1. 需要と供給の均衡をめぐって
最初にふりかえりをしておきたい。
「社会の総労働時間」という概念は、マルクスによれば、つぎのことを理解するうえでかかせない。それは、欲求にもとづく使用価値にかんして、需要と供給の均衡は、どのようにして実現されるかである。
未来社会にあっても、「社会の総労働時間」を正確に配分し、需要と供給の均衡を完全に実現することは、おそらく不可能だろう。おおざっぱないいかたで恐縮だが、人間のやることは、不確定性をまぬかれない。それ以外にも、需要と供給の完全な均衡をさまたげる具体的な要因は、かずおおくあげることができるだろう。
したがって、需要と供給の均衡とはいっても、実際に実現できるのは、しょせん近似値にちかい状態でしかない。しかし、そうした状態を実現することで、「社会の総労働時間」の損失は、わずかなものにおさえられる。そうすれば、労働のおおくが、「社会的労働」の実をあげることも可能になる。労働の成果が、基本的に、他者の欲求の充足に寄与するだろうからである。
目を転じて、こんどは、資本制社会をみてみよう。そこでは、需要と供給の均衡は、原則的に達成されることはない。その最大の理由は、すでにみたように、社会的分業の編制が自然発生的だからである。なにをどれだけ生産するかは、それぞれの資本にゆだねられている。
こうした状況で、需要と供給が均衡したら、それは奇跡にちかい。むろん、偶然が均衡をつくりだすことはあるだろう。しかし、それは、すでにみたように、未来社会の場合とはちがい、意図された結果ではない。
さかのぼってみれば、われわれは、商品が価値(資本制のもとでは生産価格)のとおりに売られるための条件をもとめて、欲求にもとづく使用価値の需要と供給の均衡にたどりついた。いまみたように、資本制では、この均衡が実現されるのがまれである。したがって、商品の実際の値段が、価値(生産価格)どおりであることも、例外的といってよい。
商品が、価値(生産価格)どおりの評価をうけるのは、こうしてみれば、むしろ未来社会においてである。そこでは、財はもはや商品という規定をうけることはなく、生産価格という概念も必要ないであろうから、生産された財が価値どおり評価されるといったほうがよいだろう。
これもまた、すこし検討を要する案件である。
2. 未来社会と「価値」
昨年のことになるが、ある全国紙に『資本論』にまつわるエピソードがのった。筆者である著名人は、学生時代、ある『資本論』研究の泰斗の教え子であったらしい。
あるとき、教え子が師に質問をしたという。その内容は、おおざっぱにいえば、前近代の自給自足の農民にとっても、価値概念は必要なのかというものだった。その泰斗は「必要だ」と回答したとのことである。教え子のほうも、この回答に納得したそうである。
個人的には、教え子の質問は、もっともにおもえる。自給自足であれば、自分に必要な使用価値の種類と量を明確にしたうえで(実際には自明のことだろうが)、投入可能な労働時間を按排すればいいだけである。わざわざ価値を持ち出す必要はない。したがって、泰斗の回答には全面的に違和感をおぼえた。泰斗が回答にそえた理由を読んでも、それはまったくかわらなかった。
泰斗の発言であるから、なにかしらの根拠にもとづいているにちがいない。しかし、その根拠は、こちらにはわからない。こういう場合、通常は、わからない責任はしろうとにあるとされる。
ひらきなおっていえば、この場合、わからない理由について、あれこれ考える責任はしろうとにはない。むしろ、専門家が、しろうとにもわかるように説明すべきなのである。
マルクスの記述をよむかぎり、価値という概念を必要とするのは、全面的に展開した商品交換である。つまり、社会的分業が発達した資本制社会を理解するには、価値の概念が不可欠である。これにたいし、発達した商品交換ときりはなされた「価値」は、没概念としかおもえない。
それでは、資本制とおなじように、社会的分業が高度に発達しているはずの未来社会では、「価値」はどうなるのだろうか?
