ドキュメンタリー映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」を京橋の試写室で見た。2007年の冬のことシカゴのアマチュア歴史家の青年が、ネガ・フィルムの一杯詰まった箱をオークションで350ドルで競り落としたことから話は始まる。彼は200枚の写真をブログにアップし、フリッカーにリンクした。それは大きな反響を呼び起こした。そこからこの撮影者探しが始まる。
やがてこの撮影者はヴィヴィアン・マイヤーという女性であることが、かつて乳母としての彼女に面倒を見られたという人の口から明らかにされる。彼女は乳母として子どもの世話をしながらカメラを首からさげて街頭で出会う人びとの一瞬の姿をカメラに納めていったのである。彼女はそれを現像し、人に見せることもなく、ひたすら撮り続けていったのである。
私ははじめこの映画を未知の写真家の正体探しかと思い、居眠りしながら見ていたが、やがて真剣に彼女の姿を見つめだした。彼女はナースをしながらひたすら撮り続けたのである。発表するためでもない。厖大な写真はネガ・フィルムのまま残されたのである。残されたのはフィルムだけではなかった。衣類から新聞、そしてレシート類にいたる彼女の日常を構成していたものすべてが幾箱にも詰められて残されたのである。彼女は公園のベンチで倒れ、救急車で運ばれて死んだ。83際であった。最後はゴミをあさって食べたりしていたという。
彼女の写真は街頭の人びとの一瞬にその人生を写しとるようであった。専門家は、「彼女は被写体の人生や風景を完璧に切り取っている」と評した。しかしなぜ彼女は人に見せることもなく、ただひたすら写真を撮り続けたのだろうか。なぜなのか。この大きな問いを観る人びとに投げかけてこのドキュメンタリー映画は終わる。この問いを突きつけられて私はしばらく座席を離れることができなかった。この答えを求めてもう一度この映画を見なければならないとも思った。
彼女が撮り続けたのは、それが生きがいであったからだとは直ぐ出てくる答えであるだろう。だがほとんどホームレス同然の死に方をした彼女の人生とは、「生きがい」をいうようなものであったのか。彼女は人に見せることもなく、ひたすら撮り続けたのであって、その結果が人にもたらす感動や人の称賛を期待したりするようなことはまったくない。そこにあったのはただ撮る行為だけであった。
彼女がひたすら撮り続けたように、私もひたすら書き続けている。だがお前の書く行為は全く違う、それは人の読むことを前提にしたものだと、人は直ちに反論するだろう。しかし書けばそれが直ちに活字になり、やがて本にもなった時代は、私にとってはすでに過去のものである。今ではいつ活字になるかもしれぬ原稿が私の周辺にたまりだしている。それでもなお私は書き続けている。それはなぜなのか。
この自分への問いは、ヴィヴィアン・マイヤーへの問いと本質的に同じではないのか。映画を見て 帰宅の途上、私はその問いを考え続けてきた。そしていま一つの答えに思いついている。人間とは「記録する存在」なのではないか。だれに頼まれたものでもなく、また人に見せるためでもなく人は文字を記しつづける。人はその生とその周辺とその時代とをひたすら記録する存在なのではないか。私の思想史も「記録する」という人間の存在論的課題に答える私なりの作業であるような気がしてきている。
初出:「子安宣邦のブログ-思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.9.16より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0159:150919〕