1. 未来社会の「必然の国」
議論がすこし『資本論』の叙述からはなれてしまっていることは自覚している。しかし、釈迦の掌中に舞う孫悟空とおなじで、マルクスが構築した問題圏から一歩もでていないはずとも思っている。
孫悟空とはちがって、掌中からとびでようと一方向につきすすむつもりはないし、ここまできたぞと虚勢をはるつもりもない。マルクスの手のうちでうろうろしているつもりではあるが、そうなっているかどうか、あやしくもある。『資本論』という手引きからすこし距離があるところにいるため、正直なところ、はなはだこころもとない。マルクスの手のうちから落下してしまっているのではないかという危惧もある。
前回の最後にふれたのは、未来社会とのかかわりで、資本の操作によって改造され、あらたな諸欲求をもつにいたった人間について、どのように考えるべきかということであった。
ところで、マルクスの未来社会にふれることには、忸怩たる思いを禁じえない。これは、おそらく、同じことをこころみる人間に共通だろう。(活動家の人たちがどうかんがえるのかは皆目わからない。)
新自由主義が地球上を跋扈し、それの最大の対抗勢力が、右派ポピュリズムであるかにみえる現状で、マルクスの未来社会をかたることにどれほどの意味があるのかと問われたら、ことばはない。
右派ポピュリズムでは、新自由主義の真の克服はできないといってみても、マルクス派の失地は一寸たりとも回復されない。おそらく、地球上のそれぞれの社会をたんねんにみていけば、マルクス派による新自由主義との対峙がみつかることだろう。そして、その場合には、新自由主義とのあいだに真の対立の構図が成立していることだろう。
しかし、表層的にみれば、新自由主義との対決でめだつのは、右派ポピュリズムである。右派ポピュリズムは、おおざっぱにいうなら、新自由主義がもたらした社会の疲弊の産物にほかならない。右派ポピュリズムの攻撃が、新自由主義のある側面にむけられるのは当然ともいえる。
たしかに、右派ポピュリズムの指導者のうちには、新自由主義との対決を気配ほども感じさせない人物もいる。また、アメリカのように、リベラル派が新自由主義の先兵と化し、新自由主義の犠牲者がアンチ・リベラルにくみするという奇妙な現象も生じている。(つきつめれば奇妙ではないのかもしれないが。)その結果が、トランプという醜怪の出現である。そうみれば、トランプの所業のうちには、新自由主義に親和的でないものがあることも理解できる。
日本の右派ポピュリズムはといえば、その根底にあるのは、急速に縮んでいく社会のうちに生きることからくる不安や不満だろう。その急速な縮小のおおきな原因は、まちがいなく新自由主義である。しかし、日本の右派ポピュリズムの主張のうちには、そうした認識をうかがわせるものは皆無である。
そのいいぐさは、哀しいほどに海外の排外主義のひきうつしでしかない。そこにある外国人攻撃は、京都のタクシードライバー氏の外国人観光客への不満のような迫力や説得力は、かけらもない。それでも、こわいことに、選挙で票をあつめれば、現実はそれにおおきく左右されることになる。
右派ポピュリズムというのは、こうしてみると、あまりにおおまかなくくりなのかもしれない。それはおいたとして、くりかえしになるが、新自由主義の病弊とたたかう勢力としてめだつのが、マルクス派ではなく、いわゆる右派ポピュリズムであるかことはたしかである。
それでも、マルクスの未来社会についてかたるのは、それが、マルクスの思想の根幹をなすからである。たしかに、未来社会についてのマルクス・エンゲルスの記述はおおいとはいえない。また、その記述が具体性をかいていることもよくしられている。
しかしながら、未来社会についての展望を欠落させたマルクスの思想などありえない。マルクスの思想的な営為は、すべて、なんらかのかたちで未来社会の建設を目標としているといえよう。そうである以上、マルクスをかたるにあたっては、その未来社会論にふれないわけにはいかない。ふれないほうが不自然だろう。
いいわけが、あまりにながくなってしまった。しかも、けっして得手とはいえない分野の議論に深入りしすぎた。本題にもどろう。
マルクスの未来社会の描写をたどりながら検討していくことにしよう。まず、「本来の物質的生産の領域」である「必然性の国」からみていくことにする。この領域は、マルクスによれば、時代とともに拡大する。人口が増大し、諸個人の生活が改善されるなら、それは当然であろう。
しかし、現代の資本制では、この拡大の規模は、おそらく、マルクスの想定よりもはるかにおおきい。物質的生産、つまり衣食住のような基本的欲求の充足にかかわる物資の生産の方式そのものが、きわめて複雑化しているからである。ロボットの導入を考えただけでも、想いなかばにすぎるだろう。
これによって、マルクスの考えをはるかに超えて(ひょっとしたら想像していたという気もするが)、生産性は向上した。おそらく、資本制でなければ、だれもが一定の水準の物質的生活を享受することが、現在では可能になっている。
マルクスが、『資本論』を執筆したさいの最大の関心事のひとつには、したがって、十分に肯定的な解答がだされている。現在、だれもが享受できるはずの物質的な生活は、マルクスが考えていた水準のはるかうえをいくにちがいない。
