オバマ米大統領は、米海軍の特殊部隊SEALSが国際テロ組織アルカイダの首領ウサマ・ビンラディン容疑者のパキスタンの隠れ家で殺害したことを「正義が行われた」と自賛。大多数のアメリカ人は9・11同時多発テロの「仇を討った」と祝賀に沸いている。しかし容疑者を逮捕して取り調べ、裁判にかけるという本来のプロセスを省いて殺してしまったことに、国際的には批判が高まっている。
英国国教会のカンタベリー大僧正は「武器を持っていない男を射殺というのは心に苦痛を呼び覚ます。万人の目の前で正義がなされていないからだ」とコメントした。カンタベリー大僧正と言えば英国宗教界の最高権威というだけでなく、いわば「良心の裁判官」とみなされている人だから、その言葉は重い。アメリカ人の正統を任じる人々は、自分たちのルーツを英国から来た清教徒と信じているが、総本山の最高権威の批判をどの程度真剣に受け止めているだろうか。
第2次大戦後ナチスの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判で検察官を務めた国際法の権威、英国のベンジャミン・フェレンツ博士は「軍法でも一般刑法でも、眼の前で脅威を示さない捕虜を殺すのは犯罪だ」と厳しく批判した。ホワイトハウスは当初「銃を持った容疑者が抵抗したので射殺した」と説明していたが、その後「彼は武器を持っていなかったが、生け捕り作戦には抵抗すると思われた。実際に抵抗した。だから射殺された」との説明に変えた。しかしどのような抵抗をしたかは説明がないままだ。
一方、パキスタン紙ニューズの報道によると、殺害現場に居合わせた12歳の娘は、父親がいったん生きたまま拘束されたが家族の目の前で射殺されたと、彼女を保護しているパキスタン治安当局に告げたという。この隠れ家にはビンラディンの他3人の妻と息子、娘たちの家族と護衛兼連絡役の男二人(兄弟)らが住んでいたが、ホワイトハウスの状況説明でも20人余の完全武装SEALS隊員に対して、ビンラディン側からの反撃は一人が銃撃しただけだったという。これまでに分かった状況を勘案すると、襲撃部隊は初めからビンラディンを生け捕りにするより殺害しろとの命令を受けていたと判断すると辻褄が合う。
英ケント大学で国際法を教えているニック・グリーフ教授は、ビンラディン殺害の正確な全体状況がはっきりしないので確言はできないと断りながらも、今回のケースは正当な法の手続きによらない違法な殺人のように見えるとして「彼を生け捕りにできたように思える…ともあれ、何人も法の保護を受ける権利はある。第2次大戦後ナチの犯罪者も公正な裁判を受けられた」と述べている。
また人権擁護で著名な英国のジェフリー・ロバートソン勅任弁護士は、容疑者殺害は法の支配を掘り崩す行いだと批判「国連安保理の権能で、イスラム法の専門家も交えた国際法廷をハーグに設置して、この男を裁くべきだった。そこで彼の神秘性を剝ぎ取り、彼の主張の正体を暴露し、彼の支持者たちの洗脳状態を解除すべきだった」と主張している。
こうした批判に対してホルダー米司法長官は「作戦はあらゆる面で合法、適法、適切だった」と反論した。同長官によると、ビンラディン容疑者は多数の死傷者を出したテロ事件の刑事犯ではなくて米国に宣戦を布告した「戦闘員」であり、彼を射殺したのは第2次大戦中に米軍が日本の山本五十六連合艦隊司令長官の乗機を撃墜したのと同じ戦闘行為だという理屈である。
一方パキスタンという主権国家に断りなしに、その領土で秘密軍事作戦を展開し、第3国の国民を殺傷したことは明らかな国際法違反である。かつてKCIA(韓国中央情報部)が東京のホテルに滞在中の野党指導者金大中氏を誘拐、韓国に拉致した事件があった。あの時金大中氏がホテルで殺害されたと考えれば、米国に主権を侵害されたパキスタン国民が反米感情を募らせているのも理解できよう。この点についてオバマ大統領は、ビンラディンをかくまう組織がパキスタンにあったはずで、事前に連絡すれば襲撃計画が本人にばれる惧れがあったからだと弁明している。
