資本論を非経済学的に読む 11

著者: 山本耕一 やまもとこういち : 駿河台大学名誉教授
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1. 資本による欲求の操作

資本制では、それぞれの使用価値にかんして、欲求にもとづいて需要と供給を均衡させることができない(したがって、「総労働時間」の深刻な損失がさけられない)。その理由については、前回まででひととおり検討した。マルクスからすれば、社会的分業の編制が自然発生的であることが、問題の根源にある。

しかしながら、現代の資本制にそくしてこの問題をながめるとき、もうすこし他の要因もさぐってみたい気にさせられる。マルクスの発想を延長する(あくまでも「こちらがそのつもり」ということでしかないが)かたちで、あれこれ検討してみよう。

資本制の構造に由来する「売り」の困難にもどろう。これの原因についての本格的な討究は、とりあえずおいておきたい。この困難は、資本(とくにあらたに始動しようとする資本)の活動の余地をきわめて狭隘にする。

このゆきづまりをどうにかすることは、資本に必然的についてまわる課題である。歴史的にみれば、こうした隘路を迂回するために、いろいろ術策がとられてきた。しかし、こと現在となれば、もっとも目につくのは欲求の操作であろう。

個人的なことで恐縮だが、だいぶむかし、極彩色のおおきな壺につけられている値札をみて、金持ちはこんな物をほしがるんだとふしぎに感じたことがある。いまでは、そんなふうに思うことはない。なれてしまったというのがおおきいだろう。逆にいえば、子どもの感受性は、それなりに尊重すべきといえる。

階級・階層がちがえば、欲求のありかたも相違してくる。欲求は、社会環境につよく規定され、きわめて変化しやすい。欲求の操作は、それ自体、いともたやすいことである。資本は、この操作をおこなうことで、あらたな需要を創出する。これは、「売り」の困難によるゆきづまりを回避するため、ある時期以降、資本がくりかえしもちいてきた方途である。

『資本論』のなかで、資本による欲求の操作についての記述にであった記憶がない。ただの健忘かもしれず、ていねいに読みなおせば見つかるかもしれない。いずれにしても、資本は、ゆきづまれば、欲求を操作して需要をつくりだすというのは、資本制についてのマルクスの理解となんら齟齬をきたさないだろう。

具体例をもちだすまでもない気がするが、よくひきあいにだされるのは住宅である。この社会でも、持ち家に住んでいる人間というのは、第二次世界大戦後、しばらくは圧倒的に少数派だった。いわゆる高度経済成長とともに、住宅ローンの利用が一般化し、「持ち家」への欲求が、急速に社会にひろまっていった。

(政治も積極的に加担した)資本によるこの欲求の喚起策は、建築資本や金融資本をはじめ、もろもろの資本の活動の余地をおおきく拡大した。それとともに、いまだ手にしていない将来の収入をあてに買いものをし、欲求を充足するという消費のパターンも、しだいに社会に浸透していった。住宅ローンばかりでなく、クレジットカード決済も、現在では日常茶飯と化している。

2.  欲求のめまぐるしい変化

現在では、資本による欲求の操作の主要なターゲットは、完全に非物質的なフィールドへと移行している。すぐに思いつくのは、スマートフォンだろう。電車の7人がけの席の乗客が全員スマートフォンをのぞいている。むかいの席もなんらかわらない。そんな光景が奇異に思えるとしたら、そのほうがふつうではないのだろう。こうした光景があたりまえになってから、みじかくはない時間がながれている。

乗客たちが充足させようとしているのは、三十数年前には、ほとんど存在していなかった欲求である。ゲームや動画はあったが、電車のなかでそれにふけるというのは、当時は想像さえしなかった。

SNSにいたっては、すくなくとも日常生活のうちでは、かげもかたちもなかった。当然だが、それが依存症を生むほどの強度の欲求をひきおこすなどというのは、妄想さえできなかった。それにともなうあたらしいビジネスモデルの形成、犯罪の劇的な変化といったことについても、まったくおなじである。