このことにかんして、現代が直面する制約は、まちがいなく、爆発的な人口増加と環境問題である。人口の増加は、それだけで環境的自然(マルクスのいう「自然」)への負荷を増大させる。現在の資本制が環境にくわえている圧迫を勘案するなら、すくなくとも将来の生活水準について、楽観的な見通しはゆるされないだろう。
2. 「必然の国」のうちの非物質的欲求
問題は、非物質的ともいえる欲求、衣食住からは相対的に分離される欲求である。
それらの欲求のすくなからぬ部分が、資本による操作の産物だということは、しばらくおいておこう。したがって、それらが、マルクスのいう「自己目的としてみとめられる人間の力の発展」、つまり「自由の国」と密接にかかわる欲求と同一視できるのか否かも、いまは問わないでおく。
それでも、たとえば、現代の日本社会にみられるような非物質的な欲求の一部分は、未来社会にあっても存在しつづけるだろう。(生活に必需とはいえないだろうが。)そうした欲求を充足する使用価値のおおくは、あいまいにすぎるのを承知でいえば、ひろい意味での情報ということになる。
この使用価値を生産するのは、当然のことながら、社会的労働である。それら使用価値の生産部門は、社会的分業の一分肢を形成し、その生産には、「社会の総労働時間」の一部がわりあてられる。
マルクスのうちには、このような使用価値の生産について、明確な記述はない。しかし、ことがらから判断すれば、この活動は、あきらかに「必然の国」でのいとなみである。
この活動も物質代謝であるとして、物質的生産と同一視することもできる。非物質的な欲求を充足する使用価値の生産であっても、外部(環境的自然)から、たとえわずかであっても、なにがしかの資源をとりこみ、おなじく外部に廃棄物を排出する(CO2さえもださないということはまずありえない)。非物質的な使用価値の生産も、物質代謝であることはまちがいない。
そうはいっても、物質的な使用価値の生産と非物質的なそれの生産をひとくくりにするのは、やはり無理があるように思う。「必然の国」のいとなみ、つまり「物質代謝」に種差をもうけ、マルクスのいう「物質的生産の領域」に非物質的生産の領域を追加したほうがいいだろう。ふたつの領域をわけるのは、いうまでもなく、そこで生産される使用価値が、どのような欲求を充足するのかである。
このような追補は、マルクスの議論の基本的骨格のうちにおさまるといってよい。しかし、非物質的な使用価値が充足する欲求そのものに焦点をあわせるなら、議論は、いりくんだものとなる。
3. 非物質的欲求と「自己目的としての力の発展」
マルクスの視野のうちに、非物質的な欲求があったことは、くりかえし引用している「自己目的としてみとめられる人間の力の発展」からも確認できる。
衣食住にかかわる欲求は、最終的には、自己保存のための欲求である。いってみれば、手段としての欲求である。これにたいし、非物質的な欲求は、それを充足すること自体が目的である。
この区分は、図式的にすぎるかもしれない。物質的な欲求も自己目的になることがありうるし、生存それ自体が目的となることもある。
しかし、物質的な欲求が自己目的となるとしたら、それは、もはや衣食住の必要からはきりはなされている。住居が豪邸であることは、住への基本的な欲求の充足に必須の条件ではない。ジャンパーについているロゴが大切だというので、そでを通さないとしたら、そのジャンパーは衣料ではない。また、生存が目的となるとしたら、それは極限状態のことでだろう。
本来は、自己保存の必要から解放されたときに、非物質的欲求のための余地がうまれる。マルクスが、「必然性の国のかなたで、自己目的としてみとめられる人間の力の発展が、真の自由の国がはじまる」(第3巻 828ページ)としたのは、この観点からである。
現代の日本社会の非物質的な欲求の百花繚乱は、マルクスの叙述にてらして、どのように評価されるのか? さまざまな非物質的な欲求の出現は、未来社会であれば、諸個人の物質的欲求が十全にみたされていることのあかしである。しかし、すでにみたように、資本制社会では、事情はおおきくことなる。論点を整理していこう。
まず、地球規模でみるならば、現代の日本社会の状況は、けっして一般的とはいえない。生存それ自体が目的であるような日常生活を強制されているひとの数は、けっしてすくないとはいえない。
日本でも、物質的欲求を充足するために苦闘しているひとは存在する。その数が減少しているということも、残念ながらなさそうである。また、非物質的欲求のために衣食住を犠牲にするひとも、すくないとはいえないだろう。
くりかえしになるが、地球全体でみて、生産力は、すべての人間に一定の水準の物質的生活を提供できるところへ到達しているはずである。それが実現できていない理由は、もっぱら資本制にある。このことに異論はないだろう。とりたてて問題にするようなことは、ここまではでてきていない。
4. 資本による欲求の操作と「力の発展」
慎重にあつかう必要があるのは、日本などの資本制社会にあふれかえる非物質的欲求の内容である。まずは、教条主義的に問うことにしよう。それらのかずかぎりない非物質的欲求のうちに、「自己目的としてみとめられる人間の力の発展」に寄与するものがどれだけあるのか?
