被爆実相の継承、核兵器廃絶への思い・行動に希望が
あれから80年、被爆者は高齢化し、死没者35万人に
8月6日の広島。アメリカ軍のB29爆撃機の原子爆弾投下から80年。原爆ドーム横の平和公園で行われた平和記念式典は原爆投下時間の午前8時15分に黙とう。参列した5万5千人のざわめきは消えてセミ時雨(しぐれ)一色に。
広島では1発の爆弾で一瞬にして10万人余、その年の終わりまでに14万人が亡くなった。 高温の火の玉が広がって、多くの人が焼け死んだほか、強い放射線によって体の組織を破壊され、今も深刻な健康被害による苦しみが続き、人生を狂わされた方々がいる。
この1年に確認された原爆死没者は4940人で、平和公園の慰霊碑に奉納される名簿は合わせて130冊。記載された名前は34万9246人となった。
犠牲者追悼と、核兵器廃絶の声を国内外へアピールする日
被爆者が高齢化し、直接に体験を聞くことが難しくなる中、核兵器をめぐる国際情勢は厳しさを増しているが、ここ被爆地・広島は、犠牲者の追悼と共に核兵器廃絶の声を、改めて国の内外に強くアピールする熱い1日となった。
私の広島訪問は、現役時代も含めて10数回になるが、取材させてもらった被爆者の方々や平和活動関係者の多くとは、もう会えない。2年前は、広島市の「家族伝承者」という試みを知り、頼もしく感じたが、今回も沢山の発見があった。
式典には被爆者や遺族代表、石破総理大臣の他、過去最多120の国と地域、欧州連合も
世界中からの参加は最多になったが、これは、ウクライナやガザ、さらにインドとパキスタンの衝突で核兵器が使用されるのではないかという危機感の反映ではないかとの見方がある。皆さんと同様に私もそう感じる。
式典で120もの国などの参加が紹介された時、家族からロシアは来ていないと説明された小学生が「何だよそれは、原爆落とした国も来ているのによー」とつぶやいていたが、私たち大人こそが発しなくてはならない言葉だと、少々恥じ入った。
毎年の平和宣言は中身の濃い内容だが、広島市の松井市長は、今年は「平和文化」という言葉を何回も使い、「文化芸術活動やスポーツを通じた交流などや、平和をテーマとした絵の制作や音楽活動に参加」「被爆樹木の種や二世の苗木を育てる」など、日々の生活の中でできることを見つけ、行動することを呼びかけ、特に若い世代が先導して国境を越えて広がっていくことが「核抑止力に依存する為政者の政策転換を促すことになります」と強調した。
「広島市は、皆さんが『平和文化』に触れることができる場を提供し続けます」とも宣言したが、全国の自治体首長に、どのように響いたか、聞いてみたい。
平和公園で、英語で説明ガイドをしている小学生が、記念式典で「平和の誓い」
平和記念式典で私が注目したのは、黙とう、「平和宣言」に続いた子ども代表の「平和への誓い」だった。男女2人のうち小学6年生の男子は、平和公園で海外からの観光客向けにボランティアガイドをしている。英語で。
当日のテレビ朝日・モーニングショーの録画で確認すると、曽祖母が彼と同じ12歳の時に被爆し、がんを患って69歳で他界している。彼は曽祖母に会ったことはないが、「せっかく広島のことが知りたくて来ている外国人が多いから、日本のことを伝えられたらいいなと思って」と語っていた。
これまでにガイドした外国人は約2000人。外国人は「君の話を聞いて、やっぱり核兵器はなくすべきだって思ったよ」と言った。それを聞いて、彼はこう思ったという。「自分が話すことによって、誰かの気持ちが変わるんだなって」
さらに衝撃的だったのは、彼がガイドを始めたのが小学2年の時だと知った時だ。大人は負けていないか?
