1. 「流動資本」と「固定資本」
くどいといわれそうだが、じつは、『資本論』第2巻第2編に「種子」がでてくる。そこでは、「種子が直接に年間生産物からを補填」される事例が、営農者が「全生産物を売って、その価値の一部分で他人の種子を買う」事例とともにとりあげられている。(202-203ページ)
ここでの議論の眼目は、しかしながら、営農者の種子の調達方法にあるわけではない。スミス批判を通して「流動資本」概念を明確化することが、マルクスのねらいである。初歩的なことだが、ここは横着せずに、「流動資本」と「固定資本」について、基本的なことがらをおさらいしておこう。
スミスにしたがうなら、調達方法がちがうことで、資本としての種子は、ことなった規定をうけとることになる。自家生産物から「直接に補填される」場合には種子は固定資本となり、「他人の種子を買う」場合には、それは流動資本となる。
しかし、この区分はまったく意味をなさない。どちらの種子をつかおうとも「補填」であることにかわりはないからである。
注目すべきは、資本のつかわれかたである。「種子は生産物を完成させるためにすっかり消費される。」このように、資本の成分のうち、生産物が完成された時点で完全に消費される部分をマルクスは「流動資本」と規定する。
これにたいし、「固定資本」は、生産物が完成したあとも、「生産物にたいして独立」したまま「最初のすがたを保持」している。マルクスは、そうした「固定資本」の具体例として、「用具や機械や工場建物や容器」をあげる。「流動資本」と「固定資本」では、労働過程ではたす機能が明確に異なるのである。
その結果、「流動資本」がもっていた価値は、すべて生産物のうちに再現される。原料である綿花は、紡績という労働過程によって、完全にかたちをかえ、その価値はすべて生産物である綿糸へと移行しなければならない。
一方、「固定資本」、たとえば機械は、その損耗した部分の価値だけが、綿糸のうちに再現されることになる。蛇足を承知で確認するなら、「種子」は、どこまでいっても「流動資本」であって、「固定資本」ではありえない。
マルクスの議論は、論理的で明快であり、つけくわえることはなにもない。しかも、このあたりは、全面的に専門家にゆだねておくべき領域であって、あまりかかわりたくないのだが、関連する論点にもうすこしだけふれることにしよう。
2. 「不変資本」と「可変資本」
一見すると「固定資本」・「流動資本」に類似しているかにみえる概念が、「不変資本」と「可変資本」である。第1巻を200ページくらい読みすすむとでてくるこの対概念は、きわめてよくしられているが、マルクスの記述でその内容を確認しておこう。
「生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変化させないのである。それゆえ、わたしは、これを不変資本部分、またはもっとかんたんに、不変資本とよぶことにする。
これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変化させる。それはそれ自身の等価、およびこれを越える超過分、すなわち剰余価値を再生産し、この剰余価値は、またそれ自身変動しうるものであって、よりおおきいことも、よりちいさいこともありうる。資本のこの部分は、ひとつの不変量からたえずひとつの可変量に転化していく。それゆえ、わたしは、これを可変資本部分、またはもっとかんたんには、可変資本とよぶことにする。」(第1巻 223-224ページ)
剰余価値は、労働者が、みずからがうけとった価値を超える量の価値を生産することでつくりだされる。ここで、あらためて確認しておけば、資本制のもとでは労働力は商品であり、それゆえ商品交換の原則にしたがう。したがって、他の商品とおなじように、労働力にたいしても、それの生産・再生産(維持)に必要な価値量が支払われる。資本家から労働者に賃金として支払われるのは、この価値量であり、その生産に必要な時間が、必要労働時間である。
しかし、商品交換の原則は、資本家がつぎのように主張することもみとめる。つまり、資本家は、「労働力の日価値を支払った。だから、一日の労働力の使用、一日じゅうの労働はかれのものである。」(第1巻 208ページ)こうして、資本家は、労働者に必要労働時間をこえる労働時間を強制する。商品交換の原則にしたがうかぎり、このことで、なんらの不正もおかされてはいない。
この延長された労働時間が剰余労働時間であり、そこで産出されるのが剰余価値である。そして、剰余価値を取得するこのやりかたが、搾取にほかならない。このように、資本の成分を「不変資本」と「可変資本」に区分するなら、剰余価値の源泉となる部分は一目瞭然である。
「不変資本と可変資本」は、したがって、「固定資本と流動資本」とは決定的にことなる組み合わせなのである。そして「ブルジョア経済学」は、マルクスによれば、「不変資本と可変資本」というカテゴリーと「固定資本と流動資本」というカテゴリーの混同に「本能的に固執」し、「無批判的に口まねしてきた。」その理由は、いうまでもなく、「固定資本と流動資本」が、「資本制的搾取の現実の運動を理解するための基礎」をみえなくするからである。(第2巻 221ページ)
