また1人、ひたすら反戦平和のために生きた人が逝った。大島孝一さん。元女子学院院長。領土問題の緊迫化とともに集団的自衛権の行使や憲法改定を声高に叫ぶ政治家がにわかに台頭しつつある今、私たちは今こそ大島さんの訴えに耳を傾けたい。
9月半ば、市民運動家(元べ平連事務局長)の吉川勇一さんから、吉川さんが個人で運営しているホームページのコピーをいただいた。読み進めて驚いた。大島孝一さんの訃報が載っていたからだ。それによると、8月27日に亡くなり、30日に西千葉教会で葬儀が行われたという。95歳。平和運動や宗教界ではかなり知られた方だったから当然、新聞に訃報が載っているはず、と8月末の新聞各紙をひっくり返してみたが、見当たらなかった。遺族や周辺の人たちが新聞社に知らせなかったのか、あるいは通報を控えたのか。
私が大島孝一さんの面識を得たのは、今から53年前の1959年のことだ。
当時、私は全国紙の盛岡支局に新米記者として赴任したばかり。取材先の1人であった石川武男・岩手大学農学部助教授(農業土木学。その後、教授、農学部長)を訪ねると、石川助教授が言った。「戦没農民の手紙を集めて刊行することになった。いわば、戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』の農村版だね」
『きけ わだつみのこえ』が日本戦没学生手記編集委員会編で東大協同組合出版部から刊行されたのは1949年のことである。
当時、岩手県には「岩手県農村文化懇談会」という文化グループがあった。農民、県庁職員、公民館主事、教員、農協職員、農業改良普及員、保健師ら約100人の集まりで、「農村の民主化」を目指して毎年集会を開き、農村の生活や文化活動について話し合うという活動を続けていた。
石川助教授によると、この年の集会で、農村に残る戦争の傷跡のことが話題になった。とくに、マスメディアでは戦没学生のことばかりが華やかに取り上げられ、その手記がいくつも出版されるのに、戦没農民のことはほとんどかえりみられないことが問題にされた。 その結果、「農民だって喜び勇んで戦場に行ったのではないはずだ」「農民は妻子のほかに農業という生産の場を残しての出征だっただけに、学生たちとはまた違った深刻な悩みがあったのではないか。農村に再び戦争の悲劇をもたらさないために、戦没農民が郷里の肉親らに宛てた手紙を貴重な文化遺産として残そう」という提案があり、満場一致で採択されたという。
かくして、農文懇によって戦没農民の手紙の収集が始まった。全国から集まった手紙は728人分、2873通。岩手県内のものが多かった。厳しい検閲を経たたものが大部分だったが、戦地から日本へ帰る戦友や看護師に託した非合法の手紙もあった。うち約150通を収録した『戦没農民兵士の手紙』が、岩手県農村文化懇談会編で1961年に岩波書店から刊行された。戦没した農民の手記がまとめられたのは初めてとあって反響を呼び、ロングセラーとなった。
編集にあたったのは石川助教授ら農文懇の世話人12人だったが、その1人が大島孝一さんだった。大島さんは当時、岩手大学学芸学部助教授。盛岡市上田にあった同大学で物理を教えていた。私は何度かその教室を訪ねた。熊本市生まれで、東北大学理学部物理学科の出身。穏やかな物腰、相手の目をじっと見つめて話す静かな語り口が印象的だった。
私は60年に盛岡を去り、その後東京勤務となったので大島さんとのお付き合いは途絶えたが、大島さんも66年に東京に移られたので、それを機に再会の機会を得た。
それにしても、大島さんの移られた先が東京・千代田区一番町の女子学院だったので、少なからず驚いたことを覚えている。なにしろ、女子学院といえば、プロテスタント系の良く知られた名門校。しかも、その院長への就任だったから。このことから、私は大島さんがクリスチャンであることをこの時初めて知った。
女子学院院長在任は1980年までの14年間に及んだ。この間も積極的に社会運動に関わり、日本戦没学生記念会(わだつみ会)常任理事、日本キリスト教協議会靖国神社問題特別委員会委員長などを務めた。そのかたわら、平和問題、靖国神社国有化問題、台湾における人権問題などで積極的に発言した。女子学院院長退任後も精力的な活動に変わりはなかった。戦後補償実現市民基金共同代表も務めた。
大島さんが生涯を通じて訴え続けたもの、それは戦争を知らない世代の人に戦争の惨禍を知ってもらいたいということだったようだ。そうした大島さんの願いの結晶とも言えるのが『戦争のなかの青年』(岩波ジュニア新書、1985年刊)という著書である。
同書は『ドイツ戦没学生の手紙』(岩波新書)、『きけ わだつみのこえ』、『戦没農民兵士の手紙』、渡辺清著『戦艦武蔵の最期』(朝日新聞社)などの著作の内容を紹介したものだ。そこでは、各著作の一部が引用されているが、いずれも戦争に動員されて死に直面した青年たちがつづった手紙や手記である。
大島さんは「あとがき」の中で本書を著した狙いをこう書いている。
「私は、太平洋戦争のはじまる少し前から、戦争が終わるまでの四年半、軍隊生活を経験した。戦局がきびしさをますにつれて同じ部隊から仲間が第一線に出動するたびに、私は自分の身を引き裂かれる思いで彼らを見送った」
「あれから四〇年、日本は戦争に直接巻き込まれることなく、平和を享受してきた。しかしその間、日本の軍事化は着々と進められ、いまや世界で第八位の軍事支出を占めるまでになっている。そればかりか、日の丸、君が代、靖国神社と、戦前・戦中に『愛国心』をかきたてたシンボルがつぎつぎ登場してきている。こうしたなかで私は、ふたたび歴史の過ちをくり返したくない思いから、若い人たちに戦争の惨禍を知ってもらいたいとの願いをこめて、つたないペンをとった」
「本書にとりあげた本はいずれも、かつての戦争のさなかに、死に直面したぎりぎりのところで書き残された青年たちの訴えに満ちている。その悲痛な叫びに耳を傾けることから、ぜひとも若いきみたちに、いま戦争について考えてほしい」
表紙カバーにある著者紹介によれば、大島さんは大学卒業後、福岡管区気象台に勤務していた1941年に召集され、現役兵として入営。軍隊では陸軍の気象班員をしていた。こうした経験が、大島さんを反戦平和の行動に駆り立てていったのだろう。
私が大島さんに最後にお目にかかったのは1994年12月7日だ。この日、大島さんは当時私が務めていた新聞社に私を訪ねてきた。その時、ひどく憔悴していた。当時、わだつみ会で内紛があり、週刊誌でそれが報じられた。そのことから来る心労が大島さんを消耗させていたようだった。「岩垂君、どうしたらいいだろう」。私としては答えようがなかった。
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