- ふたたび「社会的労働」と「孤立的労働」について
資本制のもとでも、すべての労働が「社会的労働」というかたちをとるわけではない。まず、第1巻第3篇第5章の「労働過程論」における有名な労働の定義をなぞっておこう。
「労働は、第一に、人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は、自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして、かれ自身ひとつの自然力として相対する。かれは、自然素材を、かれ自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、かれの肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手をうごかす。」(第1巻 192ページ)
われわれの周囲でみれば、たとえば、「家庭菜園」での活動は、たしかに「自然素材」の「生活で使用される形態」での獲得である。しかし、商品生産ではない。その成果は、おもに家庭で消費され、その一部が、隣近所、あるいは親戚知人にくばられるくらいである。消費のありようでみるかぎり、資本制以前の「孤立的労働」と資本制社会での「家庭菜園での農作業」には、それほどの差はない。また、労働の担い手の面でも、両者のあいだには一定の類似性があるといってよい。資本制のもとでも、すべての労働が明確に「社会的労働」と規定されるわけではない。
その一方で、しかし、「孤立的労働」と「家庭菜園農業」とのあいだには、はっきりとした差異がある。「家庭菜園での農作業」に必要な生産手段は、基本的に「商品」である。種苗をはじめとして、農機具や肥料にいたるまで、すべて「商品」として購入されなくてはならない。これは、趣味の農業であろうが、職業的営農であろうが、条件におおきなかわりはない。家庭菜園的農業は、たしかに「社会的労働」ではない。しかし、それは、社会的分業を前提として、はじめて成立しうる活動なのである。
さらに、こまかいことをいうなら、家庭菜園で栽培された野菜果物の量は、商品として購入される野菜果物の数量に影響をおよぼすだろうし、それが、商品の野菜果物の価格を左右するかもしれない(あくまでも理屈のうえでのはなしだが)。つまり、家庭菜園での労働は、商品生産でこそないが、社会的分業のシステムにくみこまれた活動なのである。現代のこの社会にあっては、どのような場面での活動であれ、資本制の網の目をのがれることは、不可能ではないにしても、相当に困難であることはまちがいない。
農業にかんしていえば、とりわけ種苗——最重要の生産手段——の商品化によって、資本は、この部門をみずからの完全な支配下においている。この事態にまつわるいくつかのことがらについて、あらためて考えてみよう。
- 「種苗」の商品化をめぐって
種苗が商品であることが、マルクスの時代にどれほど一般的であったかわからないが、マルクスにとって、農業での「種子」の調達の一般的方法は、その年の収穫物の一部を翌年に種子として使用するというパターンであるように思われる。それでは、現在のように、「種子」は基本的に「種苗会社」によって提供されるという事態は、マルクスの視点からするとどのように評価されるであろうか?
農業生産のこの細分化が、資本制のもとでの分業の発達の結果であることはまちがいない。そして、資本制がもたらしたものについて、マルクスがどう評価するかははっきりしている。資本制が肯定的に評価されるのは、資本制社会の次に到来するはずの社会の基礎を形成するかぎりにおいてである。
その社会は、よくしられているように、第3巻の48章で、「真の自由の国」と表現されている(828ページ)。そこでは「自己目的としてみとめられる人間の力の発展」が可能になるというのが、マルクスの主張である。
「自由の国」が成立するための条件のひとつは、高度に発達した生産力である。(ロシアの共同体をめぐるマルクス・エンゲルスの議論を見るかぎり、「自由の国」を樹立してから生産力を発展させるという経路が不可能とはいいきれない。とはいえ、それは想像をこえた困難な道になりそうである。)資本制の歴史的な存在意義のひとつは、この高度に発達した生産力を実現したことにある。
