澤藤氏の「元号 ― ああ、この不便・不合理にして有害なるもの」を楽しく拝見させていただいた。和解条項の話は面白かった。しかし「平成40年」,「平成50年」の表記は近く新年号が発表されるので,それまでの和解条項に「平成」を表記することは一時的に許され,読み替えが可能という閣議決定が下されるに違いないから,話としては面白いが,この事例だけでは元号が「不完全で不便・不合理な年代表記方法」とは言えないと考える。
そうではなく西暦が便利だと主張したい。もし元号が西暦より便利だとしたら覚えづらいことこの上ない。「天平の甍」,「貞観の仏像」,「天明の飢饉」と言ったら何人の日本人がおよその時代を想起できるのか。また受験勉強も大変である。たくさんの元号を覚えねばならず暗記中心主義になるであろう。また日本史のみならず必修教科である世界史を勉強するときに西暦と同時に覚えねばならないから困難はさらに増す。
小生は昭和64年と平成元年の違いがよく分からない。しかし西暦であれば,天皇が12月や1月に崩御されても西暦何年と思い出すことができる。旧ソ連邦が崩壊した頃だということも併せて思い出せる。西暦で覚えれば便利なことこの上ない。
しかしそもそも神道には時間に初めも終わりもない。仏教も同じ。しかしユダヤ教やキリスト教には時間に初めも終わりもある。儒教は初めがあって終わりがない。イスラム教やゾロアスター教はどうか。
日本相撲協会の言う大相撲は江戸時代に発するようだが,徳川幕府270年のいつかは定かではない。元号でも西暦でも表記できないだろう。
宗教人口年鑑によれば日本では神道の人口が仏教より少し多い。もし年号を西暦で表記すれば,表記上の混乱少なく,キリスト教を信じていなくても,西暦で表記すれば覚えやすく,和解条項や森友学園の10年借地問題なども簡潔に表記できる。
丑三つ時,子の刻など趣がある表現である。小生は大好きだが,赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは何時何分なのかを考えた時,現代社会にあって太陰暦を使うのは不便である。キリストの誕生日を起点とした西暦表記が便利なのである。ただそれだけに過ぎない。