昨年3月に端を発したシリアの反体制運動は、1年3カ月の抗争で1万人超といわれる犠牲者を出しながら、まだ決着が着きそうにない。シリアの多数派イスラム教スンニー派を主体とする反体制勢力は、スンニー派が多数派を占める周辺アラブ諸国とシリアのアサド独裁政権の転覆を望む西側諸国の支援を得ているものの、政権打倒のメドは立っていない。イスラム教シーア派の一派アラウィ派を基盤とするアサド政権は、イランなどシーア派勢力の支援と、中東における米欧覇権を崩したいロシアと中国のバックアップを背に、権力を死守する構えだ。
2010年12月、北アフリカの小国チュニジアに端を発した「アラブの春」と名付けられた民衆決起は、この1年半の間にチュニジア、エジプト、リビア、イエメンの独裁体制を崩壊させた。この流れからすれば、父子2代40年にわたるアサド独裁政権が倒されて不思議はないが、そうなっていない。その理由としては、第1にスンニー派とシーア派の宗派抗争が本格化しそうなこと、第2に米欧諸国がイラク、アフガン戦争で疲労困憊し、イスラム圏への本格介入を避けたいこと、第3に中東の中心部でイスラエルと国境を接するシリアの地政学的配置の重要性-などが挙げられる。
全世界で13~14億人を数えるというイスラム教徒。そのうち予言者ムハンマド(マホメットの表記は正しくない)の言行録「スンナ」を信仰のよすがとするスンニー派は、信徒全体の9割近くを占めているとされる。片方のシーア派は主にイランとイラクに集中しているが、その他のイスラム圏に散在し、その数は総計1億数千万人。シーアとは、ムハンマドの従弟で娘婿の第4代カリフ(信徒の長)、アリー・ブン・アブー・ターリブを指導者と仰ぐ「アリーの党派」という意味のアラビア語である。ともに聖典コーランを信仰の糧としながら、スンニー派とシーア派は異なった歴史的経過を辿り、抗争を繰り返してきた。
西暦632年に教祖ムハンマドが没した後、誕生したばかりのイスラム教徒の共同体(ウンマ)はムハンマドに代わる指導者「カリフ」を選んだ。656年に4代目のカリフに選ばれたハーシム家のアリーは661年、アリーの就任に反対するウマイヤ家の手の者に暗殺された。ウマイヤ家はダマスカスを地盤に当時勃興しつつあった部族集団で、アリー亡き後のイスラム世界に君臨するウマイヤ朝を興した。
アリーとムハンマドの娘ファーティマーの間に生まれた息子のフサインは、父亡き後シーア派の最高指導者「イマーム」として、精力的に布教活動に当たったが680年、カルバラ(イラク中部)の地でウマイヤ朝の部隊に包囲されて戦死した。カルバラがシーア派の聖地となったのは、このフサイン殉教を記念するためである。シーア派の信者は1300年後の今日も、フサインを悼んで「アシュラー」とよばれる祀りをカルバラで営む。それは男たちがこぶしで胸を打ち、鎖で身体を傷つけ、刀で血を流してフサイン殉教をわが身に再現する営みだ。見物人も「ああフサインよ」と叫んで同調する。ムスリム(イスラム教徒)は殉教を恐れないとされるが、シーア派の人々の殉教観には独特のものがあるという。
シーア派では、イマームという言葉が特別の意味を持つ。アラビア語でいうイマームは指導者の意味で、スンニー派では①モスクでの金曜日集団礼拝の先導者②カリフと同じ意味③学問の権威者-のことというが、シーア派で言うイマームは聖・俗全世界の中軸的存在で、神の光明をあらわし、王の威光を備え、予言者から秘儀を授けられた特別の存在と信じられてきた。シーア派の伝承によると、アリーは予言者ムハンマドから初代イマームに任命されていたとされる。以後12代イマームまでが、ハーシム家の血縁で維持された。
ところが873年、12代目のイマームが「お隠れ」になり、以後現代に至るまでイマームはお隠れ中というのがシーア派の解釈である。1979年のイラン・イスラム革命の指導者ホメイニ師は、イマームが「お隠れ」から姿を現すまで、イスラム法学者がイマームの意志にそってこの世を統治するという見解を示した。現在のイランはこの「イスラム法学者の統治(ヴェラヤティ・ファギーフ)」の下にある。これがが現代イランを司る「12イマーム」の神話であり、12代目のイマームはこの世の終わりの前に「マハディ(救世主)」として再臨すると信じられている。
「アメリカの傀儡」と見なされ、欧米流を真似た「白色革命」でイラン近代化を目指したパーレビ国王は1979年、ホメイニ師のイスラム革命に敗れた。革命以来35年を数える現代イランは、かつて中東と中央アジアの全域を支配したペルシャ帝国の版図復活を目指している。そんなイランにとって、シリアのアサド政権は数少ない、貴重な友好的政権である。シーア派亜流の一派でしかないアラウィ派とはいえ、アサド政権はイランにとって、当面の敵であるスンニー派に対抗するのになくてはならない存在だ。
ここでシリア国内で決起したスンニー派を助けてアサド政権を倒そうと、特段に張り切っているのがサウジアラビア、カタール、バーレーンなどの湾岸産油国だ。これらの湾岸産油国は、支配階級はスンニー派だが産油地帯はシーア派住民が占めるという共通の問題を抱えている。とりわけサウジアラビア東部の油田地帯はシーア派住民の土地であり、スンニー派の王族に敵対意識を持っている。またサウジアラビアの衛星国家とも言うべきバーレーンは、多数を占めるシーア派住民が少数派のスンニー派王族による支配に反抗している。これらシーア派住民と気脈を通じるイランとシリアのアサド政権は、スンニー派の王族にとって「眼の上のたんこぶ」である。王族としては「アラブの春」を利用してアサド政権を追放する絶好のチャンスが訪れているという訳だ。
アサド政権追放を望んでいる点では欧米諸国も、湾岸産油国の王族と同じだ。欧米はリビアでは、NATO(北大西洋条約機構)の空海軍力を介入させてカダフィ政権打倒に力を貸したが、シリアに対する軍事介入は忌避している。まずイラク、アフガンで懲りた地上軍の介入は問題外である。シリア反体制側は、シリアでもアサド政権打倒を助けるNATOの空海軍作戦を実行して欲しいと要請しているが、欧米側はこれにも応じるつもりはない。国連安保理で拒否権を持つ中露の意向で、欧米側はアサド政権にたいする制裁決議さえ実行できないのが現状だからだ。
人口640万のリビアと2080万のシリアとではスケールが違う。アフリカ大陸の北端に位置するリビアと地中海の東岸、中東の中心部に位置し、イスラエルと国境を接するシリアとは地政学が全く異なる。しかも「アラブの春」に目覚めたアラブ民衆の多くは、エジプトの選挙結果にみられるようにイスラム主義への回帰を目指している気配だ。このように、リビアに介入した欧米がシリアへの介入をためらう理由はさまざまだ。ともあれ、騒乱に次ぐ騒乱を体験してきた中東はシリア内戦という新たな騒乱に揺さぶられているが、袋小路の出口は見えないままだ。
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