諜報国家ロシアと〈語らされる知性〉(第3回)

誰が、どのように語らされるのか――親ロ的言説の類型とその効果

ロシアの情報戦が成功する最大の理由は、他国の社会に語り手が存在することにある。
彼らはスパイでも工作員でもない。多くは自らを批判的知性と信じ、実際に豊富な知識と経験をもつ人物である。
問題は、意図ではなく、その言説がもたらす効果だ。

1 三つの典型的類型

日本の言論空間において、ロシアのナラティブと親和的な言説は、おおむね次の類型に整理できる。

第一に、元外交・情報専門家型
冷戦期の実務経験や対ロ交渉の記憶を背景に、ロシア国家への理解と共感を深めていく。

第二に、反資本主義・反NATO思想家型
米国覇権批判を主軸とし、その延長でロシアを「対抗軸」として位置づける。

第三に、地政学リアリスト言論人型
国際政治を大国間の力学としてのみ捉え、規範や主体性を二次化する。

これらは排他的ではなく、しばしば重なり合う。

2 共通する言説の作動様式

これらの言説には、いくつかの共通点がある。

  • ロシアの行動は「理解可能」「追い込まれた結果」と説明される
  • 被害を受ける側(ウクライナや周辺国)の主体性は相対的に軽く扱われる
  • 日本社会に対しては「対米従属からの脱却」が強調される

侵略が露骨に肯定されることは稀である。
しかし、評価は相対化され、結論は先送りされる。その結果、暴力の責任は霧散する。

3 「鬼首を取った」瞬間――米国の違反が与える格好の材料

近年、こうした言説がひときわ声高になる瞬間がある。
それは、トランプ政権下に象徴される、ベネズエラへの露骨な介入や制裁の恣意的運用など、国際法や主権尊重を軽視する行為が可視化されたときだ。

この種の出来事は、親ロ的言説にとって格好の燃料となる。
「やはり西側も同じではないか」「国際法など強者の道具にすぎない」――
彼らは、あたかも鬼首を取ったかのように声を高め、論陣を張る。

だが、ここに決定的な転倒がある。
米国の違反を指摘することの正当性が、そのままロシアの侵略を相対化する免罪符へとすり替えられるからだ。
批判は本来、行為ごとに向けられるべきである。ところが実際には、

「だから誰も裁けない」
という結論へと短絡される。

この論法の帰結は、規範の強化ではない。規範の空洞化である。

4 操られているのか、それとも自発的なのか

彼らを「操られている」と断じるのは容易だが、正確ではない。
多くは自律的で、誠実である。むしろ、米国の二重基準を許さないという倫理的衝動から出発している。

しかし、ロシアの情報戦にとって重要なのは意図ではない。
言説が社会に何をもたらすかである。

結果として、

  • 侵略の道徳的・法的評価は曖昧になり
  • 民主主義と権威主義の差異はぼかされ
  • 「何が正しいのか分からない」という諦念が拡散する

この効果は、ロシアの戦略と機能的に一致している。

5 最大の成果としての「判断停止」

ロシアの情報戦が目指す最終状態は、支持でも共感でもない。
判断停止である。

誰が悪いのか分からない。
どちらも同じに見える。
考えること自体が無意味に感じられる。

この状態こそが、民主主義社会にとって最も危険であり、同時にロシアにとって最も都合がよい。

連載総結論

批判的知性とは、主流に反対することではない。
暴力と責任を可視化し、主体性を回復させることである。

米国の国際法違反を批判することと、ロシアの侵略を免責しないことは、同時に成り立つ
その両立を放棄したとき、批判は権力を免責する装置へと反転する。

問われるのは、
その言説が、誰の声を消し、どの暴力を見えなくしているのか
ロシアの情報戦は、私たち自身の知的態度を映し出す鏡でもある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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