資本論を非経済学的に読む 14

著者: 山本耕一 やまもとこういち : 駿河台大学名誉教授
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1. 商品に再現された価値とあらたに生みだされた価値

ここで、もう一度、「売り」の困難にたちかえることにしよう。これは、構造的な問題であり、資本制について考えるための絶好のとっかかりになる。現代の資本制もまた、この困難につねに直面していることはいうまでもない。というよりも、とくに日本社会などでみられるように、深刻の度はあきらかに増大している。

社会的分業の編制が自然発生的であることは、すでにみたように、「売り」の困難の主要な原因のひとつである。ここでは、それ以外の原因を配視していこう。基本的なことがらをくりかえすことになるが、初心者としては、わかりきっていることの再確認が重要である。

生産過程で労働者がつくりだす商品は、価値であらわせば、ふたつの部分にわかれる。一方には、以前に生産された価値が再現されている。他方が、労働者によって生産過程でつけくわえられた価値、あらたに生みだされた価値の部分である。

商品に単純に再現されるのは不変資本に投下された価値である。これをもとめるには、原料、補助材料、そして労働手段(「用具や機械や工場建物や容器など」)の損耗部分、これら三つの価値を合算すればよい。

あらたに生みだされた価値は、これもふたつにわかれる。ひとつは、可変資本、いいかえるなら労賃を補填する部分であり、もうひとつは、資本家が対価なしに獲得する剰余価値である。まず、この配分がどのようにおこなわれるかをみておこう。

新価値の量が一定であるなら、あたりまえのことだが、労賃がたかければ、剰余価値はすくなくなる。なるべくおおくの剰余価値を手にしたい資本家は、労賃を可能なかぎり低い水準におさえこもうとする。

すでにみたように、商品交換の原則にしたがうなら、資本家は、「労働力の日価値」を支払わねばならず、そのことに同意しているはずである。そして、この商品交換の原則では、「労働力の日価値」、つまり労賃は、労働力商品の再生産に必要な価値ということになる。

そうはいっても、これだけで、労賃が一義的に決定されるわけではない。そのあたりに、すこしたちいってみよう。

2. 労働力商品の再生産

まず、労働者は、「年齢などによる自然的な損耗」はべつとして、「明日も今日とおなじに正常な状態にある力と健康と元気で労働することができなければならない。」(第1巻 248ページ)さらに、労働力商品そのものの再生産も必要である。労働者は、次世代の労働者を養育しなくてはならない。

労働者の「正常な状態」は、労働者の生活レベルと不可分であり、これは、社会のありかたや時代とともに変化する。労働者そのものの再生産に必要な価値は、これにくわえて、教育の水準・期間といった文化的要因にもつよく影響される。

地球規模でみれば、現在でも、マルクスの時代のイギリスの労働者とかわらぬ状況にいる人たちは、けっしてすくなくない。しかし、ここでは、対象を直接に見聞できる範囲にしぼり、日本の社会を検討してみよう。

第二次世界大戦後、経済成長とともに、労働者の生活レベルは向上し、それにつれて、労賃もたかくなったことはたしかである。労働者の「正常な状態」も改善され、それは、たとえば体格や平均寿命の変化にもみてとれる。

それでは、戦後の日本社会では、労賃は、労働力商品の正常な再生産が可能な水準で推移してきたのかといえば、こたえは、あきらかに否である。現在の日本社会は、次世代の労働者の育成に完全に失敗している。

いわゆる少子化の傾向が喧伝されるようになってひさしい。あまりに長期にわたるため、現在では、その原因も錯綜しわかりにくくなっている。

しかしながら、はやい時期から、“子どもの教育費の負担の重さ”は指摘されつづけてきた。昨今では、“子どもはぜいたく品”ということばまで流通するにいたっている。

現在のところ、次世代の労働力の育成の主要な担い手は、各家庭であるが、その育成の負担が、すくなからぬ家庭にとって、過重になっているのである。少子化は、その結果にほかならない。

すでにみたように、マルクスは、「同等の権利と権利のあいだでは、力がことを決する」と指摘している。『資本論』では、労働者の権利と資本家の権利は、「労働日」のながさ、労働時間をめぐって衝突している。これにたいし、たとえば現在の日本では、どちらかといえば、「労働力の価値」、つまり労賃のおおきさが対立の焦点になっている。