パキスタン国軍の諜報部門ISI(統合情報部)は、かつてアフガニスタンのタリバンが誕生した1990年代前半からタリバンに肩入れしてきた。それは東の宿敵インドを睨み、西のアフガニスタンに友好的な政権をつくりたいとするパキスタン国軍の悲願から発している。しかし2001年の「9・11事件」以降、パキスタンは米国の同盟国としてタリバンと戦わなければならいないという「ねじれた」宿命を担うことになった。
こうした米国とパキスタンの「ねじれ」関係からすれば、ISIかどうかはともかくパキスタン側がタリバンやその同盟者であるビンラディンに、裏側から便宜をはかり続けたとしても不思議はない。ましてビンラディンの隠れ家(6年前に建設されたという)があったアボタバードは、首都イスラマバードから僅か60キロほどの町で、陸軍士官学校やら陸軍兵営やらが存在する国軍の“領地”のような場所である。今度の事件で、米国民の間からは米国がパキスタンに与えている年額十億ドルもの軍事援助をカットすべきだという意見が噴出、一方のパキスタン国民の反米感情は一層募っている。
オバマ政権が当初から、ビンラディンの身柄拘束でなく殺害を意図した作戦を計画したとすれば、ビンラディン裁判をやりたくなかったとしか考えられない。もし裁判をやるとなるとあれこれの不安材料が出てくるからだ。第1に、安全な法廷の設置や弁護士費用に数百万ドルかかるという財政上の問題がある。第2に、イラク戦争で生け捕りにしたサダム・フセイン元イラク大統領の裁判の二の舞を避けたいという思惑がある。フセイン裁判のように被告の主張を世界に宣伝する結果になる公開法廷で、ビンラディンに弁舌を振るわせたくない。第3に、ビンラディンを裁判のために長期拘留すれば、彼の奪還を狙ったテロや米国人が海外で人質に取られるなどの事態も懸念される。
さて5月10日付ニューヨーク・タイムズ紙は、ビンラディンの成人した息子たち4人がオバマ大統領に宛てた抗議声明を掲載した。その内容は、米国が犯した「武器を持たない人間を殺し、家族を銃撃し、遺体を海に沈めるといった基本的人権の侵害に抗議する」というものだ。声明はさらに「われわれの父親の裁判を通じて、真実が世界の人民の前に明らかにされる機会を封じたのはなぜか」と問いかけ、サダム・フセインやスロボダン・ミロシェビッチ(元セルビア大統領)が裁判を受けたのに、ビンラディンだけが「暗殺されたことは、国際法が侵害されただけでなく、推定無罪の原則と公正な裁判を受ける権利が無視されたことを意味する」と述べている。
この声明は4番目の息子オマル・ビンラディン(30)が取りまとめ、彼だけが名前を出ししている。このオマルは1999年までアフガニスタンで父親と同居していたが、18歳の時生母とともに父親と別居した。その後、米国などイスラムの敵と戦うには暴力以外にないとする父親のイデオロギーに反発、アメリカの女流作家ジーン・サッソンさんの勧めで、父親の思想を批判する自叙伝を米国で出版したという人物だという。
父親の主唱するテロリズムを批判しながら、一方でオバマ政権の父親殺害に公然と異を唱えるオマル・ビンラディンに、良識ある米国市民はどう反応するだろうか。われわれ日本人としても、山本五十六とウサマ・ビンラディンを同列に扱うアメリカ人の感覚には首をかしげざるを得ない。ビンラディン裁判を通じて、いまだに謎の多い「9・11事件」の真実が解明される機会はなくなってしまった。
一連の経緯を振り返ってみると、アメリカ人の心理の中でリンチ(私刑)の横行した西部劇・カウボーイ時代がよみがえったかと思わせるものがある。アメリカは近代文明を築いてきた先進国のリーダーだと思ってきたが、「9.11」からこのかたアフガン戦争、イラク戦争からビンラディン殺害まで、事あるごとに武器を振り回してきた10年間の顛末を考えてみると、どうもアメリカ人の辞書には「自省」という言葉がないのではないかと思えてくる。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0464:110516〕