「平和の誓い」は児童20人が話し合った文章。ネットの悪口投稿には反撃カウンター
「誓い」の文案は、意見発表会で発表した20人の児童が話し合いをして作成したという。「平和への誓い」の末尾は「大人だけでなく子供である私たちも、平和のために行動することができます」「私たちが被爆者の方々の思いを語り継ぎ、一人一人の声を紡ぎながら、平和を創り上げていきます」と結んでいる。
ネットのコメント欄には「感激しました。希望を感じます」「総理大臣より立派だったぞ!」という感想が続々と掲載されている。ところが、事実を確認せずに揶揄する投稿もある。これに対して、すかさず「12歳の子が立派に活動している一方で、ここに酷いコメントしている大人の情けなさ」と“カウンターパンチ”をする人も。コメントを検索するだけでなく、正しく反応することの大切さがこの例からもよくわかる。
復刻「1945年8月7日付 ヒロシマ新聞」、2025年8月6日の「中国新聞特報」「読売新聞号外」
地元広島のメディアは奮闘している。二つの新聞社の8月6日号外などを入手できた。
8月6日、読売新聞は両面刷りの「号外」。1面には「被爆80年 誓い継ぐ」との大見出しが踊り、紅い灯が燃える「原爆死没者慰霊碑」の写真と「平和宣言全文」。2面は「核廃絶 ネバーギブアップ」の横見出し、「被爆地・広島の歩みと世界の主な出来事」の年表と平和宣言の英文。加えて、まだ明けやらぬ平和公園内に点在する慰霊碑に線香を手向ける子どもや、犠牲者の冥福を祈る人々の写真。
中国新聞の「特報」は4ページ建てで、1面は「核廃絶 市民の総意に」「若い世代に行動呼びかけ」という見出しと共に記念式典を報じる署名記事。「広島平和宣言」の骨子も記載。見開きの2面・3面は平和公園で手を合わせる人々の大きな写真に「誓う 伝え続けること」の見出しが寄り添う。「平和宣言」と「平和への誓い」全文は、読み上げた松井市長だけでなく、二人の小学生の笑顔のカラー写真付きだ。「世界と広島の主な出来事」は日本語の年表と英文で説明している。
中国新聞は、原爆投下で発行できなかった1945年8月7日の新聞を、被爆50周年の1995年8月6日に、その時点で改めて取材・編集して中国新聞労働組合が発行。その新聞を「ご家庭や学校でお読みいただき、平和の尊さについて考えていただくために」と、有料だが「ヒロシマ新聞」の題字で保存版として“復刻”。1面に「新型爆弾 広島壊滅」の大見出し。悲惨な状況を写真と記事で紹介している8ページの構成だ。
なお、同新聞社は原爆投下で本社屋を焼失、社員の3分の1の114人を失ったが、他の新聞社に代行印刷を依頼して3日後の8月9日から発行を続けている。
記念式典後、被爆当時の痕跡を残す「被爆建造物」を訪ね歩いた
広島には何度も来ているが、原爆ドーム以外の遺構を落ち着いて見ていないことに気がつき、記念式典後、地図を片手に平和公園周辺を歩いた。原爆ドームのほとんど真上で原爆がさく裂しているから、木造などの建物は消えてしまっている。頑丈で解体されずに残った建物などは狭い範囲にある。
原爆ドームから西へ本川の橋を渡るとすぐにあるのが「本川小学校平和資料館」。公立小学校としては初の鉄筋コンクリート3階建てであったことから、校舎の一部と地下室が残り、資料館として保存されている。原爆被害の当時の焼け跡が残り、見学者は声も出ない。
平和公園から東へ元安川を渡った「旧日本銀行広島支店」は堅牢さから被爆当時の様子を残していて、地下の金庫はギャラリーとして活用されている。
すぐ東側の道路に面している「袋町小学校平和資料館」は、鉄筋コンクリートの校舎の外形が残り、避難場所や救護所に使われたことから、児童や地域の人々の安否を尋ねる場となり、階段の壁などには、「伝言」が残っている。何を使って書いたのか、必死に安否を心配するかすれた文字が胸に迫る。
平和公園は、かつては歴史ある繁華街。慰霊碑など60余。韓国人犠牲者慰霊碑もある
広大な平和公園は、被爆前は中島地区と呼ばれ、幕末から明治・大正にかけて、市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街だったそうだが、原爆で街並みと共に消され、亡くなった人々の霊を慰め、人類の恒久平和を祈念する場所として、戦後に平和記念公園に生まれ変わった。
公園内には様々な慰霊碑、記念碑、供養塔、平和の像などがあり、ガイドマップなどで数えると60以上も。
日本の反核などの運動は「加害」の視点が弱いと指摘されて久しいが、この公園の北西部には「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」がある。強制労働等により広島で被爆した同胞の慰霊と、再び原爆の惨事を繰り返さないことを願うためとして、1970(昭和45)年4月に本川橋西詰めに建立されていたが、1999(平成11)年7月に公園内に移設された。碑文には「2万余位の霊」とある。
8月6日には、記念式典の前、日の出前から、公園の南側を東西に通る100メートル道路(平和大通り)のあちこちでも、地元町会などの慰霊祭が開かれていた。宿泊したホテルから平和公園まで向かう時に、何か所も慰霊祭の準備している方々の姿に出会った。