そうはいっても、労賃そのものをめぐる対立は、けっして目あたらしいわけではない。資本制が誕生して以降、労働の現場で生産された新価値の配分をめぐって、労働者と資本は、つねに対立関係にあった。この関係のうちでも、つねに「力」がことを決してきたのである。

戦後の日本では、ある時期から、資本の力が労働者のそれを完全に圧倒するようになった。現在では、まるで対立関係そのものがないかのような外観を呈している。その結果、“ぜいたく品”ということばを聞いても、抵抗感をおぼえないほどに、賃金はひくい水準に停滞してきたのである。

3. 資本制の存続の危機

 とりあえず、「売り」の困難にもどるなら、長期間にわたる日本の低賃金は、いうまでもなく、この困難を増幅する。そればかりではない。低水準にとどまりつづける賃金は、人口減少までもまねくにいたっている。

日本社会をそれだけでとりあげてみれば、資本制は、このままでは存続していくことができない。資本制は、みずからの再生産に完全に失敗している。

じつは、『資本論』のうちは、これと類似した危機についての記述が、第1巻第3編第8章「労働日」にみられる。それによれば、「労働力の無際限な搾取への資本の衝動」は、労働時間をはじめとする労働条件のはてしなく劣悪化させ、「国民の生命力の根源をおかす」にいたった。そのことの端的にしめすのが、「ドイツやフランスでの兵士の身長低下」(311ページ)である。

ちなみに、そこに付されている注では、フランスでは「平均して半数以上が身長の不足と虚弱のために不合格」、プロイセンでは、「被徴収者1000人につき716 人が兵役に不合格」との報告が記載されている。

「人口減少」についての言及もある。「歴史的にいえば、やっと昨日はじまったばかりの資本制的生産」は、きわめて迅速に、深部にいたるまで、「人民の生活根源をとらえてきた。」その結果として予想される「人類の将来の退廃や、結局どうしてもとめられない人口減少」は、資本の「実際の運動を決定」せずにはおかない。(第1巻 285ページ)

資本の運動がたちゆかなくなる日が、いつかはくるかもしれない。(そんな日は永遠にこないとおもっている人間のほうが圧倒的な多数派だろうが。)しかし、それは、いまではない。これが、資本家の願望である。「だれもがのぞんでいるのは、自分が黄金の雨をうけとめて、安全な場所に運んでから、雷が隣人の頭におちるということである。われ亡きあとに洪水よきたれ! これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。」(同上)

『資本論』第1巻のうちでも屈指の名文といってよい。資本家のふるまいの奥底にあるものが、みごとにえぐりだされている。

マルクスの時代のイギリスで、資本のこの動きに歯止めをかけたのは、「日々に脅威をましてふくれあがる労働運動」であり、「工場法」による「労働日の強制的制限」であった。(253ページ)

現代の日本では、労働時間の延長は、くりかえしになるが、搾取の強化のための一般的方法とはいえないかもしれない。『資本論』にあるような、体格の劣化はみられないし、平均寿命ものびている。

そうはいっても、現在でも、労働日のながさをめぐる対立はなくなってはいない。地球上のそこここで、それは重大な問題でありつづけている。

労働時間のながさが、低賃金としばしば密接に関連することもたしかである。賃金のひくさをおぎなうために、長時間の労働をよぎなくされるというのは、もっともありふれた資本制的な光景である。

日本社会でも、これが看過できない問題であることはいうまでもない。2023年の過労死は、883件をかぞえる。

すべてがその直接の原因を法外な労働時間にもとめることはできないのかもしれない。しかし、過労死予備軍の数字が、この数百倍にのぼるであろうことも容易に予測がつく。サービス残業に典型的にみられるような労働時間の延長への衝動が、資本制社会としての日本に内在していることもたしかである。

「どうしてもとめられない人口減少」というマルクスの予想は、すくなくとも現代の日本で、現実のものとなった。しかし、その主要な直接的原因は、マルクスが指摘する労働時間の無際限の延長ではなかった。(とはいえ「人口減少」は労働時間の延長と無関係ではない。)

労働時間の延長にかわって、搾取を強化する手段となりうるのは、くりかえしのべているように、賃金の抑制である。現代日本の資本は、長期にわたり、この手法をとりつづけてきている。

