資本論を非経済学的に読む 4

著者: 山本耕一 やまもとこういち : 駿河台大学名誉教授
タグ: ,
  1. 生産過程における資本家の関心

「不変資本」と「可変資本」についてのマルクスの議論をおいかけるのに、だいぶてまどってしまった。ここであらためて、前回かかげた課題を確認しておこう。

資本家は、なぜ「固定資本」と「流動資本」の区別に固執するのか? すでにみたように、マルクスは、この区別が、搾取を完全にみえなくすることを指摘する。しかしながら、資本家をうながして「固定資本」と「流動資本」に固執させる理由が、これとはべつにもうひとつあり、これの検討が当面する課題であった。

前回での議論であきらかなように、「不変資本」と「可変資本」の区別が重要になるのは、生産過程に着目するときである。これにたいし、「流動資本」と「固定資本」は、もっぱら流通過程にかかわる区別である。このふたつの過程にたいして資本家がいだく関心は、きわめて異なる。まず生産過程にたいする関心からみていこう。

生産過程は、剰余価値が生産される現場であり、この過程のスムーズな進行は資本家にとって重大な関心事であらざるをえない。すでにみた「生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段」の「合目的的な消費」は、そうしたスムーズな進行のための必須の条件である。この「合目的的な消費」の実現のために、資本家は、生産の現場をみずからの統制のもとにおく(すくなくとも統制しようとする)。

かれは、生産の現場で、労働者と生産手段を適正に配置し、生産活動になんらの支障も生じないよう配慮する。そればかりではない。労働時間も、資本家にとって、きわめて重要な関心事である。これは『資本論』が重要なテーマとしてとりあげている論題でもあり、迂回路にはいりこむことになるが、すこしたちどまって検討しておこう。

2. 資本の労働時間の延長への志向

くりかえし確認しておけば、資本家は、「労働力の日価値を支払った」のだから「一日の労働力の使用、一日じゅうの労働」は自分のものだと主張する。

問題は、しかし、「一日」である。その長さは自明ではない。24時間が上限であることはいうまでもないし、常識的に考えて、人間に24時間はたらきつづけるよう要求することもできない。しかし、資本家は、労働時間をかぎりなく上限にちかいところまで延長しようとする。

マルクスが第1巻第3編第8章「労働日」であげている最長の例は18時間である。この章では、資本家が労働時間を可能なかぎり上限にちかづけようとするあれこれの術策が、これでもかと列挙される。そのあまりのひどさに、正直なところ、読んでいると怒りを通りこして気分がわるくなる。

ここで想いおこされるのは、昨今の運輸・交通労働の法的規制である。規制される以前のこの部門での無軌道な労働の実態が、マルクスの叙述とどこまで二重写しできるのか即断はひかえたい。人手不足という要因も、たしかに考慮にいれる必要があるだろう。バスやタクシーの運転手要員の募集広告の内容を一瞥すると、その待遇・条件のよさにはおどろかされる。募集するがわの切迫感がつたわってくる。

しかし、思うに、法的規制の実施のまえに、この待遇・条件の提示がおこなわれてしかるべきなのである。理由はどうであれ、外部からの強制がないかぎり、資本家は、際限のない労働時間の延長を志向する。運輸・交通部門で起きていることは、その格好の例といえる。

かまびすしく喧伝されたままで、なんら抜本的解決をみていない「サービス残業」にいたっては、そのまま『資本論』の叙述のうちにいれることがでるだろう。ちがいは、19世紀のイギリス資本のほうが、やり口があけっぴろげだということである。そのぶん、陰湿さという点では、「サービス残業」のほうが、はるかにうえをいくといってよい。いずれにしても、あらゆる手だてをつかって労働時間を延長しようとする資本の志向は、19世紀のイギリスでも21世紀の日本でも、なんらかわりはないことはたしかである。

  1. 労働者の抵抗

マルクスが描いている労働者は、21世紀の日本の労働者ほど従順ではない。唯々諾々と資本家の言いなりになりはしない。かれらは、「労働力の日価値を払った」という資本家にたいし、つぎのように主張する。引用が長くなるが、ここは、『資本論』第1巻のなかでも、第一級の重要性をもつ個所のひとつであり、マルクス自身の文章でみておくのが適当だろう。