広島に出向いた際は、これらの慰霊碑などにも目を向けるようお勧めしたい。
焼け残った広電の車両(チンチン電車)651号は、現在も現役さらに衝撃的
広島に着いたのは8月5日だったが、JRの駅から平和公園、原爆ドーム前へは広電の路面電車を選んだ。東京では路面電車が一つの路線しか残っていないので、懐かしいゴトゴトの振動は楽しみだったので、少し調べてみた。やはり、路面電車が原爆投下で甚大な被害を受け、乗客ごと燃えたという証言や絵が残っている。だが、残ったわずかな車両で3日後に運転を再開した。被爆しながらも役目を全うすべく働いた人たちの気持ちはと考えると言葉もない。
6日夜のNHKテレビに広電の現社長が映り、「営業は厳しいが、これからも市民の足としてやっていきます」と語っていた。被爆し今なお修理を重ねて走る車両は1台だけ。1両編成の車体番号は「651」だそうだ。夜の元安川での灯篭流しを見に行く途中、「651」を探したが遭遇できなかった。見つけた方に幸いあれ!と祝福したい。
「広島平和記念資料館」で被爆の実相を見学。外国人が多く、日本人ともども展示に見入る
8月6日は混雑するからと5日に資料館の本館に入場したが、展示室まで予想外に時間がかかる。たどり着いて理由がわかった。写真や絵、マネキンなどは、10数年以上前の記憶からすると残酷な印象を薄めた内容になっているが、小さな文字にも拘わらず、日本語と外国語の説明をじっくり読んでいる人が多い。国籍は関係ない。だから進まない。見ながら読みながら思わず口や鼻を抑える女性や、目を見開いて止まる男性がいる。タトーを入れた大柄な白人男性、女性たちが立ち止まってしまうと、平均サイズの日本人は、進む術(すべ)なし。
戦争を終えるために原爆投下は必要だったと教科書で学んだが、原爆雲の下の様子、何十年も放射線で苦しんでいることなどを知った途端に、体が硬くなったのではないか。平和公園で中高生らが外国人インタビューをしていたが、そこで被爆の実相を伝えた時の反応も同じだ。2年前の訪問時のインタビュアーの高校生の体験感想も同じだった。
日本国内では最近、「核(兵器)があって平和ならそれでも良い」という若者(8月6日のNHK街頭インタビュー)が増えているようだ。先日の参院選での政党の獲得議席もそうした雰囲気を反映しているようだが、強力な武器を持てば一瞬は安心でも、相手も同じモノを持てば際限がない。ある以上は使われる可能性があり、それが使われた時にどうなるか、想像力をたくましくしてもらうことを社会全体で強めることでしか、この問題の解決はないと思う。そのための口上や必要グッズは?知恵者の出番のようだ。
折り鶴いっぱいの「原爆の子の像」周辺で「平和紙芝居」の生徒たちに会う
独特のデザインで鐘も鳴らせる「原爆の子の像」に千羽鶴を持参する団体、個人、各国大使館などは数えきれない。記念撮影の順番待ちも混雑し、人波が途切れない。一体どれだけの折り鶴をどれだけの人が折っているのか。思いがこもったエネルギーを受け止めるのは、やはり政治家か、平和を目指す運動団体か?
そんなことを考えていると、「紙芝居を見ませんか?」と中学生たちからお誘いが。「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんを主人公にした平和紙芝居で、5~6人がグループになって横に一列になり、絵を1枚ずつ順番に大きな声で読んでいく。恥ずかしそうで大きな声が出ない子もいるが、終わって拍手となると嬉しそうな顔になる。
事務局によると、この日は市内の中学・高校から40人以上が紙芝居を持って周辺で出前をしたそうだ。もう10年以上続けていて、「像」の北側の木陰がベーススペース。「8月6日はここにいます。また来てください」と言われた。企画を終えてそれぞれの引率教員のもとに集合した中高生たちの大汗をかきながらの笑みが何とも言えない。「希望」とは、このことかも。
ふらつきそうな猛暑だが、彼らと彼女らにしっかりと元気をもらったと感謝したい。
今年度で見学終了の広島城へ、天守閣にも上がった
平和公園から1~2キロ離れ、被爆遺構もある広島城が来年3月末で天守閣の入場公開を終えると聞いて、駆け付けてみた。5層の天守閣は、急な階段だからそれなりにきつい。上がってみると風が涼しく、眺望が素晴らしい。平和公園の緑も見える。
売店の人に聞くと、老朽化が原因で、木造で建て替えることまでは決まっているが、完成時期や費用などは、まだ決まらずということだった。見学者は圧倒的に外国人で、いつも目にしている広島市民らは、わざわざ来ないという説明だった。
広島からの帰路、広電の「651」に出合うかと期待したが、機会は先となった。また来なくてはならないようだ。
初出:「リベラル21」2025.08.15より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6839.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14376:250815〕