産経の記事を引用しなければならない。昨日(3月13日)の、「判事が『反天皇制』活動 集会参加、裁判所法抵触も」との見出しの報道。ある裁判官の行為が「積極的政治活動に当たる可能性がある」とする内容である。
名古屋家裁の男性判事(55)が昨年、「反天皇制」をうたう団体の集会に複数回参加し、譲位や皇室行事に批判的な言動を繰り返していたことが12日、関係者への取材で分かった。少なくとも10年前から反戦団体でも活動。一部メンバーには裁判官の身分を明かしていたとみられ、裁判所法が禁じる「裁判官の積極的政治運動」に抵触する可能性がある。昨年10月にはツイッターに不適切な投稿をしたとして東京高裁判事が懲戒処分を受けたばかり。裁判官の表現の自由をめぐって議論を呼びそうだ。
関係者によると、判事は昨年7月、東京都内で行われた「反天皇制運動連絡会」(反天連、東京)などの「なぜ元号はいらないのか?」と題した集会に参加。今年6月に愛知県尾張旭市で開催され、新天皇、皇后両陛下が臨席される予定の全国植樹祭について「代替わり後、地方での初めての大きな天皇イベントになる」とし、「批判的に考察していきたい」と語った。
昨年9月には反戦団体「不戦へのネットワーク」(不戦ネット、名古屋市)の会合で「12月23日の天皇誕生日に討論集会を開催し、植樹祭を批判的に論じ、反対していきたい」と発言。さらに「リオ五輪の際、現地の活動家は道を封鎖したり、ビルの上から油をまいたりしたようだ。日本でそのようなことは現実的ではないが、東京五輪に対する反対運動を考えていきたい」とも語っていた。
判事は昨年2月と5月、不戦ネットの会報に「夏祭起太郎」のペンネームで寄稿し、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」と記していた。
判事は集会などで実名でスピーチしていたほか、団体の一部メンバーには「裁判所に勤務している」と話していたという。
判事は平成5年に任官。名古屋家裁によると、現在は家事調停や審判事件を担当している。判事は産経新聞の複数回にわたる取材に対し、何も答えなかった。
いささか眩暈を禁じえない。いったい、いまは21世紀だろうか。日本国憲法が施行されている時代なのだろうか。時代が狂ってしまったのか。それとも、私の時代感覚の方がおかしいのか。
1945年までは、治安維持法があった。「國体ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入」することが犯罪とされた。「國体」とは天皇制のことである。当該の結社に加入していない者についても、その結社の目的遂行に寄与する行為が際限なく犯罪とされた。これと並んで、不敬罪もあった。天皇や皇室の神聖性を侵すことは許されなかった。国体や天皇への批判の言論を取締り監視するために特高警察が置かれた。いま、その特高警察の役割を、産経が買って出ている。
産経が引用するこの判事の言論は、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」というもの。日本国憲法を判断の基準として、至極真っ当な言論ではないか。
日本国憲法は個人主義・自由主義を基本とする近代憲法の体系を備えている。この憲法体系からはみ出たところに、天皇という体系とは馴染まない存在がある。
近代憲法としての日本国憲法体系の純化を徹底してゆけば、天皇制否定に行き着くことは理の当然である。ただ、現在のところは、憲法に「権限も権能もない天皇」の存在が明記されている。だから、天皇の存在自体を違憲とも違法とも言うことはできないが、「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」というのは、法を学んだ者のごく常識的な見解といってよい。健全な憲法感覚といっても、主権者意識と言ってもよい。
その上で、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」とは、憲法改正論議の方向として、まことに正しい。一つひとつの言論行為によって、主権者国民の天皇制廃絶の世論を形成し、その世論の内容での憲法改正をなし遂げようというのがこの判事の見解。傾聴に値する意見であり、非難するには当たらない。
問題は、同判事の表現行為が裁判官としての制約に服する結果として違法にならないか、という一点にある。もちろん、産経報道を前提としてのこと。当事者の言い分を確認せずに、事実関係についての速断は慎まなければならない。
すべての国民に基本的人権が保障されている。もちろん、公務員にも公務を離れれば私生活があり、私生活においては表現の自由が保障されなければならない。この点についての古典的判例は猿払事件大法廷判決だが、いま堀越事件判決がこの判例を修正し揺さぶっている。
一般職公務員ではなく、裁判官についてはどうだろうか。憲法には、「良心」という言葉が2個所に出て来る。「思想・良心の自由」(19条)と、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」 (76条3項)という、「裁判官の良心」である。
原理主義的クリスチャンである教員も、教室では聖書のとおりに天地創造説を史実として教えることは許されない。信仰とは別次元の「教員としての客観的良心」に基づいて、確認された自然科学的真理とされている進化論を教えなければならない。職業人としての、「主観としての信仰」と「教育者としての客観的良心」の分離は、原理主義的宗教者も教員としての適格性を損なわないという根拠でもある。
憲法76条の「裁判官の良心」も客観的な良心である。主観的な信念とは別に、憲法を頂点とする法体系に従った「客観的な良心」の保持が、裁判官としての任務を全うすることになる。
裁判所法第52条は、「裁判官は、在任中、左の行為をすることができない。」として、その一号の後文に「積極的に政治運動をすること」を挙げる。「一般的に政治運動をすること」が禁じられているのではなく、「積極的に政治運動をすること」が禁じられている。
最高裁判所事務総局総務局編『裁判所法逐条解説 中巻』(法曹会、1969年)には、裁判所法52条のこの点について、「国民の一員として当然果たすべき義務としての政治的行動(たとえば、各種の選挙において選挙権を行使したり、公務員の解職請求の署名をしたりする行為)は、もとより積極的に政治運動をすることにあたらないし、単に特定の政党に加入して政党員になつたり、一般国民としての立場において政府や政党の政策を批判することも、これに含まれないと解すべきである。」と解説されている。裁判官が政党に入党することも良し、政府や政党の政策を批判しても良し、というのだ。
むしろ、市民的な表現の自由を奪われ萎縮を余儀なくされた裁判官に、表現の自由の現実化を求める訴訟での適切な判断を望むことができるだろうか。一般の市民と同様に、市民としての権利や自由を行使できる裁判官にこそ、基本的人権擁護の判断が可能ではないか。
私には、産経の報じる裁判官が、裁判所法52条に違反した行為をしているとは考えがたい。この判事の考えや言論は、憲法のコアな部分に忠実ではないか。この人が、自分の思想と裁判官としての良心の葛藤に苦しむことはなさそうである。
裁判官とて、当然にその思想は多様である。その多様性は貴重でもある。法廷においては、憲法と法と「客観的な良心」に従えば良い。むしろ、最高裁がその人事権をもって全裁判官を統制する弊害をこそ避けなければならない。
(2019年3月14日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.3.14より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=12226
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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