すでにみたように、資本制のもとでは、価値は、非常に屈折したかたちでしか現象しない。価値が、そのままのかたちで作用をおよぼすのは、未来社会にたいしてである。マルクスのことばをきこう。
「資本制生産様式が解消したのちも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後に、それにかんする簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである。」(第3巻 859ページ)
諸個人の欲求にもとづく使用価値財への需要から出発して、この需要に均衡する供給を確保するように「社会の総労働時間」を配分するなら、生産物は「価値」どおりに評価される。それは、それぞれの生産物のためについやされた労働時間が、適切に評価さることにほかならない。
ここで、注釈的コメントをさしはさんでおこう。未来社会での「総労働時間」の配分の方法は、具体的にはなにもわからない。そうとうにむずかしいだろうということは、しろうとにもわかるが、それ以上のことはなにもいえない。
複雑さなどを考慮して労働時間に種差をもうけるという問題も、たなあげにしたい。労働時間の評価を具体的に考えようとするなら、この問題はさけてはとおれないことは承知している。しかし、これもしろうとの手にあまる。とりあえず、この資本制でのこの問題について、マルクスの見解を引用しておこう。
「資本家によって取得される労働が、単純な社会的平均労働であるか、それとも、もっと複雑な労働、もっと比重のたかい労働であるかは、価値増殖過程にとっては、まったくどうでもよいのである。社会的平均労働にくらべて、より高度なより複雑な労働としてみとめられる労働は、単純な労働力にくらべて、よりたかい養成費がかかる。その生産によりおおくの労働時間がついやされる。したがって、よりたかい価値をもつ労働力の発現である。もし、この力の価値がよりたかいならば、それはまた、より高度な労働として発現し、したがってまた、おなじ時間内に比較的よりたかい価値に対象化される。」(第1巻 211―212ページ)
未来社会では、「たかい養成費」は全面的に社会の負担となるから、その成果は、いうまでもなく、社会に還元されなくてはならない。資本制でも、このたぐいの社会の負担は、部分的におこなわれている。(大学への巨額の税金の投入を想起するだけで十分だろう。)しかし、高学歴によって高収入を手にしても、社会への還元は、納税の額がおおきくなるくらいしかない。資本制と不可分の個人主義の観点では、高学歴の獲得は、まったく独力でなされた業績なのである。
未来社会では、私見だが、いわゆるひとのいやがる仕事の労働時間が、もっとも評価されるような種差の設定がのぞましいとおもう。ただし、マルクスの発想からいっても、もっぱら特定の個人が「いやな仕事」をになうというのは、あってはならないことだろう。
労働が可能なすべての個人が、すべての種類の労働におなじ時間だけ従事するとの前提にたてば、労働に種差をもうける必要はなくなる。しかし、体力等の肉体的条件の差異をかんがえただけでも、すべての労働におなじ時間というのは現実的ではないだろう。
さらにいえば、いまの日本の社会を例にかんがえても、労働の種類がいくつなのか想像がつかない。(そのなかには未来社会では必要のない労働もむろんあるだろう。反対に未来社会ではじめて必要となる労働もあるかもしれない。)個人がその全部に従事するということが、そもそも不可能事におもえる。
本筋にもどろう。資本制では、例の均衡は例外的にしか成立しない。したがって、ことなる使用価値(商品)についやされた労働時間が、適切に評価されることも、例外的でしかない。一方の労働時間が過大に評価され、他方には、過小にしか評価されない労働時間がある。あるときは過大に評価された労働時間が、つぎの瞬間には過小評価される。こうしためまぐるしい変化こそが、資本制の普通のありかたなのである。
3. もういちど「社会的労働」について
社会的労働についても、ここでみておくべきだろう。例の均衡が、基本的に成立している未来社会では、各人の労働は、他者の欲求を充足し、その生に寄与するという本来のはたらきを達成する。つまり、そこでの労働は、原則として、「社会的労働」という規定をみたすことができるのである。
これにたいし資本制では、くりかえしになるが、労働は、しばしば「社会的」な機能をはたさないままきえていく。ここでは、まえに一度とりあげた「消費」の観点にたちもどり、「社会的労働」の検討をつづけることにしたい。
