初めに本ちきゅう座,熊王信之氏そして専修大学名誉教授内田弘先生に感謝申し上げたい。特に内田先生の論考は藤田嗣治画伯の評価について小生の理解を深めさせてくれた。感謝申し上げたい。
すでに別稿で述べたように,藤田画伯がパリへ行く前に会った加藤周一が彼を論じている。しかし絵画に対して無知な小生は藤田の絵をネットで僅かしか見たことがないから,熊王氏が藤田批判を展開されたことによってさらに藤田の絵を見る機会が得られた。感謝。
さて,内田先生の指摘に共感した点は2つほどある。1.[熊王氏の説明なしの「戦争協力画」規定]の中の「規定」である。中学高校で習った数学用語では規定=「定義」である。四つ足の猫は猫であるのかどうか。確かに熊王氏には戦争協力画の定義がない。定義がなければどうなるか。それが2つ目である。熊王氏は戦時下の厳しい監視体制を指摘されるが,藤田の玉砕画を「追悼画・鎮魂画」とみるか,国威高揚の画とみるかは見る人によって異なることから,議論がかみ合わない。多くの国民は前者であり後者は軍部である。
加藤周一『藤田嗣治私見』では,「軍部の担当者が戦闘を記録する大画面を藤田に任せた理由は,彼の画面が抜群の迫真性をもっているかだ」と論じている。加藤は「--藤田は確かに軍部に協力して描いたが,戦争を描いたのではなく,戦場の極端な悲惨さを,まさに迫真的に描き出したのである。そこから戦争についてどういう結論を導き出すかは,画家の仕事でないだろうと考えていたのだろう」と付け加える(加藤周一自選集10,p170)。ゆえに国民は藤田の絵に見入ったのであろう。
さて内田先生のこの論考で教えていただいたのは湯川博士の件である。博士が軍部に協力していたという話を初めて知った。加藤は広島原爆投下1ヶ月後して,米軍専門家に同行して広島市の放射線被害を調査した。しかし医師加藤は障害についてあまり語らない。なぜか。それは医療関係従事者全員が占領軍に口止めされていたからだという説がある。
加藤のほとんどの文章を読むと放射線障害に関する記述が出てくるのは晩年である。しかし彼は湯川博士兄弟(漢文・『論語』研究者の貝塚茂樹)を高く評価している(ニ-ダム・湯川・素人の科学,同掲書,p209)。それは別にしても博士とは放射線障害についていろいろ話し合ったはずである。それを紹介してほしかった。
まとまりのない文章を長々と書いてきたが,熊王氏や内田先生の論考を読ませていただき,加藤周一理解がさらに進んだように思われる。最後に感謝申し上げたい。
なお小生の好みを申し上げれば,猫(クチン)ではなくて慰問団歌手淡谷のり子女史の反「もんぺ」姿勢である。憲兵隊の強い指導があっても国民服「もんぺ」をはかなかったそうである。