民主、リベラル、左派、何れの陣営にあっても、自由民主党の改憲草案には批判的意見をお持ちでしょう。 曰く、戦争の出来る国家への変容を目指すもの、或は、復古主義の塊、等々です。 しかし、現実に改憲が可能になれば、それらは表面的な批判に過ぎないものと思い知らされることになるでしょう。
草案の実体は、第9条改憲等は、手始めに過ぎないのであり、究極の目標は、国家改造であり、個人の圧殺と全体主義に依る国家権力の万能性の制度化なのですから。 その理念は、人権の保障を定める憲法の改正では無く、人権を制限し国家権力絶対の全体主義に依る統治なのです。
政党名に「自由」と「民主主義」を謳う政党が、両者を封殺する狙いで改憲を狙う矛盾を如何に表現するべきか、戸惑いますが、草案を文言としてではなく、実際の事例を想定しながら読むと、その恐るべき全体主義の展開が予想出来るでしょう。
仮に、改憲が行われれば、最初に草案第64条の2第1項に基づく法律を制定した後に、反対政党が規制を受けて解散させられ、その後には、草案第21条第2項に基づき、国民の結社の自由が奪われ、反原発運動団体等も全てが解散させられるでしょう。
即ち、草案の表現の自由に関する第21条第2項では、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」と制限しているからです。
加えて、草案では、政党について新たに条項を設けて、第64条の2第1項において、「国は、政党が議会制民主主義に不可欠の存在であることに鑑み、その活動の公正の確保及びその健全な発展に努めなければならない。」と定めているからです
さて、それでも、時の政権に対する反対運動が粘り強く行われて、時の政権が危機感を覚える事態になれば、草案では、必殺の手法が用意されています。
理由は、事実上、何でも良いのです。 震災、火山噴火、巨大台風等、或は、テロ等を口実に内閣総理大臣が法の定めるところに依り「緊急事態の宣言」(草案第98条第1項)を発すると、法律を制定せずに内閣限りで制定可能な「政令」に依り何でも定めることが可能です。 「緊急事態」とは他国で云うところの戒厳令布告と同じ、或は、より強力な制度ですが、議会の同意を百日単位で得ることが出来れば、長期に反復継続が可能です。
従って、例え、議会に反対政党なり議員が存在すると仮定しても、時の政権政党が、それら反対勢力を過半数で上廻っている限りは、長期に渡る「緊急事態」を継続可能なのです。 または、「緊急事態」発出と同時に、内閣総理大臣命令で反対勢力議員全員を逮捕すれば済むのです。
この全体主義国家の国民は、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」(草案第12後段)と義務づけられた国家の僕と化すのです。 即ち、ファシストに依り統治された国家です。
草案には、憲法尊重擁護義務が定められています(第102条)。 しかし、その義務は、最初に、国民に向けてのものが定められてあり、草案の持つ国家改造の精神が如何なるものかを物語っています。
そもそも、憲法とは、今この瞬間に我々が手にしている権利、権利に基づく国家の政治制度、就中、国家権力発動を制限する諸制度を定めるものであり、国民の義務を定めるものではありません。
現憲法が定めるように、国家権力は、強大であるがために、三権に分けて制度化し、相互に牽制し人権干犯の恐れが無いように企図されたものですし、全てが人権を抑圧することが無いように歴史的に検証されて政治制度として、今日、確立されたものです。
イギリスを例にとると良く分かります。 イギリスには、憲法はありますが、憲法「典」はありません。 憲法は、歴史上の諸文書、裁判所の無数の判例、議会の慣習等々に依るものであり、纏まった法典としては存在しないのです。 それは、日本国憲法が言うところの、人類の長年に渡る努力により獲得されたものとしての例証なのです。
ところが、自由民主党の改憲草案は、その思想からして人類の歴史と相違し異質であり、本来は、憲法の改正案とは呼べない代物です。 このような代物を改憲草案とする政党には、「自由」や「民主」を標榜することは出来ないと言わねばなりません。
また、政治思想の左右を問わず、人権を重んじ、真に自由と民主を貴ぶ人ならば、この改憲草案には、賛意を寄せられる筈はありません。 草案に沿って、その真意をくみ取ることが肝要と思われます。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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