語る主体とポリフォニー

 4月2日、現代史研究会でヘーゲルについての講演を聞いた時、講演者である滝口清栄氏は、『法の哲学』の中の「ところで、国家がおのれ自身を規定するところの完全に主権的な意志であり、最終の決心であることは、容易に表象されることである。もっとむずかしいのは、この「われ意志す」が人格として理解されなくてはならないということである。そうは言っても、君主は恣意的に行動してもよいというものではない。それどころか君主は審議の具体的内容に縛りつけられているのであって、憲法がしっかりしていれば、君主にはしばしば署名するほかにはなすべきことはない。しかしこの名前が重要なのであって、それは越えることのできない頂点なのである」という一節を引用しながら(藤野渉、赤沢正敏訳、以後この著作からの引用は二人の訳である:滝口氏が引用したものがこの訳であったという正確な記憶はないが、引用はこの箇所であった)、ヘーゲルの語っている君主制が民主主義的なシステムと対立するものではまったくない点を強調していた。だが、私はこの一節を聞いて、オズワルド・デュクロの語った発話者 (énonciateur) という概念を思い浮かべ、国家としての統一主体の様態としてヘーゲルが語ったものとミハイル・バフチンの対話理論の発展方向性の一つとしてデュクロが語ったものとの大きな差異に驚かされたのだ。それゆえここではこの問題を中心としながら、ヘーゲル、バフチン、デュクロといった学者達の考えに対してポリフォニー (polyphonie) という視点から考察していきたいと思う。

 しかし、最初に述べておかなければならない点が幾つかある。私は哲学、法学といった学問の専門家ではまったくない。言語学を基盤とした記号学を専門としている。それゆえ、ヘーゲルについて語るとしても哲学のカテゴリー内で語ることも、法学や政治学というカテゴリー内で語ることもできない。あくまで、言語学と記号学をベースとした考察を行うことしかできない。そこで、このような私の探究方向性を導いてくれるようなテクストがないかを探した結果、スラヴォイ・ジジェクの『もっとも崇高なるヒステリー者:ラカンと読むヘーゲル』(以後サブタイトルは略す) というテクストを見つけた。このテクストはラカン的視点からのヘーゲル論であるとジジェクは述べているが、それだけではなく、ジョン・L・オースティンから始まる言語行為 (speech act) の理論を用いながらヘーゲルの著作を多角的に考察している。言語行為論は哲学の問題であるだけではなく、まさに言語学の問題でもある。それゆえ、この側面からジジェクの分析視点に対して私がポリフォニックなアプローチを行うことは十分に可能であると思えたのである。

 オースティンに始まる言語行為論は興味深い問題であり、ジジェクが提示している、確認的言表 (constative utterance) のレベルによってではなく、遂行的言表 (performative utterance) のレベルからヘーゲルの言説を読むことも非常に有意義な試みである。ここで、言表 (utterance. énoncé) と文 (phrase) の違いについて、一言だけ補足説明して置くべきであろう。クロード・アジェージュは『言語の構造』(La structure des langues)の中で、「ネイティブスピーカーによって完結していて、その行為と結びついたものと認識され得るイントネーションを有した言語的構成体は言表と呼ばれる」と述べている。文は、例えば、語学の教科書でコンテクストも状況もなしに提示される « This is a pen » というものも含むが、この言語構成体は言表ではない。

 オースティン理論から、その影響を受けて展開した様々な語用論理論を含めた考察を行うには、この小論の探究範囲をはるかに超える分析が必要となる。そのような大きな論及はここでは不可能である。このテクストではオースティンの言語行為論とは別な角度から言語行為に関する探究を行ったバフチンのポリフォニー理論を言語学的に発展させたデュクロのポリフォニー理論を通して、上述したヘーゲルの言説を分析していく。このように対象を限定することによって、かえってヘーゲルのテクストの哲学や法学というカテゴリーを超えた読解を行うことが可能となり、また、ジジェク的に言うならば、ヘーゲルのこの言説を「斜めから見る」ことによって、新たな探究空間が開示されるように私には思われるのである。

言語行為論とデュクロのポリフォニー理論

 オースティンの言語行為論について、言語学者であり哲学者であったフレデリック・フランソワはセミネールの中で、言表の特性を、真偽値によって決定される確認的言表という範疇に置くのではなく、語ることそれ自身が一つの行為となる言表、すなわち、遂行的言表の重要性を強調した点は極めて重要であると述べていた。語ることによってしか行為の達成とはならない言表は、「名づける」、「約束する」、「宣言する」といった述辞を持つ言表である。こうした述辞を持つ遂行的言表は「この花は白い」、「ジャンはあの通りを歩いている」、「私は昨日蕎麦を食べた」といった確認的言表とはまったく異なった特性を有している。言表が行為を表すというこのオースティンの発見は、言語体系の研究だけが強調されていた言語学に語用論 (pragmatique) という新たな分野を導入する契機となった。

