背景を知らなければ

著者: 藤澤豊 : (ふじさわゆたか):ビジネス傭兵
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七十年代の中頃には、進歩し続ける半導体とソフトウェアがもたらすであろう次の社会のありようがはっきりみえてきていた。八十年に入ったとたん進化が加速して、新しい技術を採用した製品が毎月のように同業各社からリリースされるようになった。ついこの間まで新しい技術を搭載した製品が登場するのに三年、四年はかかっていたのに、翌年には同業他社から次の時代の幕開けをうたった製品が登場するようになった。
進化し続けるコンピュータが安価になったこともあいまって、コンピュータを搭載していない機械や設備が姿を消していった。
転職して驚いた。どう考えても今までの延長線ではすまないのに、自社の限界や都合からしか考えない人たちが多い。手を変え品を変え意見を求めても、誰も彼もが当たり障りのないことしか口にしない。それは生物が持っている本能的な保守性かもしれないと思った。繰り返される日常に埋没していれば、今日は昨日の延長線で、明日は今日の繰り返しにしか見えないのだろう。

マーケティングとしては、もたもたしてはいられない。早々に手を打たなければ時代に置き去りにされかねない。いつも次の一手をどうするかで迷っていた。
何が起きようとしているのか、何がそれを起こしているのかを知らなければと、長年懇意にしてきた代理店やパートナーにも聞いて回ったが、これといった方向を示すような話しはでてこなかった。後になって気がついたことだが、彼ら自身すでに技術の進歩から置き去りにされていた。

アメリカの本社は新しい技術の取り込みに必死になっていたが、歴史のある会社だけに今まで培ってきた重い荷物の処理に手間取って、新興勢力の後塵を拝していた。本社が何をどうみて何をどうしようとしているのかの一端を知っているはずの支社長や役員からして本社の影を踏まないところまでしか踏み込もうとはしなかった。というより踏む込む知識もなければ、意識もなかったのだろう。いくら持ち上げても、代理店やパートナーや顧客からの話しぐらいしか出てこなかった。
メールでことは済まない。アメリカ本社の主要な事業体と特定産業専門部隊には毎日のように電話で日本の状況を伝え、事業部の方向性を確認していた。ヨーロッパの主要メーカや顧客の動きもアメリカ経由で手にしていた。すべて社外秘だが、ところどころかいつまんで日本の情報提供者への餌にした。情報を求めて連絡を取り合った多くは、業界誌の編集長クラスで、みんなそれぞれの業界で十年二十年とメシを食ってきた人たちだった。誰も忙しいから、こっちが価値ある情報を握っているだろうと思ってもらわなければ、会ってもらえない。相手に情報を求めるには、こっちからもそれなりの情報を提供しなければならない。相手にする意味なしと判断されれば次はないが、貴重な情報源と思ってもらえれば、無理してでもスケジュールを調整してくれる。海外の情報を提供して、日本の情報を手にする。こっちが求めているのは経済新聞や産業新聞が伝えているようなものではない。もっている情報の真偽の確認や、アメリカやヨーロッパ市場への影響を、逆に日本市場への影響を考えるために噂話しかもしれない情報をやりとりしていた。

話しを聞いて、まさかそれはないんじゃないか?本当にそんな荒業をしかけてくる度胸があるとも思えないと思うものもあったが、ほとんどは想定内の動きだった。ご同業にしろ顧客にしろ、それぞれが置かれた状況と彼らの競争相手との関係を把握していれば、これこれこういう理由で、この手は打ちようがないし……と消去法で整理してゆけば、可能性はいくらも残らない。欲しいのはこういう動きをしようとしているという具体的な話より、業界全体のおかれた状況とその業界内でのそれぞれの会社が置かれた状況だった。おぼろげにしても置かれた状況を把握できれば、今し続けているとことからこれからどうしようとするかの選択肢の想像がつく。これかあれかという選択肢を描ければ、あとはその選択肢の可能性を業界誌なりなんなりの知り合いになげかけていけば、ほぼ間違いなく、この手を打ってくるだろうと見当がつく。
施策とよんでもいいし戦略と呼んでもいいが、それは置かれた状況からそれぞれの会社が考えた末に決めたことに過ぎない。検討した結果の多くはいずれ公の事実になるが、マーケッティングとしては、その前にいくつかの対応策を用意しておく責務がある。

情報を生み出した組織がおかれた状況をそこそこにしても知らなければ、手にした情報の意味を理解できずにスルーしてしまうなんてことも起きる。情報は来月にはそれを上書きする情報で置き換えられる可能性があるが、状況さえ把握していれば上書きする情報ですら予測できる。
ちょっと飛躍するが広義の社会科学の領域にも似たようなことが言えると思っている。明治維新以降、先進ヨーロッパで生まれた政治思想や哲学、経済学も社会学も、その体系を輸入することはできても、それを生み出した社会や文化、その背後にある歴史……は輸入できない。生み出されたもの思想や哲学が施策であり戦略に相当する。思想や哲学を生み出した、それぞれの会社がおかれた状況がある。状況、情報を生み出した背景といいかえてもいいが、それを知らなければ、情報として得られた施策や戦略に対処するための後追いのバタバタに終始する。事の常だとも思うが、見えたものを生み出したのは何かとつきつめなければ見えたものまでで終わる。

ギリシャ文明、さらにはエジプトやイスラム教徒との戦いからキリスト教の支配とカトリックとプロテスタントの争い、そこから大航海と植民地獲得競争に産業革命、さらにナポレオン以降の戦乱を背景に生れたヨーロッパの思想を明治維新以降輸入してきたが、思想を生み出した背景までは輸入しえなかった。背景の理解なしでは、輸入した思想ですら自分たちの文化と能力の範囲でしか消化吸収できない。そのできないことをそのままに今の日本があるような気がする。手に余るほど輸入してきたが、日本から輸出されたのは工業製品だけだったとは思いたくない。なにかあってもよさそうなものだが、近視に乱視のはいった目とボケた頭のせいか、これといったものが見つからない。
2024/8/11 初稿
2024/9/23 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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