諜報国家ロシアの長い影――歴史と理論から見た情報戦の本質
ロシアを理解するうえで、しばしば見落とされがちな前提がある。それは、ロシアという国家が、軍事力や外交と並んで、いやそれ以上に諜報と情報操作を国家運営の中核に据えてきた存在だという点である。
ウクライナ侵攻以後、ロシアの情報戦やプロパガンダが注目を集めているが、それを「プーチン体制の異常性」に還元してしまうなら、事態の本質を見誤るだろう。
保坂三四郎『諜報国家ロシア』(中公新書、2023)が説得的に示すのは、ロシアの情報戦が一過性の戦術ではなく、帝政ロシア以来の国家的作法として形成されてきたという事実である。
1 国家と諜報が分かちがたく結びついた歴史
帝政ロシアにおいて、国家権力を支えたのは軍隊だけではなかった。秘密警察オフラーナは、反体制派の監視、扇動、分断を通じて皇帝権力を補完した。
革命後、その役割を引き継いだのがチェーカーであり、さらにGPU、NKVD、KGBへと連なる。
重要なのは、体制が変わっても、諜報機関が「国家防衛の一部」ではなく「国家そのものの一部」であり続けたことである。
西欧諸国では、諜報活動は原則として外交・軍事の補助手段とみなされる。しかしロシアでは、諜報は常に前景に置かれてきた。
それは、ロシアが自らを恒常的に「包囲され、脅かされる国家」と認識してきた歴史とも無関係ではない。外部の脅威を排除するためには、外部だけでなく内部の不安定要因を制御する必要がある。この発想が、情報操作と分断の技法を洗練させていった。
2 正面衝突を避け、内部崩壊を狙う
ロシア型戦略の特徴は、常に正面衝突を回避し、相手の内部に働きかける点にある。
これは軍事面に限らない。政治、思想、世論においても同様である。
冷戦期、ソ連は西側社会を共産主義に「改宗」させようとしたわけではない。むしろ狙われたのは、
- 資本主義社会への不信
- 自国政府への疑念
- 「どちらも同じではないか」という道徳的相対化
こうした感情や認識を拡散することだった。
この戦略は、一定の成功体験をもたらした。西側諸国では、冷戦期を通じて、反体制運動や平和運動、知識人層の議論が複雑に分裂し、しばしば政策決定の足枷となった。
ロシア(ソ連)は、相手を打ち負かす必要すらなかったのである。
3 「信じさせる」のではなく「迷わせる」
現代ロシアの情報戦を理解する鍵は、説得ではなく攪乱という点にある。
ロシアの目的は、自国の正しさを全面的に信じさせることではない。むしろ、
「真実は一つではない」
「誰が悪いのかは簡単には言えない」
「結局、大国はどこも同じだ」
こうした認識を広めることにある。
そのために用いられるのは、あからさまな虚偽ではない。
- 事実と虚偽を混ぜる
- 正当な批判(たとえば米国の戦争責任)を足場にする
- 議論を無限に相対化する
結果として、判断そのものが停止する。
この状態こそが、ロシア型情報戦の最大の成果である。
4 認知戦(cognitive warfare)としての情報戦
近年、この種の戦略は「認知戦(cognitive warfare)」と呼ばれる。標的は国家や軍隊ではなく、社会の判断力そのものである。
民主主義社会は、本来的に多様な意見を許容する。その開放性は強みであると同時に、脆弱性でもある。
ロシアの情報戦は、この構造を巧みに突く。言論の自由そのものを利用し、社会内部の対立を増幅させるからだ。
ここで重要なのは、ロシアが必ずしも直接介入する必要がないという点である。
5 「自発的媒介者」という最重要資源
ロシアの情報戦において、最も効率的な資源は、自発的に語ってくれる他国の知識人や言論人である。
彼らは命令されて動くわけではない。多くの場合、自らを批判的知性と認識し、西側主流言説への違和感や反発から発言している。
しかし、その言説が結果として、
- ロシアの行動を「理解可能」と位置づけ
- 侵略や暴力の評価を相対化し
- 社会に判断停止をもたらす
ならば、それはロシアの情報戦と機能的に一致している。
費用も指示も不要で、必要なときに必要な論調が供給される。この構造こそ、諜報国家ロシアの洗練された戦略性を示している。
結びに代えて
ロシアの情報戦は、敵を沈黙させる技術ではない。
敵に語らせ、その語りを通じて社会を分断し、迷わせる技術である。
この構造を理解しないまま、現代ロシアやウクライナ戦争、日本の言論空間を論じることはできないだろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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