらに突っ込んだ取材はしなかった。デスクは記者が疑問を踏まえてさらに取材しているものと「誤解し」追加の指示を出さなかった。その結果、疑問を解消するための情報の確認がなされず、誤報につながった。
この経緯で明らかなのは、記者とデスク、4人のデスク同士のあいだでメールでの情報のやり取りが行われただけで、提起された疑問にどう対処するかをめぐって、口頭での(対面であれ、電話であれ)意見交換が行われていなかったと見られることだ。1面トップを飾る「特ダネ情報」の扱いをめぐって「疑問点」を解明するための議論や意見交換が担当者の間でなされなかったと思われることだ。このコミュニケーションの不在は、ディジタル時代以前の新聞の編集職場ではほとんど考えられなかったことと言っていい。
顔写真取り違えには、新聞だけでなく、テレビ、週刊誌も含めて多くのメディアが関わった。各社が入手した別人の顔写真はいずれも19年も前に撮影されたものだった。確認を求めた関係者のなかには疑問視するものもあった。が、テレビ局の一つが放送でこの写真を公開すると、後の各社は疑問視する声を棚に上げてそれぞれ報道に踏み切った。確認が不十分であることに不安も残っていたが、それを理由に報道にブレーキをかける声は職場には上がらなかったという。多くの社の職場で一人でも未確認の写真を報道することに疑義を呈するものがあれば、各社が足並みそろえて誤報する醜態を演じることは避けられたに違いない。
法令順守と責任転嫁
不始末の背景としてもう一つ各社の報道現場に共通する要因は、ここ数年、企業内での法令順守(コンプライアンス)が強調され、記者の行動基準や取材上の指針などが整備されてきたなかで、問題が生じていることである。インターネットの登場とともにメディアに対する社会の批判的視線が強まり、メディア企業内部でもコンプライアンスを重視する動きが強まった。仕事上の指揮命令系統や手続きが細かく定められ、現場の記者にもそれに従うことが求められる。
規則や基準、指針が設けられると、それを順守することが自己目的になり、なぜ守らねばならないのかという、本来の目的が忘れられがちになる。規則や指針に従うことで自分の責任がすべて果たされると考え、問題をより広い視野でとらえ、現場の一人一人が責任を持って判断するという姿勢が乏しくなる。iPS誤報の記者やデスクがとった行動(実際には確認作業をしなかったこと)はまさにこうした責任転嫁の姿勢から生まれたものと言えるだろう。
規則や指針を設け、それを順守することを強調すれば、手続き的な小さな逸脱は防げるかもしれない。しかし大きな問題に直面した時、現場が大局的な視点で判断し、柔軟に対処することは難しくなる。細かな規則や手続きは組織を硬直化させ、官僚化させる。組織の硬直化、官僚化は、報道の現場には最も必要のない要素だろう。
規則や手続きを優先させる文化が浸透すれば、職場での自由な議論や意見交換の機会は次第に失われていく。規則や手続きの厳密な適用は自由な議論に基づく自由な発想や対応をともすれば排除する。iPS誤報が生まれた職場で、記者やデスクの同僚の誰か一人でも、第三者として担当者の相談相手になり、自由に意見を述べる勇気のあるものがいれば、あのみっともない誤報は避けられたに違いない。その「一人」がいなかったことは、だれもが規則と手続きのしがらみに安住している官僚的組織の問題点を浮き彫りにしているとは言えないだろうか。
激変した職場の環境
ディジタル革命の進行はメディア企業の職場環境を激変させた。記者と取材対象、記者とデスクの間のコミュニケーションは、かつての電話や対面(面談)によるものに代わって、電子メールを介するものが主流になった。大量の資料や情報のやり取り、収集もインターネットを用いて簡便にできるようになった。人が顔を合わせ、言葉のやり取りを通じて意思疎通を図る機会が減り、無機質な電子情報のやり取りが幅を利かせている。そのプロセスからは、人間味のある理解や気配りの介在する職場のコミュニケーションが失われる。
官僚化した組織も同様にメディア職場の環境を大きく変えた。規則づくめ、指針づくめの職場では仕事をめぐって自由な議論、自由な意見交換をする雰囲気は育たない。上からの指示や命令で動く組織は、記者の自発的意思や発想に仕事の活力を大きく依存する報道の仕事にはなじまない。が、コンプライアンス重視を強調する時代の風潮に流されて、新聞や放送の現場でも最近はこの言葉が繰り返されている。報道現場での自由な議論の機会はますます乏しくなっている。
インターネット時代以前の報道現場では、記者とデスク、デスク同士の間で、記事の扱いや表現の適、不適などをめぐって激論が交わされることも珍しくなかった。編集局にはいつも騒然とした無秩序な空気があった。いまは議論の声もなく、キーボードをたたくかすかな音だけの静かな編集局が日常の姿だと聞く。
一連の誤報につながった不始末の背景として、職場のコミュニケーション不足だけを指摘することには異論もあるだろう。顔写真の取り違えでは、安易に他メディアに同調、追随するメディアの横並び体質も背景の一つに数えられる。が、職場における意思疎通の乏しさが、少なくとも各社に共通する、重要な要因であることには相違あるまい。 問題はそれぞれの報道職場がその事実をどれほど深刻に受け止め、改善に向けて努力する意思を持つか、である。
自分たちで取り戻す覚悟を
最近の出来事を受けて、企業側はおそらく、あらためて組織の管理体制を強化し、これまで以上にコンプライアンスを強調することが予想される。しかしそれによって、職場で自由に議論し自由に意見表明をできる環境が作られる保証はない。もし報道現場が、現在の職場に自由な議論の雰囲気が欠けていると考えるなら、そして毎日の仕事を充実させるために、より自由な議論の空間が必要だと考えるなら、自分たちの力でそれを取り戻すほかあるまい。その環境を企業の側から与えられることを待つのではなく、自分たちの意思で確保する覚悟を決めることが重要である。
(「メディア談話室」2013年1月号 許可を得て掲載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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