資本は、利潤追求の領野を拡大するために、諸個人のうちにあらたな欲求を喚起する。これによって、諸個人の欲求のありかたは、たえまなく変化させられる。その影響は、いうまでもなく、非物質的な領域にとどまらない。

結果として、かずおおくの問題が、ひきおこされることになる。それでも、あらたな欲求の出現にあわせて、諸個人の消費能力が増大するなら、問題の一部は、それほど深刻化しないかもしれない。しかし、そんな資本制の社会は、おそらくどこにもない。

消費能力に限界がある以上、あらたな欲求が充足されるためには、既存の欲求のどれかが犠牲にされざるをえない。日常生活のなかで、衣食住にかかわるものの比重が低下するのは、自然ななりゆきといえるだろう。

この社会で、あたらしい欲求の出現の最大の犠牲となっているのは、憶断でいえば、食のようにおもえる。毎日、なにがしか、食にかかわる消費活動がおこなわれ、そのひとつひとつをとれば、出費の金額もおおきくない。しかし、総計すれば、家計全体のおおきな割合をしめる。支出をきりちぢめるのに好都合な条件がそろっているのである。

これが圧力として作用するため、当然のことながら、食にまつわる物品の価格は、不当に(安直に日常的表現をつかっておく)低く抑制されざるをえない。こうしてみれば、現在の日本社会で、農業の後継者がそだたないのは当然であろう。鶏卵は物価の優等生などともちあげられても、養鶏業者は腹立たしいだけである。

極論を承知でいえば、本来は鶏卵に支払われるべきものが、たかいスマホ料金の一部と化しているのである。「売り」の困難は、回避されたわけではなく、ゆがめられて、べつの場所に移転されただけというのがただしいだろう。

ここで、産業部門間での剰余価値の移動や、そのことと平均利潤率のかかわりといった問題をとりあげたい気にさせられる。しかし、これは、いかにもしろうとの手にあまる課題である。ある程度みちすじがたどれれば、現代の資本制を理解するうえで、きわめて興味ぶかい知見がえられることはまちがいないが、力量不足はいかんともしがたい。

 ともあれ、資本制では、使用価値にもとづく需要と供給の均衡が実現できないもうひとつの理由が、こうしてあきらかになる。諸資本は、外部から刺激をあたえ、諸個人のうちにつぎつぎにあたらしい欲求を生じさせることで、自己増殖をはかるのである。

無数の資本が、雨後のタケノコのように出現し、あらたな欲求の生みだしと充足をめぐってきそいあう。おそらく、そのおおくは敗退して闇に消え、のこった勝者も、欲求の転変によって、やがては退場をよぎなくされるかもしれない。われわれの目にみえないところで、資本そのもののスクラップ・アンド・ビルドが、けたたましい速度で進行していることだろう。

このような資本の動きは、例の均衡の成立とはまったく相容れないものである。均衡の実現は、資本にとって死にほかならない。やむことなく運動し、あらたな欲求をうみだしつづけること、それによって、ともかくも自己増殖をはたすことが、資本の生命線なのである。

それは、また、「社会の総労働時間」のうちのすくなからぬ部分を消滅させる。資源とエネルギーの浪費が、当然のごとくに横行する。使用価値にもとづく需要と欲求の均衡が、資本制の敵であるとすれば、資本制の存続は、人類にとって存亡の危機である。

3. 人間の改造

 食を例にもうすこし話をつづけたい。

以前、ときたま利用していた蕎麦屋にひさしぶりにいってみた。おどろいたことに、みじかくはない行列ができている。しかたなしに、行列の最後尾にならんで観察していると、列をつくっている人間のおおくが、スマホの画面に見いっている。なじみの(というほどでもないが)蕎麦屋が、いつのまにか“評判のお店”になってしまったらしい。

席について、注文した品がでてくると、あちらこちらで、スマホで写真をとる音が聞こえる。分別盛りなどというには年がいきすぎた人間まで、あたりはばからずカシャッとやっている。(「分別盛り」も死語となってひさしいのかもしれない。つかう当方の年齢が知れるというものである。)