再確認しておこう。「消費」の視点からすれば、その商品の生産についやされた労働時間は問題にはならない。実際に消費されたなら、商品を生産した労働は、その機能をはたしたのである。消費者からすれば、価格はひくいほうが、むしろありがたいとさえいえる。
しかし、価格がひくいということは、例の使用価値にもとづく需要と供給の均衡がくずれたことの結果である。低価格の商品に投入された労働時間の一部は、不必要だったのであり、「社会の総労働時間」は、そのぶん、損失をこうむったのである。消費者にとっていかにつごうがよかろうとも、社会全体からみれば、あきらかに損失である。
むろん低価格のほうが修正されるべきというケースもある。現在の日本社会では、ひくい価格は、おおくの場合、生産の現場になんらかの無理をしいることで実現されている。こうしたゆがんだ低価格は、いわずもがなだが、修正されてしかるべきである。
これとはべつに、再検討を要する事例もある。さきにみたリンネルの生産条件の激変などがそれである。資本制的生産では、ふるい条件で生産されたリンネルの価格が、あたらしい条件で生産されたリンネルの価格の水準まで低下するのは当然である。
しかし、未来社会でおなじことが起きたとすれば、それぞれのリンネルは、それぞれの生産に要した労働時間で評価されるだろう。ふるいリンネルが生産されたときの「社会の総労働時間」の配分は、その時点では適切だったのである。旧条件でのリンネルの生産につかわれた労働時間をひくく評価する理由は、どこにもない。新旧ふたとおりの価値をもつリンネルの併存から生じる不都合は、社会全体でひきうけるべきものである。
4. 批判のための視点としての「需要と供給の均衡」
使用価値を出発点とする需要と供給の均衡という視点をとることで、現代社会のいくつかのことがらについても、多少のみとおしがつくようになる。この均衡は、くどいのを承知でいえば、未来社会ではじめて実現をみるはずのものである。したがって、それを評価の基準にすることは、いってみれば、未来社会の視点から、現代社会を批判することであり、外在的な批判になることはさけられない。
そうはいっても、資本制を相対化するためには、いずれにしろ外在的な視点をとらざるをえない。ステレオタイプの議論にならないよう注意をおこたらなければ、この手法も、資本制をより根源的に理解するうえで、それなりに有効であろう。
商品の廃棄の問題にもどろう。食品ロスに関連して、廃棄されるはずの食品を家畜の飼料にするという利用法が一時期しきりに喧伝された。用途変更による食品ロスの回避である。
廃棄されずに消費されたということでは、問題はないようみえる。資源とエネルギーのむだづかいも避けられている。しかし、結果的に飼料になったとしても、それの労働時間は、もともとは食品の生産につかわれたのである。「社会の総労働時間」の配分としては、あきらかに失敗といってよい。
このことは、この場合、もともと飼料として生産されたものについて考慮するなら、いっそうはっきりする。飼料が、需要にみあうように生産されていたら、食料の転用によって、飼料の一部は余剰とならざるをえない。食料の飼料への転用は、問題をべつの場所に移動させたにすぎない。
最近、にたような話があった。福島原発の放射能汚染水を海洋投棄したため、北海道のホタテ貝が、おおきな輸出先をうしなった。これにたいして、ホタテをたべて北海道を応援しようというキャンペーンがはられた。(おなじようなキャンペーンはしょっちゅうのことである。)
ちょっと考えれば(考えなくても)わかることだが、そういわれたからといって、ホタテ専用の胃袋が、普通の胃袋の横に特設されるなどということはない。北海道のホタテをよけいに消費すれば、他の食料(おおくは海産物)の消費が減るだけのことである。他に犠牲者をつくりだしておいて、応援もないだろう。
あえていえば、この場合、応援しているのは(むしろ応援を強制されているといったほうが適切である)、他の食料品の生産者である。食べて応援しようと本気でいっているのなら、つける薬はない。
昨今、こうした情緒的な反応も、やたら目につく。情緒的に反応することで、いい人を演出したがっていると思わされることもおおい。(ひねくれているといわれれば、かえすことばはない。)ほんとうに応援したければ、自腹を切って現金を寄付でもするしかない。ホタテの生産者が、しばらく生産をやすんでも生活できるようにするのが、本当の解決策である。
むだ話がながすぎた。使用価値を出発点とする需要と供給の均衡いうモデルが、資本制のさまざまな事象を理解するうえでも重要であることを確認して、しめくくりとしたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1356:250804〕