アフガニスタンで取材中武装勢力に拉致され、5カ月にわたって監禁された後解放され、9月初め無事帰国したフリー・ジャーナリストの常岡浩介さん。その常岡さんが近刊のフォトジャーナリズム月刊誌「デイズ・ジャパン(DAYS JAPAN)」の11月号に手記を寄せ、誘拐犯がカルザイ政権の有力者である軍閥であったことを詳しく報告してくれた。日本では事件発生当時から反政府武装勢力タリバンの仕業と見なされていたが、常岡さんは解放直後からタリバンではなくて、腐敗した軍閥の犯行との真相を明らかにしていた。この手記の概略を紹介しながら、複雑極まる現今のアフガン情勢を覗いてみよう。
常岡手記の冒頭は緊迫している。<引用始め>
「タリバンの支配地域でなにをしていた? アルカイダめ!」
カラシニコフ自動小銃を向けた覆面の男がペルシア語で私に叫んだ。
「アルカイダじゃない。日本の記者だ。敵じゃない」
私は答えたが、男は素早く、自分の頭に巻いたストールで私に目隠しをし、持物をすべて奪った。目隠しされる直前に、一緒にいたタリバンの青年の方に目を向けたが、彼もまた、もう一人の兵士に縛り上げられるところだった。<引用終わり>
常岡さんは今年4月1日、アフガニスタン北部クンドゥーズ州で取材中、与党ヒズビ・イスラミ(イスラム党)有力者で軍閥のラティフ司令官の部隊に拘束され、157日間監禁された末、9月4日に解放された。その監禁生活中に常岡さんは、主犯がカルザイ政権につながるクンドゥーズ州の軍閥ラティフであることを突き止めた。ラティフは隣のタハール州の軍閥ワリーと組んで、日本政府に身代金を要求する作戦だった。
ヒズビ・イスラミとは、アフガニスタンの東南部に住む多数派民族パシュトゥン人を主体に、アフガン共産政権救援のため侵攻したソ連軍と1980年代に、厳しいゲリラ戦争を戦ったムジャヒディン(イスラム聖戦士)の一方の雄だった。その指導者ヘクマティアルは、ムジャヒディン各派の攻勢で1992年にナジブラ共産政権が倒された後、暫定連合政府の首相に就いた。もう一方のムジャヒディンの有力者が北部タハール州のタジク人主体の勢力を率いるマスードだった。彼は暫定政府の国防相だった。
さて常岡さんを誘拐した軍閥のラティフは、対ソ・ゲリラ戦のころはヒズビ・イスラミの有能な司令官として、最高指導者ヘクマティアルの「片腕」とまで言われたという。ところが1989年のソ連軍撤退後、1992年にアフガン共産政権を倒すために東からカブールを攻めたヘクマティアルと北から攻めたマスードの間で、暫定アフガン政権の主導権を巡って熾烈な権力闘争が続いた。
首都カブールでは取りあえず、北部諸民族を代表するラバニを大統領に、南東部のパシュトゥン民族を代表するヘクマティアルを首相にした暫定連合政府を構築した。北部の実力者マスードは国防相のポストを得た。しかし暫定政権内ではヘクマティアル対マスードの対決が本格化、この両者が首都で睨みあっている間に、1994年第2の都市カンダハルで旗揚げしたタリバンが、あれよあれよと言う間に各地を掌握。1996年にはカブールを制圧してラバニ・ヘクマティアル・マスード政権を追放、1998年までには北部諸軍閥をほぼ平定してアフガン全土を掌握した。
このタリバンが、2001年9月11日に米国を襲った同時多発テロを実行したというアルカイダをかくまったために、当時のブッシュ米政権は同年10月タリバン打倒を目指してアフガン侵攻を実行した。この時米軍は、その直前にタリバンのスパイに暗殺されたマスードの指揮下にいた北部同盟(非パシュトゥンのタジク人、ウズベク人主体)軍と組んで、北方からカブールを攻略した。タリバン政権は12月にはカブールを放棄、翌年1月には根拠地カンダハルも放棄して散り散りになり、パキスタン国境付近のパシュトゥン人居住区の山岳地帯に逃げ込んだ。
米国のお声掛かりで、南部パシュトゥン民族を代表するドゥラニ部族の名家出身のカルザイを首班とする暫定政権が生まれ、ポスト・タリバンのアフガニスタン復興を国際的に支援する仕組みがつくられた。米軍はその後、タリバンとともに山岳地帯に逃げ込んだアルカイダのボス、ウサマ・ビンラディンや副官のザワヒリらを殺害する空爆作戦を続けたが失敗に終わった。ブッシュ政権は2003年3月イラク侵攻作戦を開始、米軍の主戦場はアフガニスタンからイラクに移行した。その間にタリバンは2006年ごろから徐々に復活、今やアフガン全土の9割以上の地域で反乱活動を続けるに至っている。
常岡さん誘拐事件の主犯ラティフは、米軍とともにタリバンを攻略した北部同盟の有力司令官になっていたため、その功績によりカルザイ政権下でクンドゥーズ、ファルヤブ、タハール州の知事を歴任した。その実態はこの地域で武威を張る軍閥である。現在はカルザイ政権与党のヒズビ・イスラミの有力者で、民族的にはウズベク人だ。