 発話行為の次元、暗黙裡の言、言表の様態、ポリフォニーなどといった語用論に関係する多様な問題をここで取り上げることは不可能である。ここでは上記したヘーゲルの言説をデュクロのポリフォニー理論から考察することしかできない。しかしながらそれでもヘーゲルの言説をオースティンの遂行的言表とラカン的視点からの分析を行ったジジェクの探究とは異なる語用論的な検討が可能になることは確かなことであり、それが、言語学にとっても、哲学にとっても、法学にとっても興味深い問題を提起できると私には思えるのである。

 ポリフォニーという概念は元々バフチンの対話理論の中で提唱されたものである。バフチンにとってあらゆる発話行為は対話的なものであり、われわれが語ることの中には様々なレベルでの多くの声、すなわち、ポリフォニーが響きわたっていると彼は主張している。そして、彼は多くの言表の連鎖の中のポリフォニーを重視した。バフチンのポリフォニー理論はその後、私の知る限りでは、二つの方向に展開していった。一つはテクスト間の意味的関係性を中心としたジュリア・クリステヴァの間テクスト性 (intertextualité) を通した探究視点であり、もう一つはデュクロのポリフォニー理論の視点である。間テクスト性の説明を行うためには多くの言葉が必要となるため、ここではこれ以上この概念については語らないが、間テクスト性は言表連鎖よりも大きな視点からのポリフォニーの分析視点である点だけは注記して置こう。

 デュクロのポリフォニーの視点の根本的な特徴は一言表の中にもポリフォニーが存在することを強調した点にある。「私は暑い」と言った場合、その言表を語った主体である話者 (locuteur) も、その言表の発言に対する責任を担う発話者も「私」であり、同じであるのに対して、私が「地球は太陽の周りを回っている」と言った場合、話者は「私」であるが、発話者は「私」を含む人々一般(フランス語で言うならば«on»)である。更に、誰がその言表の発信源であるかという主体概念である発信者 (émetteur) というものを導入すれば、「ジャンは«地球は太陽の周りを回っている»と言った」という言表の«地球は太陽の周りを回っている»という部分の話者は「私」で、発信者は「ジャン」で、発話者は「人々一般」である。つまり、そこには一つの主体の声ではなく様々な主体の声が響いていることを示すことが可能なのである。このようにしてデュクロは一つの言表内にもポリフォニーは存在する点を強調したのである。

 

ヘーゲルの言説と体系性

 ある言表あるいは言表連鎖の発話者の問題は前のセクションで述べたように責任主体の問題である。発話者が話者や発信者とは重なり合わない点がデュクロのポリフォニー理論では重要となっていた。では、上記したヘーゲルの言説はどうであろうか。この言説における「(…)君主は審議の具体的内容に縛りつけられているのであって、憲法がしっかりしていれば、君主にはしばしば署名するほかにはなすべきことはない。しかしこの名前が重要なのであって、それは越えることのできない頂点なのである」という後半部分は『もっとも崇高なるヒステリー者』でジジェクが語っているように遂行的言表として読むことが可能であるだけではなく、まさに発話者が問題になっている。だが、それはポリフォニーとしての主体の問題が重視されているのではなく、多くの声が一つの声に集約されている点が問題となっている。国家の代表である君主の発話行為が、こう言ってよければ、「国家アイデンティティ」が問題となっている (この点に対する検討は次のセクションで行う)。この差異は小さなものではない。と言うよりも、まったく視点が反対になっているのだ。

 国家を有機体として君主を有機体の中心となる頭部として考えることによって国家の統一がなされる。そう考えることによって近代国家の骨格は確立するのかもしれない。だが、こうして統一された国家の中でポリフォニーという問題はどうなってしまうだろうか。多くの声が消去されてしまわないだろうか。ここで言語学史について少し触れて置くことも無駄なことではないだろう。近代言語学の父と呼ばれているフェルディナン・ド・ソシュールが批判したプロシアを中心とした通時言語学者達の根本原理の一つは、ヘーゲル哲学に大きく影響を受けた言語有機体説であった。特に、アウグスト・シュライヒャーはあらゆる言語は中国語などの孤立言語から日本語などの膠着言語を通って、ドイツ語などの屈折言語に発展し、最後には英語のように死滅する直前の言語となって行くと考えた。つまりどのような言語も生まれて、成長し、成熟し、死滅するという歴史を歩むとする考えが言語有機体説である。この説は植民地主義を正当化する根拠ともなった。何故なら、この学説に基づき、子供のような中国語を話す国民を成熟したドイツ語を話す国民が指導 (支配) することは歴史的必然であると主張できたからである。