この手合いは、悪口をいわせてもらえば、評判を食べにきているのであって、蕎麦を食べにきているのではない。なるほど評判で空腹をみたすことはできない。しかし、憶測での悪口になるが、評判の店での食事なら、その場所が、蕎麦屋だろうと、洋食屋だろうと、町中華だろうと、なんでもいいにちがいないと思いたくなる。なによりも重要なのは、“評判のお店”にいった証拠写真を SNSにアップすることなのだろう。

どうでもいいことだが、“評判の店”は、あくまでも“評判”がいいだけであって、味がいいとはかぎらない。レビューサイト(誘導をおもな活動とする資本)の操作が、“評判”のおおきな要因となっていることは周知のとおりである。偶然はいった店で、なんとなく客層に違和感をおぼえ、あとで“評判の店”であることを知ったという経験がある。“評判の店”の最大の特徴は、たぶん客層である。

いってみれば、ものを食べるという人間にとってもっとも基本的な行為まで、おおきく変容したのである。食べるのは、まず、空腹を満たし必要な栄養分を摂取するためであり、その際、味覚も満足させられれば、それがのぞましい。味覚の満足は、栄養の補給とストレートにむすびついている。

“評判の店”ハンターにとっては、そうした関心は、すべて二次的なものであるかのようである。かれらの最大の関心事は、SNSで、このましい反響を獲得することである。しかし、地球上のおおくの人間にとって、空腹を満たすこと、栄養の摂取(そして味覚の満足)は、いうまでもなく、いまだに基本的な欲求である。そういった人びとにとって、SNSでの反応などは問題外の外である。

“評判の店”あさりをするのは、食をつうじて、食欲以外の欲求を充足しようとする(食欲以外の欲求を最重要視する)人間、要するに、食うにこまらない人間ということになる。そのいっぽうで、食を(いうまでもなく衣や住も)犠牲にしても、ゲームや動画という人間がいても、いっこうに不思議はない(周囲にはみかけないが)。

あくまでも、現在の日本社会を観察するかぎりでの話だが、食は、人間にとって、もっとも基本的な欲求であると無条件にはいえなくなっている。身体をそなえているかぎり、食べないわけにはいかない。食は、生きていくための基本である。しかし、そのことは、しばしばないがしろにされる。当然のこととして、食にたいし、その重要性にみあう対価をはらおうとしない人間もすくなくない。

話題を食に限定しているが、おなじことは、おそらく、ほかの基本的な生活領域でも生じているにちがいない。人間の欲求のありかたが、全体として、おおきく変容しているといったほうが適切だろう。

これは、資本による人間の改造にほかならない。資本は、みずからの自己増殖につごうがいいように、人間そのものをつくりかえているのである。

4. 異星人?

犯罪のニュース報道をみていると、かつては耳にしたことのない動機がでてくる。こんなことにつかうための金がほしくて、そんな重罪をおかすんだと思わずにはいられない。旧世代の人間からみると、およそ理解不能としかいえない欲求が、この世にうずまいていることを実感させられる。

あまりに紋切型で気がひけるが、四十年前の日本社会の住人が、現在にタイムスリップしてきた場面を想像したくなる。かれは、都市空間や自然環境のかわりよう以上に、人間そのものの変容におどろくにちがいない。姿かたちはかわらなくても、欲求をはじめとする内面のありようは、さながら異星人である。

資本制が発達した社会では、おおかれすくなかれ、にたような人間の変容がみられることだろう。このことのおもな要因は、くりかえしになるが、資本による欲求の操作である。げんに作動している資本のおそらく大部分が、自己増殖はかるために、継続して欲求を刺激し操作しているのである。

資本の影響は、こうした社会では、そのすみずみまで浸透する。したがって、この変化はすべて資本のせいだといえないことはないだろう。しかし、そう言いきるには、はるかに綿密な調査とそれにもとづく緻密な議論が必要であり、これもまたあまりに難事業である。このあたりできりあげたほうが無難だろう。

それにしても、未来社会を展望するとき、いまみたような資本によって改造された人間については、どのように考えたらよいのか? やはりこれは、問うてみなければならない問題である。回を改めて検討してみたい。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.ne

〔study1358:250905〕