ラティフは対ソ戦争当時、ムジャヒディン司令官としてヒズビ・イスラミの創始者ヘクマティアルに可愛がられていたが、1995年にふたりは断絶した。当時ヘクマティアルの支配下にあった東部ジャララバードにタリバンの軍勢が迫った時、ヘクマティアルは自分と同民族のタリバンとは戦わないと決断、イランに亡命した。
その後間もなくタリバンが北部クンドゥーズに迫った時、ここを支配していたラティフはタリバンと戦うという決断を下した。クンドゥーズはジャララバードと違ってパシュトゥン人だけでなく、ウズベク人、タジク人もいる多民族地域であり、彼自身ウズベク人という事情もあった。そこで彼は隣のタハール州パンジシール渓谷を根拠地に、タリバンと戦っていたマスードと同盟関係を結んだ。このため部下のうちでパシュトゥン人兵士たちは、ヘクマティアルの宿敵マスードと手を組んだことを「裏切り」とみなしたようだ。
ともあれラティフはマスードと同盟したおかげで、タリバン政権下を地方軍閥として何とか生き延びた。米軍と北部同盟の共同作戦でタリバン政権を追放した後では、マスードの後継者ドクトル・アブドゥッラー(前副大統領)と親交を持ち、同時にヒズビ・イスラミの現党首で、ラティフの本拠地クンドゥーズ州出身のサバーウーン(民族問題担当相でカルザイ大統領の顧問)とも関係を深めた。こうした人脈を通じて彼はカルザイ政権の有力者に数えられるようになった。
だから当然、ラティフ司令官の部隊はカルザイ政権の方針に従って米軍に協力しタリバンと戦っているはずだが、彼の部隊の一部は反米・反政府の武装闘争をしているというのだ。常岡さんは4月1日、ラティフ部隊のうち、政府軍の別働隊として活動しているカイム・ハーン野戦司令官の部隊に拘束された。しかし6日後に、ムジャヒディンを名乗って反米・反政府の武装闘争をしているカーリー・アブドゥルハリム野戦司令官の部隊に引き渡され、そこで3カ月間監禁された。
このどちらもタリバンと交戦しているのだが、片方の部隊は同じラティフ司令官の部下でありながら、政府軍・米軍とも戦うという奇妙な部隊である。常岡さんを監禁中のアブドゥルハリム部隊は4月中タリバンとの戦闘に明け暮れていたのに、5月以降は政府軍と交戦していたというのだ。しかも両部隊の間で共通していることは、ラティフの評判が悪いことだという。「ラティフ司令官は口ではイスラムを語るが、心は背教者だ」とか「昔は対ソ聖戦の戦士だったが、今は米国の奴隷として働いている」など兵士の言葉を常岡さんは直接聴いている。
常岡さんが解放された9月4日、監禁場所のクンドゥーズ州アルチから近くの集落まで移動させられると、そこの民家にタハール州の軍閥ワリーの部下で、バハルディンと名乗る男が待っていた。ワリーは常岡さんの身代金を払えと、カブールの日本大使館への脅迫を指揮した軍閥だった。バハルディンはタクシーのような車で常岡さんを日本大使館まで送り届けてくれた。車中質問攻めにした常岡さんがバハルディンから聞き出したところでは、誘拐事件はヒズビ・イスラミが首謀者、つまりクンドゥーズ州の軍閥ラティフとタハール州の軍閥ワリーが共同主犯であった。
日本大使館に保護された恒岡さんが大使館職員(アフガン人)から聞かされたのは、カルザイ政権は常岡さん誘拐事件を、すべてタリバンの犯行だと説明していたという話だった。つまりカルザイ政権は、ラティフ、ワリーの犯行だと知りながら罪をタリバンに着せていたのだろう。カルザイ政権は与党ヒズビ・イスラミをかばわなければならないからだ。そう言えば一昨年夏、東部クナール州で日本のNGOペシャワール会の農業指導員伊藤和也さんを誘拐、殺害した犯人もヒズビ・イスラミのメンバーだった。
ヒズビ・イスラミの創始者ヘクマティアルはタリバン政権崩壊後、亡命先のイランから帰国したが、その後の動静はさっぱり聞こえてこない。筆者は常岡さんの手記で初めて、ヒズビ・イスラミの現党首がタジク人のサバーウーンで、カルザイ政権の与党であることを知った。しかしかつてのヒズビ・イスラミのメンバーはほとんどがパシュトゥン人だった。イスラム主義者(いわゆるイスラム原理主義の過激派)として、パシュトゥン社会に影響力を持っていたヘクマティアルが現在、タリバンとどういう関係にあるのか知りたいところだ。
以上、常岡さんの手記に頼ってアフガン情勢の複雑さを報告したが、もっと詳しいことを知りたい方々は、広河隆一責任編集◎世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌“DAYS JAPAN”11月号をご覧ください。