覇権の黄昏に立つ者――現在進行形のトランプ的権力

現代の国際政治・軍事を論じる際、「侵略者の相貌」という枠組みにそのまま当てはめることのできない存在がある。ドナルド・トランプである。彼はヒトラーやスターリン、あるいはプーチンや習近平のように、既存の世界秩序を暴力によって全面的に書き換えようとする指導者ではない。曲がりなりにも民主主義的制度を通じて選ばれ、権力の行使も制度的制約の内部で行われてきた。その意味で、同列に論じることはできない。

しかし同時に、トランプを単なる孤立主義者や、内向きのポピュリストとして片づけることもできない。彼が体現しているのは衰退しつつある覇権国家が、もはや世界秩序を維持する意思も能力も失いかけた地点で現れる、新しいタイプの権力行使である。

トランプの世界観の核心には、自由主義的国際秩序への根深い不信がある。同盟、国際機関、国際規範は、アメリカの力を増幅させる装置ではなく、アメリカを拘束し、搾取する枠組みとして理解される。そのため彼は、秩序を主導することにも、再編することにも関心を示さない。関心が向けられるのは常に、「その関係は得か損か」という即物的な問いである。

この点で、トランプは反グローバリズムという表層において、プーチンや習近平と接点を持つ。しかし決定的な違いは、彼がそれに代わる世界秩序像を一切提示しない点にある。ヒトラーやスターリン、あるいは現代の権威主義国家の指導者たちは、歪んだ形であれ「新しい秩序」を語る。トランプは語らない。彼が語るのは取引=dealだけである。

この取引主義が軍事力と結びつくとき、トランプ的権力は独特の様相を帯びる。彼は長期的な占領や体制転換を嫌悪する。国家建設や民主化といった理念的目標にはほとんど関心を示さない。しかし一方で、「従わない相手」や「侮辱した相手」に対しては、象徴的で、時に過剰な武力行使を躊躇しない。そこでは戦争は政策ではなく、威嚇としてのパフォーマンスとなる。

中東における限定的軍事行動や要人殺害は、その典型である。それは地域秩序を再構築するための行為ではなく、「力を保持していることを示す」ための短期的な行動である。同様に、中南米、ベネズエラを含む諸国に対する強硬姿勢も、新たな支配構想を伴わない。移民、治安、薬物といった国内政治上の問題を、外部に押し戻すための圧力として、軍事的威嚇が用いられる。

ここで現れているのは、侵略主義ではない。だが平和主義でもない。それは、覇権国家が内向きになる過程で生じる、秩序放棄型の武力行使である。秩序を守るために力を使うのでもなく、秩序を作るために力を使うのでもない。力は、ただ即時的な取引を有利に進めるための道具として消費される。

このタイプの権力が現在進行形で持つ危険性は大きい。侵略者は、その野望ゆえに行動原理が比較的読みやすい。しかし、秩序を信じず、理念を語らず、それでいて圧倒的な軍事力を保持する指導者は、偶発的エスカレーションの最大の不確定要因となる。ルールが軽視され、力の使用基準が個人的判断に委ねられるからである。

重要なのは、トランプが一過性の人物ではないという点である。彼は、アメリカという覇権国家が直面している構造的変化――相対的地位低下、国内分断、秩序維持への疲弊――を最も露骨な形で体現している。その意味で、トランプ的権力は、現在も国際政治の内部に生きており、再生産される可能性を持っている。

侵略者の相貌が、「秩序を破壊しながら、新たな秩序を語る者」だとすれば、トランプの相貌は、「秩序を破壊しながら、もはや秩序を語ろうとしない者」である。その差異は小さくない。しかし結果として、国際政治を不安定化させ、武力行使の敷居を下げているという点において、トランプは現在進行形の危機として、明確に位置づけられるべき存在なのである。

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