教条主義の矛をおさめたとしても、疑問がいくつものこる。あまりに基本的なことなので、くりかえすのがはばかられるが、資本制のもとでは、非物質的な欲求を充足するための使用価値は、基本的には商品である。しかも、そのおおくは、消費するがわのもとめに応じて生産されたのではない。商品の開発は、操作による欲求の作為的な喚起と並行的におこなわれる。そして、これもくりかえしになるが、非物質的な欲求の操作は、いたって容易である。
そのような資本の操作によってよびおこされた欲求であっても、結果的に「自己目的としてみとめられる人間の力の発展」につながることは、おおいにありうる。しかしながら、資本の目的は、利潤をあげることであり、それをとおして自己増殖をはかることである。マルクスのいう「力の発展」は、資本の関心のうちには、かけらほどもない。「力の発展」が実現したとしても、それは、たまたまそうなっただけのことである。
資本にとって重要なのは、商品が売れることであり、売りやすい商品の開発である。そうした商品の消費によって、非物質的な欲求を充足することで、資本のふところを肥やしていることはまちがいない。しかし、それ以上のことはなにもいえない。
たしかに欲求は充足されている。消費した人間が満足感を得たこともたしかである。しかし、よくいわれるように、重要なのは、なにによって満足を得たのかである。
多様性こそが最重要とする立場からは、こうした問いかけには白い目がむけられるかもしれない。しかし、そもそも資本の操作によって生まれた欲求である。そして、おなじ資本がつくりだした使用価値が、その欲求を充足させ満足をつくりだす。こうした消費活動に、資本の自己増殖への貢献という以上の意義をみいだすのはむずかしい。当人が満足しているのだから、それで十分というのは、いかにも資本制の社会での模範解答というほかはない。
5. 社会的労働の輪郭の不安定化
いまみたような非物質的な欲求のための使用価値の生産は、資本制のもとでは、社会的労働の性格にも深刻な影響をもたらす。
それらの使用価値も、社会的分業のうちで生産される。すなわち、社会的労働の産物である。しかし、それらの使用価値のうちには、数年後には生産されなくなるものおおい。欲求そのものが、雲散霧消して、かげもかたちもない(欲求があったこともわすれさられている)ことも多々ある。こうした使用価値を生産する労働が、社会的労働のもうひとつの規定をみたしうるのかとなると、それはかなり疑わしい。
そうした使用価値でも、それを消費する人間につかの間の満足感をあたえるかもしれない。しかし、それで、ことばのほんとうの意味で、その人間の生に寄与したといえるのか?
マルクスの時代であれば、たとえ資本制のもとであっても、社会的分業のうちで生産された使用価値は、他者の生に貢献し、その使用価値を生産した労働は社会的労働であるというのが、なかば自明であった。(いろいろに例外はあったにちがいない。)ところが、いままさに、この自明性がゆらいでいるのである。
泡沫のような使用価値をつくり、一過性でしかない欲求を満足させることが、他者の生への貢献になると考えるか否かについては、見解がわかれるだろう。「なんでもあり」の立場からすれば、なんら問題はないことになる。(ご都合主義の「なんでもあり」もおおい。)当然、これとは正反対の意見もあるにちがいない。
こう考えてくると、最近、わかい人たちのあいだで「ひとの役にたつ仕事がしたい」という声があるのもわかるような気がしてくる。最初に耳にしたときは、たいていの仕事は「ひとの役にたつ」でしょうと違和感をおぼえた。
しかし、社会的労働について考えなおしてみるなら、「ひとの役にたつ仕事がしたい」という主張が、なるほどと思えてくる。自分の生産した使用価値が、ことばの真の意味で、他の諸個人の生に貢献していると実感することは容易ではない。使用価値の生産以外の仕事でも、それはおなじだろう。
たしかに、わかい人たちに「ひとの役にたつ仕事がしたい」と思わせる理由は、ほかにもおおくあるだろう。官公庁・民間企業を問わず頻発する不正、下請けにたいする不当な圧力、かぞえあげればきりがない。たとえ他人の生に貢献しているとしても、自分が知らないうちに、その貢献を帳消しにする不正、あるいはそれにまさる悪事に加担させられるのではないか。そう考えることは、きわめて自然である。
そして、それらのことに匹敵するのが、くりかえしになるが、社会的労働の輪郭があいまいになっているという事態だろう。社会的分業のうちの労働が、社会的労働の規定をみたすことは、マルクスの時代にくらべて、比較にならないくらい困難になっている。このことも、わかい人たちの職業選択をむずかしくしていることのおおきな原因のようにおもわれる。
長大ないいわけのために、原稿そのものがながくなってしまった。次回はもっとしまっていくことにしたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.ne
〔study1359:251008〕