 言語有機体説に異を唱えたのがソシュールであり、ソシュールの構造主義的視点を発展継承させたクロード・レヴィ=ストロースの言語相対主義である。各言語は各言語固有の言語構造を有しており、ある言語が他の言語よりも優れていると言うことも、劣っていると言うこともできないとレヴィ=ストロースは主張したのである。構造主義に対しては、歴史を消去しているという批判がある。だが、言語学史の流れをクローズアップして見た場合、言語有機体説の植民地主義への強力な反論を構造主義は主張している点を取り上げる必要があるように私には思われる。

 ここで問題としているヘーゲルの言説に戻ろう。この言説にはバフチン的な、あるいは、デュクロ的なポリフォニー性があるだろうか。これが私の大きな疑問であるのだ。ヘーゲルは理性という絶対性を理論的根拠しているが、歴史的な、動態的な展開においても、国家という政治・法体系においても多数の声が響き合っていることを重視せず、声を一つに統一することを最優先したためにわれわれの言語行為の中にあるポリフォニー的側面を曇らせているのではないだろうか。何故なら、デュクロのポリフォニー理論において、話者、発信者、発話者と一言表内にさえ存在する様々な語る主体の声の中で、話者が発信者よりも優越すると述べることも、話者は発話者に従属させられるとも述べることもできない。だが、上記したヘーゲルの言説における君主は発話主体であるが、この発話主体が国家アイデンティの中心となることで国家体系が構築されるという構図となっている。そこに多声的な響きはない。それは統合された一つの国家というヒエラルヒーの構図を示していると述べ得ると共に、国家アイデンティティにおける主体の構図を示していると述べ得ると考えられるが、この問題については次のセクションで詳しく考察する。

 

国家アイデンティティの問題

 体系 (système) と構造 (structure) という概念の差異は学問分野によって大きく異なる問題である。例えば、言語学においては体系と構造はほぼ同じ意味で用いられているが、植物学などでは大きく異なる概念である。「植物の体系」と言った場合、植物は種子植物と被子植物に分類され、被子植物はキク科、ラン科、イネ科などに分類されるというように植物種が分類されて行き、階層化される構成体の成り立ちを示す。それに対して「植物の構造」と言った場合、器官の根、茎、葉を基本として、それらの器官が更に細かく分類されていく仕組みが問題とされる。言語学では二つの概念語の差異は明確ではないが、植物学の例ではその違いがはっきりとする。ここで注記しなければならない点はこの分類の一つの大きな相違点は時間性と関連する点である。「体系」は発生学的な変化を含んでいるが、「構造」は時間性を含んではいない。もしも、構造と発生的側面が関連付けられなければならない場合は時間的に変化する構造を順次提示しなければならず、複雑な作業を要する。そのため、構造が問題になる場合は基本的にはモデルが用いられ、時間性や個別性を内包してはいない。それゆえ、言語学に関していうならば、構造主義は歴史言語学者が強く主張した言語有機体説と真逆な理論であるという理由がここにあるのだ。

 ヘーゲルは国家を有機体として捉え、国家は「即自かつ対自的に理性的なもの」とし、更には、国家が個人の上位に位置する理性的で有機的な存在として規定している。『法の哲学』の中にはこの「国家は即自かつ対自的で理性的なもの」という記述が何度も登場している。更に、ヘーゲルは上記したように国家の中心に君主を置き、国家アイデンティティを君主に代表させている。しかし、それでは国家を動態的に発展する生成体として捉えることが困難になるのではないだろうか。ジャン=リュック・ナンシーは『アイデンティティ―断片、率直さ』(伊藤潤一郎訳:以後サブタイトルは省略する) の中で、「(…)「アイデンティティ」という語は、(…) ヘーゲル以来、思考が語のなかでゆっくりと切り開いてきた他性――へとかろうじて開かれつつも、それ自身との等しさにおいて冷たく動かない一つの語のままであったとも言い得るだろう――ヘーゲルにとって、同一的アイデンティカルなものの同一性アイデンティティは、「抽象的な同一性」でしかない」と述べている。このナンシーの言葉は何を意味しているだろうか。それはヘーゲルにおける体系の重視、理性の重視を意味している。つまり、ヘーゲルは統一体としてのアイデンティティをアイデンティティの最高の形態としており、そこにはポリフォニックな響きはないのだ。