労働時間の延長は、生産される新価値の量を増大させることで、資本の取り分をふやす手法であり、賃金の抑制は、新価値のうちの労働者の取り分の縮小によって、資本の得分を増大させる。ともに、「労働力の無際限な搾取への資本の衝動」の具体的なあらわれであることにかわりはない。

現代の日本の「人口減少」をつくりだしたのは、まちがいなく、「資本の衝動」である。資本のやることは、マルクスの時代からなんらかわっていない。マルクスの目に映じた光景と現代の日本でくりひろげられている現実は地続きである。

4. 外国人労働者のうけいれ

現代の日本の資本は、労働人口の減少というみずからまねいた危機にどう対応するのか? 

いわゆる少子化対策は、まったく成果をあげていないにひとしい。かりに軌道にのることがあったとしても(あるとは思えないが)、労働力不足を解消するまでは、それから数十年かかるだろう。しろうとの目でニュースなどをみているかぎり、外国からの労働者のうけいれが、主要な方策のひとつのようである。

くりかえしのいいわけで気がひけるが、専門家ではない身としては、あまり踏みこみたくない領域ではある。しかし、だれの目にもあきらかな日本の労働力不足を論じるにあたって、避けては通れない話題だろう

これが、日本でどのように進行していくのかについては、なにかをいう立場にない。しかし、ヨーロッパやアメリカ合衆国で、外国人労働者の問題が、こみいった様相をみせていることはたしかなようである。

いわゆる移民の問題について報道されるとき、日本では人道主義的な側面が強調される。しかし、ことがらには裏の面がある。移民は、資本からすれば、安価な労働力商品にほかならない。

前回のアメリカ大統領選挙のときである。ニューヨークの移民労働者が、TV画面でむかって次のように発言していた。「安い賃金で働く自分たちのような移民がいなければ、ニューヨークの人たちもこまるだろう。」

報道するがわが、トランプの移民排斥政策にたいする反対のキャンペーンを意図していたのはまちがいない。しかし、トランプの支持者からみれば、この発言は、自分たちの政治的姿勢の正当性を裏づけるものにほかならない。安い労働力商品としての移民の流入は、自分たちからの仕事の剝奪に直結する。それを阻止するには、もしくは、うしなわれた職をとりもどすには、移民は排斥されなければならない。

日本での報道からうける印象ほどには、問題は単純ではない。日本の“識者”によって、人道主義のチャンピオンとしてかたられるヨーロッパは、資本の要請にこたえて、外国人労働者を積極的に受け容れてきた。このことを無視して、ヨーロッパの移民政策をかたることはできない。

ヨーロッパにとっての誤算は、“安価な労働力商品の予備軍”が、想定外の規模でおしよせ、おおきな混乱が生じたことだろう。EUの域内でも、安価な労働力商品の大移動がおこり、それがイギリスのEU離脱をまねくおおきな原因のひとつになった。

一時期、何度か報道されたヨーロッパでの“イスラム過激派”による“破壊活動”も、その背後には、移民労働者とヨーロッパ各国の住人(とくに高所得者)とのあいだの経済格差の問題があるといわれている。また、もとからのヨーロッパ住民のうちのある階層は、移民労働者と職をめぐって競合せざるをえない。両者のあいだにも、緊張関係があって当然だろう。

新聞の一面をながめるだけでも、移民にめぐって、ヨーロッパでの風向きがだいぶかわってきたことがわかる。最近しきりにとりあげられたドイツ首相の発言などは、あまりに無内容かつ低次元だが、それだけにヨーロッパがかかえる問題の根深さをはっきりと映し出しているともいえる。いずれにしても、この問題について、人道主義的観点からのみ論じるなら、ことの本質を見そこなう結果にしかならないことはたしかであろう。

日本の社会では、技能実習生の賃金や待遇のひどさがときたま報じられることはあるが、外国人労働者が日本人の就労機会をうばっているという話はきかない。もっとも、外国人労働者しかいない建築現場というのはよくみる。以前から外国人労働者がおおかったが、この業界での人手不足が一段とはげしくなっているということだろう。

また、今後は外国人留学生と日本人大学生が就職活動で競合し、日本人大学生がおくれをとるというような事態もふえてくるだろう。そうなれば、例によって、SNS上で、荒唐無稽でうすきみわるい排外主義的言辞がとびかいそうである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1378:251216〕