農業部門での「種苗」の開発・栽培の専門化・独立化が、この部門での生産力の高度化をもたらすことはいうまでもない。たしかに、農産物の生産者が、農耕をおこないながら、「種苗」を改良・開発していくことには、それなりのメリットがあるだろう。しかし、成果をより迅速かつ着実にあげるには、この開発・改良に特化した作業のほうが適していることはまちがいない。
品種の改良、あるいは新品種の開発によって収穫量が増大するなら、それは農業の生産性の向上に貢献することになる。(収穫量の増大だけが品種の改良や新品種の開発の目標ではないのはいうまでもない。)さらに、「種苗」の栽培の独立化は、農業生産者を「種苗」の確保・管理から解放することになる。これもまた、間接的に農業の生産性の向上に貢献することになるかもしれない。いずれにせよ、資本制のつぎにくるはずの経済システムにあっても、「種苗」の研究開発部門の独立という体制が継続することは確実である。
それでは、この「種苗」の開発・栽培の専門化・独立化は、資本制でなければなしえないかったのか? そうであるなら、これは、未来社会(かりに共産主義社会とよんでおこう)にとって、資本制からの正の遺産であることになる。
現実には、「種苗」開発部門の独立化を軌道にのせたのは資本制である。しかし、すこし想像力をはたらかせて、つぎのように考えても、さほど見当違いではあるまい。つまり、ある程度まで社会的分業が発展し科学技術が進展するなら、農業部門での「種苗」の研究・開発が独立化することは、さほどむずかしくはない。いまから一世紀まえに人類が資本制社会から脱却していたとしても、このことについて、事態はほぼおなじように進行しただろう。(旧ソ連圏に象徴される体制については、能力にあまるのでふれないでおく。)資本制でなければ、収穫量のおおきい小麦の種子の開発は不可能だったとかんがえるべき理由はなにもない。
すくなくとも現時点では、むしろ、資本制下の企業が「種苗」の研究・開発をおこなうことの弊害のほうがおおきいだろう。そもそも企業は、たとえば食糧難を多少でも緩和しようとして小麦の新種の開発をおこなうわけではない。その目的は、あくまでも収益をあげることである。それが人類の必要にこたえるのは、収益性と両立するかぎりのことでしかない。
いいかえるなら、企業が、全人類的視点からみて肯定的に評価される業績をあげたとしても、それはあくまでも結果的にもたらされたものである。あるものが、どれほど人類の幸福に裨益するものであっても、採算のとれないもの(短期間のうちに収益にむすびつく見込みのないもの)には企業はふりむかない。
その一方で、みずからの収益を最大にするためには、企業は手段をえらばない。そのことを端的にしめしているのが、「緑の革命」であるが、これについては門外漢があれこれいうこともないだろう。マルクスは、資本制が農業を捕捉することで生じる致命的な欠陥をつぎのように指摘する。
「土地を、共同的永久的所有として、入れかわっていく人間世代の連鎖の手ばなすことのできない存在・再生産条件として、自覚的合理的にとりあつかうことにかわって、地力の搾取や乱費があらわれるのである。」(第3巻 820ページ)
抽象的ないいまわしだが、これがそのままあてはまる具体的事例は、いくらでもあげることができるだろう。
- 農産物の新品種の開発と資本制
『資本論』から離れすぎのきらいはあるが、もうすこし「種苗」の開発の周辺をうろうろしたい。
新品種の登録による「育成者」の「知的財産権」の保護という考えかたがある。新品種をつくるには、それなりの時間と費用がかかる。それにたいして相応の見返りがあたえられるのは、資本制のもとでは当然とみなされ、他者による新品種の使用には制限がかけられることになる。
しかしながら、視点をかえてみよう。新品種とはいえ、それはまったくの無からつくられたわけではない。たいていは、人類によって長期にわたり栽培され改良をくわえられてきた作物が、現時点であらためて改良され、「新品種」の誕生になるわけである。しかし、品種登録制度は、そういった歴史をあたかも無視するかのようである。「新品種」は、いってみれば、無からつくりだされた有としてあつかわれる。「育成者」は、あたかも創造者であるかのごとくに、「新品種」の独占的使用をみとめられるのである(たしかに年限にはあるが)。
