虚栄のかがり火資本主義を打ち破れ!(ちきゅう座総会で思ったことについて)

取りあえず、短く、ちきゅう座総会への感想を入れてみます。

全てをオープンにやっていくしかありません。

 

僕としては、初の参加だったわけですが、たんぽぽ舎さんやテント支援者の方が詰め寄せて、また、現在、憲法そのものの危機もあり、安倍内閣の暴走もある故に、ここぞとばかり発言したい人が多いのかと思ったのですが、やはり、時間も短く事務的な確認のみでどこぞの株主総会の様な荒れ方もなく、荒れたなら荒れたでまた困るのですが、静かな会でもあり、みな、これではまずいと思っていたのではないでしょうか?

 

問題は、ちきゅう座ページそのものが、内輪の会となっており、待っているだけの場所となっている事の批判の声がやはり上がっていた事でしょう。

積極的に、優良な組織に対話を求めていく、リンクを貼っていきながら必要であるなら対話集会としていく事ではないかの声が上がっていました。具体的には、マイニュースジャパン

http://www.mynewsjapan.com/

(ウィキペディア解説)

http://ja.wikipedia.org/wiki/My_News_Japan

こちらとの対話やリンクを進める提案です。機械的にリンクをするのではやはり相互対話としては物足りないものがあるやもしれません。

むしろ、ジャーナリズムとしてのネット進出を促す。

朝日新聞やTBSのネット動画や岩上安身さんなど既に、ネット動画を取り入れている方との技術知識提供を受ける連携などや「社民党」や「生活の党と山本太郎となかまたち」「日本共産党」などなど、オールジャパンやフォーラム4の植草一秀氏、古賀茂明氏とのネット連携や学習会など既に、翳りを持っていても、憲法改正や安倍内閣暴走を危惧する連携の中で、対談、学習会を持ちかけるなど、まさに、「連携的対話と実践」(その3)としての人海戦術で、出来るだけ、お金をかけずに、相互広報としての広告費をかけずに、話題として、広げていく方法論と問題意識の共有は、可能でありながら、その波に乗れずに、孤立している左派、更に、内輪の会に留まり、「待っているだけのちきゅう座」の問題点は、致命的な日本の知性の持ち腐れ的危機が、そのまま、安倍内閣暴走を許しているのでしょう。

実は、また、モーツアルトの例、エミールの例ではありませんが、小学校、中学校時代で、大部分の人の階層的にも意識的にも決定するのです。

教育の現状へ批判的に取り組むのでなければ、人生も人間の一生も決めってしまっている現実を理解して、そこに踏み込むのでなくては何も変わらないのです。

それが、ピケティ氏の教育格差の意味でもあり、子供を子ども扱いにしない、手塚治虫から宮崎駿、白土三平氏のかつての領域であった事、それを理解しなかった故に、若者そのものが、骨抜きにされている問題点が、日本の安倍内閣暴走ファッショの具体的問題である事に理解を深めなくてはならないんです。

教育改革と情報的洗脳性としての階級、植草一秀氏的指摘とするなら政官業アメリカ支配としての洗脳である教育階級性としての核心に迫らなくては民主主義も政党政治もオールジャパンとしての民衆政治も取り戻せないのです。

雁屋哲氏的に言うなら子供たちは、「メジャーの奴隷」となっているのであり、サラリーマンも社会の奴隷、労働者階級は、アイディンティイを喪失せしめられ、老人は、認知症予備軍とされているまさに、生きている墓場である状況が、日本資本主義の末路であり、真の意味での文学も文化も死滅しているその危機こそが、安倍内閣暴走、資本の暴走としての政官業アメリカ支配である事を問うちきゅう座でなくてはならない。

このままでは、生きたまま殺されているのと同じであると危機感を広めなくてはなりません。

 

更に、問題は、多対一であり、インターネット上の情報の過多に対して、如何に整理して、提供できるのかの問題でもあるので、情報が、多ければ良いと言うわけではないと言う事もあります。

 

