10月16日付の「しんぶん赤旗」に載った小さな記事に引き寄せられた。「小繋事件 後世に残そう」「岩手 一戸町に100周年記念碑」という2本見出し、2段扱いの記事だった。岩手県一戸(いちのへ)町に、小繋事件(こつなぎじけん)100周年を記念する碑が建立され、15日に関係者が集まって除幕式が行われたという記事だったが、私にとっては、実に久しぶりに出合った小繋事件に関する情報で、さまざまな感慨がわき上がってきた。
小繋事件の舞台となった一戸町小繋は、盛岡市から北へ50キロ、青森県境に近い山村に展開する集落である。2015年の国勢調査では、集落の人口は30世帯、78人だった。ほとんどが農家。
集落を抱くようにして山がある。小繋山(山林の広さについては2000町歩という説もあれば1000町歩という説もある)だ。集落の農民は江戸時代からこの山に自由に立ち入り、薪炭材や木の実、山菜などを採取してきた。つまり、ここは、農民たちにとって生活のためになくてはならない入会地(いりあいち)だった。入会地とは、入会権(いりあいけん=一定地域の住民が、一定の山林原野を共同で利用する慣習上の権利)が設定されている地域のことである。
大正4年(1915年)、集落で火事が発生、ほとんど全戸が焼失した。そこで、農民たちは集落を再建するため小繋山に入り、木を伐採。これに対し、小繋山を所有する地主(茨城県在住)は住民の山への立ち入りを禁止し、時には力ずくで山への出入りを阻止。その一方で、地主側につく住民には入山許可を与えた。このため、集落は地主賛成派と地主反対派に分かれた。
大正6年(1917年)、反対派は「山に入れなければ生きてゆけない」と「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。小繋事件の始まりであった。
昭和7年(1932年)、盛岡地裁は反対派の訴えを棄却。 反対派は宮城控訴院へ控訴するが、昭和11年(1936年)、控訴棄却となる。
昭和19年(1944年)、地主が山林を利用して炭作り事業を開始。反対派は「炭焼きが本格化すれば住民の生活基盤が失われる」として、昭和21年(1946年)、再び「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。第二次小繋訴訟であったが、これも、昭和26年(1951年)、盛岡地裁で棄却となる。反対派は直ちに仙台高裁に控訴し、昭和28年(1953年)に調停が成立する。「地主は住民に対して山林の一部150町歩と現金200万円を贈与する。住民側は入会権など一切主張しない」という内容だった。これで、第二次小繋訴訟は幕を閉じる。
しかし、調停は一部の者たちによって結ばれたものだった。反対派は調停無効の申し立てをし、一方、賛成派は調停を受け入れ、贈与される土地を1人ずつ分けた方がよいとして、反対派に対し「共有物分割請求訴訟」を起こす。調停は、両派の溝を一層深くする。
両派の対立が深まる中、昭和30年(1955年)、反対派が出した調停無効の申し立ては退けられる。そして、その年の10月、岩手県警警官隊150人が集落を急襲し、反対派住民11人を、無断で小繋山の木を伐採したとして森林法違反容疑で逮捕、うち9人が起訴された。小繋事件は刑事事件に発展したわけである。
これに対し、盛岡地裁は昭和34年(1959年)10月、「集落に入会権は存在する。調停は無効」として森林法違反事件については無罪を言い渡す。まさに画期的な判決だった。が、仙台高裁は「入会権は調停で消滅している」として一審判決を覆し、逆転有罪判決。そして、最高裁は昭和41年(1966年)10月、被告側の上告を棄却し、被告たちの有罪が確定した。
「最高裁で負けたからといって住民が小繋山に入会うことをやめることはできない。入会いをやめるのは、農民として生きる権利を放棄することに等しい」。判決を聞いた被告の1人、山本清三郎さんはそう語ったと伝えられている。
農民たちの闘いは敗北した。が、渡辺洋三・東大名誉教授(民法・憲法専攻)は「小繋事件は、日本の林野入会権闘争の歴史に名を残す典型的事例である」と位置づけている(『北方の農民』復刻版、1999年刊)。
私が小繋事件を知ったのは、1959年のことだ。この年、盛岡地裁が小繋事件に関して「入会権は存在する」との画期的判決を下した時、私は全国紙の盛岡支局員だったからである。それがきっかけで、私はその後もこの事件に関心を持ち続けた。この事件の最高裁判決があった時は東京本社に移っていたから、この判決を最高裁の構内で聞いた。
最高裁判決に先立つ1958年ころから、小繋の農民たちの闘いを支援する人たちが現れる。なかでも、強く印象に残っているのは藤本正利さんである。早稲田大学の大学院で法社会学を学んでいた藤本さんは小繋の農民たちへの支援を思い立つと、小繋に移住し、そこで暮らしながら農民たちと共に闘った。1955年に森林法違反で逮捕された住民11人のうちの1人だった。
藤本さんの師であった戒能通孝さんは都立大学教授というポストを投げ打って弁護士となり、農民たちの法廷闘争の弁護に専念。法廷闘争といえば、岡林辰夫、竹澤哲夫両弁護士の弁護活動もめざましかった。
メディアの分野では、木原啓吉(朝日新聞新聞記者)、篠崎五六(ルポライター)、川島浩(写真家)、菊池周(ドキュメンタリーカメラマン)、菊池文代(周氏夫人) 、宗像寛(岩波書店編集者)の各氏らの活動が忘れ難い。いずれも1960年代から足しげく小繋を訪れ、農民たちの闘いや生活を記録した。
これらの人びとは皆、すでに故人だ。
今月15日に除幕式が行われた小繋事件100周年記念碑には「小繋の灯」と刻まれている。碑を建立したのは「岩手小つなぎの会」(宮脇善雄代表)。宮脇氏によれば、2017年に「事件から100年を記念する碑を建てよう」という計画が持ち上がり、5年かけて建立にこぎつけたという。岩手県内ばかりでなく、全国からカンパが寄せられた。
小繋事件をユネスコの世界記憶遺産に
記念碑建立の狙いは、「山は誰のもの」をスローガンに、地域に生きる住民が、地元で暮らす権利(入会権)を守るために闘った小繋事件を後世の人たちに伝えることにある。
これを思い立った契機の一つは、近年、入会権を再評価する機運が生まれてきたからだ、と宮脇氏はいう。
きっかけは、米国の経済学者だったエリノア・オストロムさんが、2009年に林や河川など共有資源(コモンズ)の保全管理に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したことだった。以来、共有資源を保全、管理する上で地域の入会権が有効な役割を果たすのではないかという見方が強まりつつあるという。
宮脇氏らは、今、一つの運動に取り組んでいる。小繋事件の資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録させようという運動だ。すでに小繋裁判の全資料をデジタル写真に収めたそうだ。
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