歴史の無視・消去は、なにかを正当化するために資本制がもっとも頻繁につかう手口である。その実例は、枚挙にいとまがないが、これもまたその格好の例といえるだろう。未来社会にあっては、「新品種」の育成者の努力がどのようにむくわれるべきか、現時点では不明である。資本制的な発想に骨の髄までおかされた身では、想像することさえも困難である。しかし、わが身の不明を一般化するつもりはさらさらない。すでにのべたように、資本制が成立する以前から、人類は食物用植物の品種改良をおこなってきた。資本制的な報酬がなければ、品種改良が実践されないと考えるべき理由はなにもない。
さらにいえば、昨シーズンみかけた新種のブドウが、今シーズンは店頭から消えているというようなめまぐるしさの一方で、長期にわたって食生活をささえてきた在来の種があっさりと放棄される。現代生活の食卓は、それをかこむ人間の大部分がそれとは気づかぬうちに、まさに採算性に翻弄されつづけてきたといってよいだろう。
しかし、とりあえず食味をおいておくなら(食べるものがおいしくなるのはけっこうなことであるが)、品種の改良が、食生活をたとえば半世紀前とくらべて質的にどれほど改善したのか、相当にうたがわしい。いずれにしても、この部面では、未来の「自由の国」は、その前段階としての資本制を基本的に必要としてはいないといってよい。
- 「知的財産権」をめぐって
「品種登録」の基礎とされる「知的財産権」にもふれておこう。未来の「自由の国」とのかかわりでいえば、これはただの罪障でしかない。
よくしられたエピソードがある。アメリカの製薬会社が、熱帯雨林産のある植物をみずからの「知的財産権」の対象として登録した。その植物は、現地の人びとによってふるくから薬用にもちいられてきたものである。だが、アメリカの製薬会社のこの行為によって、現地の人びとは、その植物を自由に使用できなくなってしまった。
いうまでもないことだが、アメリカの製薬資本も、現地の人びとのふるくからの利用という事実がなければ、その植物の薬用効果を知ることができなかったはずである。これらの人びとが「知的財産権」を主張するというのであれば、まだしも納得がいく。しかし、かれらは、私的所有とはまったく無縁なかたちで、この薬草を使いつづけてきた。かれらにとって、アメリカ資本による自分たちの共有の富の略奪・私有化は、まさに青天の霹靂であったろう。
この略奪には、資本制のイデオロギー(ほとんど妄念といったほうがいいかもしれない)が凝縮されている。資本制の根基は、いうまでもなく生産手段の私的所有である。これこそが、資本制の生命線である。とはいえ、この所有形態は、これまたあらためて指摘するまでもなく、歴史のどの段階にも存在したというわけではない。(歴史のあらゆるところに「私有制」をみようとするあやしげな議論は、歴史学者や文化人類学者などによるものもふくめて、いたるところで展開されてはいる。)
たとえば、家族が主要な生産単位であって、生産活動が家族の成員によっていとなまれるような社会なら、農耕用の器具は私有が一般的であろう。しかし、もっとも重要な生産手段である耕地の所有には、厳密な私有から完全な共有、あるいは国有、そして複数の所有権が重層的にかさなりあう形態まで、おおきな多様性がみとめられる。
しかしながら、資本制にとっては、そのような過去などなかったごとくであり、私有制は人間の本能であるかのようである。およそ生産手段とみなしうるものは、観念的といえるようなものまでふくめて、すべてだれかの私的所有権の対象であるし、またそうであらねばならないというのが、資本制のゆるがぬ信念である。だれのものでもない(もしくはだれのものでもある)というのは、資本にとってゆるしがたいことである。もしそのようなものがあるなら、ただちにだれかが、みずからの私的所有権の支配下にいれなければならない。資本は、生産手段(この場合は金もうけの手段といったほうがよほどぴったりする)にかんして、私的所有権の空白をなによりも嫌悪するのである。
こうして、熱帯雨林の植物という生産手段(労働対象)も、資本がその存在を把捉すれば、ただちに私的所有の対象とされる。そして、現行の法制度は、まさしく資本制の上部構造として、資本制の信念(妄念)を正当化するための手だてをつくす。「知的財産権」は、そうした作為がゆきついた袋小路のひとつにほかならない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1335:241229〕