資本論を「非経済学的に読む」とは何か――アルチュセールにおける〈種差〉と徴候的読解

近年、「ちきゅう座」において山本耕一氏が連載している「資本論を非経済学的に読む」という試みは、一見すると奇異にも映る。というのも、『資本論』そのものが政治経済学批判であり、マルクス自身が経済学というディスクールの内部に身を置きながら、それを内在的に解体する書物だからである。通常理解では、『資本論』を一歩一歩読み進めれば、経済学批判としての結論に導かれる「はず」だ、という感覚が共有されてきた。

しかし、まさにこの「はず」という感覚そのものを問いに付すところに、アルチュセールが『資本論を読む』で提出した哲学的読解の核心がある。本稿では、アルチュセールのいう「種差(différence spécifique)」の概念を軸に、徴候的読解、価値論批判、そしてヒューマニズム否定と労働価値説受容との緊張関係を整理しつつ、「区別せよ、しかし連関せよ」という思考の要請としてアルチュセールの資本論読解を再構成する。

1.対象の種差と認識の種差

アルチュセールが問題にするのは、第一に『資本論』が対象とするものの種差である。『資本論』の対象は「経済一般」でも「市場現象」でもなく、資本主義的生産様式という歴史的に特定された構造体である。そこでは商品・価値・貨幣・資本といったカテゴリーは、経験的事実の記述概念ではなく、構造的関係の中でのみ意味を持つ理論的概念として与えられる。

しかし、アルチュセールがより強調するのは、対象の種差そのものよりも、それを捉える認識の種差である。古典派経済学や通俗経済学は、同じ対象を扱っているように見えて、実際には異なる「問題構制(problematic)」のもとでそれを把握している。したがって、マルクスの理論的革新は、新たな答えを与えた点にあるのではなく、そもそも問いの立て方=認識の場を根本的に変えた点にある。

この意味で、哲学者が『資本論』を読むとは、経済学的結論を要約することではなく、いかなる認識論的断絶がそこで生じているのかを同定する作業にほかならない。

2.徴候的読解——語られていないものを読む

アルチュセールが提唱する「徴候的読解」とは、テクストが明示的に語っている内容だけでなく、語りえずに沈黙しているもの、あるいは矛盾として現れている箇所を手がかりに、その理論的無意識を読み取る方法である。

『資本論』において、マルクスは古典派経済学のカテゴリーを批判的に引き継ぎつつ、それらを構造的に再配置する。しかしその過程では、なお旧来の問題構制の痕跡が残存し、緊張や揺らぎとして現れる。徴候的読解とは、まさにこの揺らぎを、理論的未熟さとしてではなく、理論的断絶が進行中であることの徴候として読む態度である。

ここで重要なのは、区別すること自体が目的なのではなく、異なる問題構制の連関と移行を把握することが課題だという点である。アルチュセールは「区別せよ」と言うが、それは切断による孤立を意味しない。むしろ、異なる理論的水準がどのように接続し、ずれ、重なり合っているのかを思考せよ、という要求なのである。

3.価値論批判の位置——経済学か、理論構造か

この観点から見ると、価値論は単なる経済理論の一部ではなく、資本主義的社会関係を可能にしている抽象的構造を明らかにする理論装置である。アルチュセールにとって、価値とは人間労働の自然的属性ではなく、特定の生産様式においてのみ成立する社会的関係である。

したがって、価値論批判の趣旨は、「労働が価値を生む」という命題の正否をめぐる論争ではない。それは、経済学が自明視してきた労働・交換・価格の連関を、構造的に再定式化し、その認識論的前提を暴露する点にある。この意味で、価値論はすでに非経済学的であり、社会構造論・理論的認識論の領域に踏み込んでいる。

4.ヒューマニズム否定と労働価値説の緊張

もっとも、ここで避けて通れないのが、アルチュセール自身の立場の緊張である。彼は一貫して「マルクス主義はヒューマニズムではない」と主張し、主体・疎外・本質といった人間中心主義的概念を批判した。しかし同時に、労働価値説そのものを明確に放棄することはなかった。

この点はしばしば、アルチュセール理論の不徹底として批判されてきた。労働を価値の基礎に据える限り、そこにはなお人間労働を特権化する残余が残るのではないか、という疑念である。徴候的読解の立場からすれば、ここにもまた理論的緊張の徴候を読むことができる。

すなわち、アルチュセールは、労働価値説を人間学的原理としてではなく、資本主義的生産様式に固有の構造規定として把握しようとした。しかしその試みは完全に言語化されきらず、価値論の内部に曖昧さを残したままになっている。この未完性そのものが、マルクス理論の哲学的読解がなお継続すべき課題であることを示している。

おわりに——区別と連関の思考へ

以上見てきたように、アルチュセールの『資本論』読解における「種差」とは、対象と認識、経済学と哲学、明示と沈黙、断絶と連関を峻別しつつ、それらの関係構造を同時に思考するための概念である。

「非経済学的に読む」とは、『資本論』を経済学から切り離すことではない。むしろ、経済学批判が成立するための理論的・認識論的条件そのものを問うことにほかならない。その意味で、アルチュセールの問いは、今日においてもなお有効であり、価値論批判とヒューマニズム批判の交差点に立つ思考として、再び掘り起こされるべきものである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1379:260103〕