 ナンシーはこの本の日本語版の序文の中で「(…) アイデンティティとはつねに行為の中で与えられたり見出されたりするものであり、「特性=所有物 [propriété]」というよりも、活動や行動や関係の機能なのだ。私は私自身と同一アイデンティカル [である] のではなく、私は働きかけ、被り、感じ取り、分有し、判断し、疑う……。いついかなるときも「私」とは存在ではなく、言葉や思考や行動や作品や仕事と言う行為なのだ……」という言葉を書いているが、アイデンティティが自己同一性であるためにはポール・リクールが『他者のような自己自身』の中で語っていた自己性 (ipséité) が必要である点をナンシーは的確に表現している。自己性は変化するものである。「昨日の私」は「今日の私」とは異なる。そうでありながらも、「私」は「私」としての自己同一性を有している。差異を基盤とするからこそ、アイデンティティはアイデンティティであり得る。こうした発想はヘーゲルの『精神現象学』の中でも数多く語られている。だが、『法の哲学』の中で、この差異性は無理矢理、国家のアイデンティティの優位性のために統一されてはいないだろうか。ナンシーの疑念はそこにあるように私には思われる。

 体系を優先すれば、統一は取れるかもしれないが、ポリフォニーは消去されてしまう。ヘーゲルの言説の中に、その危うさを感じるのは私だけではなかったという確信を強めたのはナンシーの上記した著作であった。ジジェクは『もっとも崇高なるヒステリー者』の中で、オースティンの遂行的言表という問題を導入することで、言表行為としての言説をヘーゲルが語っている点を高く評価している。その点に異存はないが、「即自かつ対自的に理性的なもの」という絶対精神によって導かれる国家の中には、民衆の声が、ポリフォニーが掻き消されている。国家という装置を統一体として、階層化した体系として考えることは可能である。だが、それによって生成しようとする多くの声を響かせるマルチチュードの主体は見えなくなってしまうのではないだろうか。

 

 この小論をまとめるために、最後に、まったく別な角度から、ヘーゲルの『法の哲学』というテクストに書かれた理論について考えてみたい。それは余計な、脱線した作業であるかもしれない。しかしながら、これから述べる視点を導入することで、バフチンが語っている時間性・空間性を超えたテクスト間の対話の構築が可能となり、更には、新たな間テクスト性の開示がなされていくと思われるからである。それは体系的な語り、理性的な語りからの逸脱化もしれないが、逸脱によって見えてくるものがあるように私には思えるのである。

 別な角度とは何か。それは子安宣邦氏が主張している荻生徂徠の制作論的有鬼論と平田篤胤の民情論的有鬼論との差異と、ヘーゲル的な体系主義とバフチン的なポリフォニー理論との差異という二つのまったく異なると思われる対立理論の中にある類縁性である。すなわち、徂徠の考えとヘーゲルの考えの類縁性と、篤胤の考えとバフチンの考えの類縁性をここで見つめてみたいのである。哲学者でなく、江戸思想など殆ど無知と言ってよい私がこのようなアプローチを行うことはあまりにも無謀なことで、蛮勇と形容されても仕方のないことであるとはっきりと自覚してはいるが、この問題を提示することで、別次元から語られて来た思想家達の声のモノローグな語りにポリフォニックな響きを導入できるように思われるのである。

 江戸思想も朱子学についても詳しく語る能力は私にはない。だが、子安氏が早稲田で今も行われている市民講座を聞き、私なりに理解した点は以下の通りである。鬼神とは祖霊のことであり、朱子学ではこれが重んじられた。朱子学の影響を受け、それを批判的に発展させながら理論構築をしていった荻生徂徠にとって鬼神とは国家システムの中核であり、国家の秩序、階層化のトップであり、それを保証するものが聖人であり、その意志を引き継ぐ者が為政者である。『「維新」的近代の幻想』の中でも子安氏は徂徠の思想を「(…) 人民の最良の共同体的総合が祭祀によってなされることを認識する為政者にとって、祭祀とは最良の政治的教化術であり、まさに祭り (祭事) とまつり (政事 とは一致する」と述べている。この徂徠の思想とヘーゲルの君主を優先させる思想とに類縁性を感じるのは私だけであろうか。確かに、ヘーゲルは祭政一致など主張してはいない。だが、統一体を支える君主は血統的な連続性に寄り掛かった存在であり、更には、象徴化機能による統一体であり、そこに徂徠の主張する聖人の意志を継ぐ為政者の姿を重ね合わせることができると私は考える。