本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(88)

https://chikyuza.net/archives/53278

変貌するキューバ(中) -軌道に乗る「経済改革」-

https://chikyuza.net/archives/53242

国家と権力のウソに騙されず真実を掴む

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-089d.html

 

若干の中国論、キューバ論、書評もありますが、中国、キューバの歴史的全体像としての断片的でもあり、不満もあります。

前回の僕自身のマルクス論「目に見える経済学」としても多分、段階論的窮乏脱出論としての社会主義的知性の到達としても不満な叙述を感じます。

 

つまり、アメリカ映画的に言うと、デ・ニーロの出世作「タクシードライバー」のセリフがあります。

「俺は、家も自分の車も持たない。しかし、ハッピーだ」そう仲間のタクシードライバーが、語る。

確かに、金も家も財産もあの世まで持っていけるものではない。

マルクスは、「失うものは鎖だけであり、得るものは、世界であり、(歴史的人間)としての全てであるのだ」。その様に、共産党宣言でいったのではないでしょうか?

 

重要なことは、マイホーム主義など資本主義的「虚栄のかがりび」に縛られるよりも大事なものがあると言う「世界に向き合う知性」であるということが、重要でしょう。

 

アメリカ映画は、一時期、ヌーベルバーグと共に、アメリカンニューシネマ系列と若者の反抗と戦いの思想を題材にしていた時期がありました。

虚栄のかがり火

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E6%A0%84%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E7%81%AB

この映画は、大失敗作の様で、僕も観ていても記憶されていませんでしたが、資本主義(剰余価値)に踊らされ、金に踊らされて、それ以上に大事な人間性を見失った生きたかが何になろうか?の問いであり、アメリカンポルノと言われた「アラビアのロレンス」のピーターオトゥルの出ていた「カリュギラ」の中でも「たとえ世界を手に入れたとしても自分を失っていたとしたならなんになろうか」とのプロットから始まった意味に戻らざるをえません。

 

その論理の総決算としてピケティの「21世紀の資本」格差論が登場したのではないのかと僕は、考えるわけです。

 

それに折り合いをつけて、如何に、良質な情報を選別して、それぞれの発展段階に対して、提供していけるのかの初等教育の問題が、大きく、それを帝国主義や安倍内閣暴走に手渡しては、まさに、人間も日本文化も破壊されると言う危機感を明確にしていかねばならない現在の問題をまさに、「アラビアのロレンス」の様に、部族を乗り越えて、対話し、現代ファシズムに対抗していかねばならない時なのです。

 

テント訴訟問題でも覚悟を決めて、支援しようとしている人を43人に限定していくのがおかしいと言う話がありました。

支援の内外性、こちらは、人海戦術しかないのです。

集団訴訟として、労働組合的力押しではなく、代表者を決めてくれ、と資本家が、一人を抽出して、懐柔していこうとする、幹部懐柔策的要素もあるとしても、やはり、内外の支援者が、必要であり、その理解を求めるための時間であったようにも感じます。

生気を失った運動であっては、ならない様にも感じました。

 

オール沖縄も辺野古も宮崎駿さんたちのおかげで、資金が集まっている様です。

是非、オール沖縄ちきゅう座を作成するよう呼びかけたり、学習会的に日米安保論、アメリカ戦争史の学習会として、知性とそれぞれの人の顔が見える様に、出来るのではないでしょうか?

組織対組織のリンク連携、対話と実践性がここにもあります。

アメリカ国交回復によって、最貧窮から飲食業10%オフの商法を覚えたにとどまらない医療教育先進国としてのキューバ、デニーロ、タクシードライバーであっても哲人と呼ばれる文学通がいる底辺の改革者、労働組合のある逆階層性としての「平等社会」としての「人間解放」を中国へそして、外交的に、資本主義の奴隷となっている日本の解放の方向として、確認できる「ちきゅう座総会」であるなら、「技術なし、理念なし、金なし」脱出、せめて、理念と理想は、高く掲げて欲しかったですよね。

 

そのジャンヌダルクの自由の旗にみな魅せられて集まるはずなのです。

 

取り急ぎこんな感じで。

(いつも会話言葉のように書き出し読み直さず入れていてすみません。)