これは、「経済学批判」としての『資本論』の要諦となる最重要の論点のひとつである。このことをおさえたうえで、ここでは、「ブルジョア経済学」ひいてはブルジョア・資本家が、「固定資本と流動資本」に固執するもうひとつの理由について考えてみたい。ただし、しろうとのかなしさから、あちこちに寄り道をしてしまうことになりそうである。あらかじめ、おわびしておきたい。
3. 「生きた労働」と「死んだ労働」
まず基本的なことがらをおさらいしておこう。「不変資本」と「可変資本」は、生産の場面に着目した区分である。前者は、生産のための「対象的要因」、つまり原料、補助材料、労働手段(用具や機械や工場建物や容器など)の生産手段の購入にあてられる。後者によって購入されるのは、労働力という「人的要因」である。(第1巻199ページ)
マルクスが、このふたつの要因に「生きた労働と死んだ労働」という表現をあたえている。「不変資本」が支出されるのは、「対象化されて死んでいる過去の労働」(209ページ)を入手するためであり、「可変資本」は、労動者の「生きた労働」のために支出される。それでは、「死んだ労働」と「生きた労働」は、「価値路増殖過程としての生産過程」でどのようにかかわるのか。
「労働そのもの」と「生産手段」は、生産に不可欠のふたつの契機である。労働は、「合目的的な生産活動」として、「生産手段を死からよみがえらせ、それを活気づけて労働過程の諸要因となし、それと結合して生産物になる。」(215ページ)
重要なのは、「生きた労働」による過去の(「死んだ」)労働の成果の「合目的的な消費」である。マルクスがもちいている例にならうなら、紡績労働のしかるべきかたちでの遂行が、「綿花」を「綿糸」という生産物にする。これによって、綿花という過去の労働の生産物が、あらたな生産物の形成要素としていかされる。
労働手段である「紡錘」や紡績のための機械についてもおなじである。それらは、合目的的に使用されることで、本来の機能を発揮し、ただの物体であることをやめる。ただの物体のままでありつづけるなら、それらは、時間の経過とともに、ひたすら腐朽していくだけである。
生産手段をこのように「合目的的に消費」することで、紡績労働は、生産手段を変容させるだけでなく、それにあたらしい価値をつけくわえる。このあたらしい価値が、すでにみたように、労働力に支払われる価値、つまり可変資本を補填し、さらには、剰余価値となって資本家のふところにはいることになる。
マルクスは、「生きた労働」と「死んだ労働」のかかわりについて、さらに重要な指摘をおこなう。それをみておこう。
労働は、生産手段を合目的的に消費することで、あたらしい価値を創造するだけではない。過去の労働の価値も保存する。「生産手段を死からよみがえらせる」ことは、生産手段のためについやされた過去の労働時間、つまりその価値をいかすことでもある。たとえていえば、「死んだ労働」は、「生きた労働」のうちに統合されるのである。マルクスはつぎのように指摘している。
「ある使用価値が、あらたな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、あらたな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分をなしており、したがって、それは、消費された生産手段からあらたな生産物にうつされる労働時間である。」(215ページ)
綿花という原料の価値、それの生産に必要な労働時間は、生産物である綿糸に移行する。紡錘や機械についても、おなじことがいえる。ただし、両者のあいだには明確なちがいがある。原料の場合は、その価値がすべて生産物に再現される。しかし、紡錘、機械の価値は、その一部である損耗分だけが生産物にうつるのである。
いずれにしても、生産手段なしの労働はありえない。そうである以上、「労働者は、もとの価値を保存することなしには、あらたな労働をつけくわえることは、あらたな価値を創造することはできない。」(221ページ)
あたらしい価値を創造することが、そのまま過去の労働の価値を保存することになる。そして、マルクスにしたがえば、この労働の特性が資本家におおきな利益をもたらす。当座の議論をしめくくりとして、マルクスのわかりやすい文章を引用しておこう。
「価値をつけくわえながら価値を保存するということは、活動している労働力の、いきている労働の、ひとつの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には、げんにある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである。」(同上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1339:250121〕