 子安氏は徂徠の制作論的有鬼論に対立するものとして平田篤胤の民情論的有鬼論を提起しているが、篤胤のこの概念は鬼神を信じる多様な民衆がいなければ鬼神論が成立しないとするもので、そこには民衆の声に支持された国家論がある。民衆の支持は上からの指令ではなく、下からの多くの声として国家内に響きわたる。この国家観の中にバフチン的なポリフォニー理論の声を聞き取ろうとすることも無意味ではないように私には思われる。何故なら、バフチンも篤胤も国家体系を問題としているではなく、それを支える多くの民衆 (その大部分は名前さえも知られていない) の声を重視しているからである。それは下からの声と形容できるだけではない。常に多くの声が生成し、動き、変化していくこと。それが響き合うことに大きな意味があるのである。絶えざる対話の可能性が開かれていること、その点をバフチンも篤胤も強調しているのである。

 このモノローグ的理論とポリフォニー的理論の差異は国家というレベルで考えた場合に、近代と現代との区分を示す一つの指標となり得るのではないだろうか。近代までの体系優位と現代の構造優位は一見、モノローグ性とポリフォニー性とは無関係なように思われる。しかしながら、体系化はヒエラルヒー化する力が大きく働き、秩序化、正当化の名の下に多数の声の響きを消去してしまう危険性が孕まれているように私には思われる。構造の優位は主体の排除という負の側面があるのは確かである。国家機構の主要構成体であるビューロクラートにおける中立性と非人格性、その両面が国家構造を支えている。それは体系的なものではまったくなく、構造的なものである。構造はモデルが優先されるが、それが主体からの影響を可能な限り削っているからこそ、それを基準として対話空間を開くことが可能となると述べることもできるのではないだろうか (それゆえに構造化された国家が進んだ機構であると断言できないのも事実ではあるが、対話空間の可能性がより開かれているのは確かである)。それはポリフォニーのための準備装置になり得るのだ。それに対して、体系的国家は多声性の基盤となる声よりも君主、あるいは、為政者の声が、それが象徴であるだけであったとしても、あまりにも強く響くモノローグ的な機構である。それゆえ、多様性を認め、多数の声によって動く世界とは相容れない側面が色濃く塗り込められたものである。ヘーゲルの中にある体系中心主義はこの問題を抱えているために、現代的な装置ではなく、近代的な装置であると言い得るように思われる (近代的装置が現代にまで存続し、影響を及ぼしているという問題については。煩雑さを避けるためにこの小論では言及しないこととする)。

 もちろん、バフチンが語っているように、対話空間は常に開かれている。それゆえ、時間的にも空間的にも離れた複数の言説が突然対話空間を開くこともあり得る。ヘーゲルの『法の哲学』における言説は現代的ではなく、近代的であると述べたが、その理由だけで時代遅れであると断言することはできない。何故なら、新たな対話空間の開示が、新たなポリフォニーを生み出すからである。また、『法の哲学』の言説に比べて、『精神現象学』の言説ははるかに現代的な色彩が強いように思われる。それは体系的であるだけでなく、構造的な側面が語られており、ジェジェクが主張しているような多を内包した、ポリフォニーを孕んだ言説が数多く発話されているからである。だが、この問題はここで考察するにはあまりにも複雑過ぎ、これ以上語ることは控える。

 このテクストで、最初に提起した問題を十分に検討でき、満足のいく論証ができたとは思われないが、それでも何某かの問題提起はできたのではないだろうか。横断的な、斜めから見る新たなポリフォニーを導入するための言説を語ること。それはある語りが閉じられたものではなく、常に開かれたものであることを確認していく行為でもある。今、私がヘーゲルの言説を取り上げる理由はそこにある。私の考えはヘーゲルの言説からは遠いものである。だが、遠いからこそ、ヘーゲルの言説に、様々な思想家達の言説や私の言説を対峙させることによって、切り開かれて行く方向性があるように思われるのだ。ナンシーは『アイデンティティ』の中で、「その度ごとに、主体は異なる。主体は他者とも自己とも異なる。つまり、あらゆるアイデンティティと異なるものだ。だからといって、主体が安定や一貫性を欠き、本質的に変異するものだというわけではない。主体の真の一貫性とは、特定可能なアイデンティティを絶えず乗り越えることなのである」と語っている。何故、それが可能か。それは私があなたと、彼と、彼女と対話をすることによって、私となって行くからである。この点を強調して、ここで、このテクストを終えたいと思う。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

宇波彰現代哲学研究所 語る主体とポリフォニー (fc2.com)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12010:220507〕