親の仇と自分自身の仇を討つ

憲法を無きものにせんと欲する輩が跳梁跋扈する今。 良く言われるのが、戦争体験者の声が小さくなる時期を待っていた奴らの出番が来た、との俗諺である。 だが、十五年戦争の惨禍は、戦争体験者だけに及んだのであろうか。

戦後間もなく生を受けた私たち、嫌な表現ではあるが、団塊の世代である昭和20年代始めにこの国に生れた者も、また、大なり小なりにその影響を受けて居るのである。

以前に、ちきゅう座に投稿したことがあるが、私の幼少時には、それこそ敗戦間も無い時代の惨めな暮らしを自身の体で経験したのである。

思い起こせば、涙が出る日々。 あの時代に通った小学校では、校舎が白蟻に依って腐朽し、授業が不可能になったことがあるし、通学路は、一度雨天になるや泥濘と化し、脚をとられて倒れて泥塗れになったことがある程であった。 二年生の折には、ジフテリヤで友人を失いもした。 生徒が栄養失調なので、肝油ドロップの配給があった時代であった。

後年、漸く導入された「給食」なるものは、人間が食べられるものでは無く、パンは焼けずにヘドロ状のもの、粉末ミルクは臭くて飲めず、直ぐに子供を叩く軍人あがりの担任も「捨てろ」と吐き出したものであった。 全校生徒が集合しても肥満児は、零の時代。

「生活保護」等は、制度も何も無い時代のことで、浮浪者を見るのは日常茶飯事であった。 今でも昨日のように記憶しているのは、地元の元陸軍の空港で、進駐した米軍退去の跡地となった滑走路に浮浪者の群れがバラックを建てて住み着いていたことである。 其処を追い出された彼等は、近隣の野原で過ごしていたが、彼等を目撃した私は、流石に衝撃を受けたものであった。 帰宅して詳細を亡母に告げると、顔を歪めた亡母は、私に、彼等の下へは行かないように命じたが、数日後に浮浪者の群れは、役所が対応している、と嬉しそうに私に告げたものであった。

此処で云いたいのは、ホームレスの数人では無く、浮浪者の群れ、である。空襲被害者がそれ程に多かった、と云うことである。

その空襲のための道具を見たこともある。 有る日、空を見て居た私は、キラキラと光る大きな物体が西を向いて飛んでいき、暫くして東を向いて飛んでいくのを見たので、亡母に告げたことがある。 亡母は、「ああ、あれ? 新聞に載ってわ。 アメリカのB29やね。 写真を撮ったはるねん。」と、米軍が航空写真をB29で撮影していた事実を告げたのであった。 後年になり、その航空写真を自分の業務に使用していたことがあるが、思うことがあって、自分の生年に米軍が撮影した生地の村(当時の河内の寒村)の航空写真を拡大したものを購入し、自身の生の記念にしている。

その航空写真を見ると、生地の村は、泣く程に小さい寒村である。 村の中を細い道が走り、道の両端には家々が並ぶ様が良く分かる。周囲は、田畑のみであるが、一際、巨大な空港とその周囲には、これまた巨大な掩体壕と防空壕が写る。 それ以外にも、航空写真には写っていないが、生駒山脈には、広大な高射砲陣地があり、私達悪童の隠れ砦となっていたことがある。

戦前と戦後暫く、人々の命と暮らし等は、吹けば飛ぶような存在であった。 戦争の惨禍は、戦時中のみでは無く、戦後にも及ぶ。 人にも地域にも。 人で云えば、亡父は戦死を逃れたものの、戦後も銃創の古傷が梅雨時期になると痛むのに苦しんでいたし、亡母も女学校の友人や知人を爆撃で失っていたし、風船爆弾を製造する工場で働かされもした。

こうして見ると、戦争は、親の仇であるし、自分の幼少時の仇でもある。 自衛のために止むを得ず戦う時があるのを否定はしないが、その時は、自分が生まれた土地に他人が土足で入り込んで来た時に限定する。 如何なる事由に依ろうとも、他人の土地で他人のためには戦う道理は無い、のである。 そのためには、武力を蓄えない、のが憲法の法理であろう。

親の仇と自分自身の仇を討つには、憲法を守り抜くことである、と思い定めている。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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