「ぼくの一日の労働力の使用はきみのものだ。しかし、ぼくの労働力の毎日の販売価格によって、ぼくは、毎日労働力を再生産し、したがって、くりかえしそれを売ることができなければならない。年齢などによる自然的な損耗はべつとして、ぼくは、明日も今日とおなじに、正常な状態にある力と健康と元気とで労働することができなければならない。(中略)ぼくは、毎日、ぼくの労働力を、ただその正常な持続と健全な発達にさしつかえないだけ流動させ、運動、労働に転換することにしよう。労働日の法外な延長によって、きみは、一日のうちに、ぼくが三日かかって回復できるよりもおおきい量のぼくの労働力を流動させることもできる。こうして、きみが労働としてうるだけのものを、ぼくは労働実体でうしなうのだ。ぼくの労働力利用とその強奪とは、まったくべつのことだ。(中略)きみは、三日分の労働力を消費するのに、ぼくには一日分を支払うのだ。これは、われわれの契約にも商品交換の法則にも反している。」(第1巻 248ページ)

「商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は、したがって剰余労働の限界も、でてこないのである。資本家が、労働日をできるだけ延長して、できれば一労働日を二労働日にでもしようとするとき、かれは、買い手としての自分の権利を主張するのである。他方、売られた商品の独自な性質には、買い手によるそれの消費にたいする制限がふくまれているのであって、労働者が、労働日を一定の長さに制限しようとするとき、かれは、売り手としての自分の権利を主張するのである。だから、ここでは、ひとつの二律背反が生ずるのである。つまり、どちらも、ひとしく、商品交換の法則によって保証されている権利対権利である。同等の権利と権利のあいだでは、力がことを決する。」(第1249ページ)

この場合、「力」が行使されるのは、直接には「標準労働日」をめぐってである。しかしながら、労働問題は、なんであれ権利と権利の衝突なのだから、「ことを決する」のは基本的に「力」である。ひるがえって、現在の日本の労働者がどれほどの「力」を保持しているのか、これはまあ部外者がうんぬんすべきことではないだろう。

  1. 資本家の「指揮」

いずれにしても、生産の現場は、「権利対権利」の場である。したがって、たとえ「標準労働日」が規定されていたとしても、資本家は、自分の立場から見て、労働時間が一秒たりとも空費されることのないよう監督をおこたらない。さらに、できることなら、「標準労働日」を形骸化しようとするだろう。

こうした労働の時間の管理(しばしば抑圧的な性格をおびる)、そして労働者と生産手段の適正な配置、あるいは「生産手段」の「合目的的な消費」といったことがらは、生産過程にかかわり、したがって、資本家が、みずからの指揮によって、直接にコントロールすることができる。この指揮にかんして、マルクスがおこなっている重要な指摘をつけくわえておこう。

「資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属するひとつの特別な機能であるだけではなく、同時にまた、ひとつの社会的労働過程の搾取の機能でもあり、したがって、搾取者とその搾取材料との不可避的な敵対によって、必然的にされているのである。」(第1巻 350 ページ)

「資本家の指揮」の必要性について、「搾取」にかかわる後半部分は、しごく当然な内容の記述といえる。注目すべきは前半部分である。そこから読みとれるのは、「指揮」にたいするいわば肯定的な評価である。「指揮」は、資本制の終焉とともに単純に消え去さりはせず、おそらく資本制以後の未来社会においても存続していく。それは、「指揮」が必要なのは、「搾取」のためばかりではないからである。「労働過程」が「社会的労働過程」という形態をもつことも、「指揮」を不可欠にする。マルクス自身のことばで確認しておこう。

「すべての比較的大規模な直接に社会的または共同的な労働は、多かれ少なかれ、ひとつの指図を必要とするのであって、これによって、個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とはちがった生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。」(同上)

つまり、労働過程が社会的であること、いいかえるなら、そこでいとなまれるのが社会的労働であることが、「指揮」の存在を必然的にするのである。社会的労働という概念については、すでにこの連載の第1回で、ある程度くわしくのべたのでくりかえさない。また、この場合の「社会的」の規模が、「社会全体」ではなく、小さなそれであることについても、おなじあつかいでいいだろう。

  1. 資本家の「指揮」の二重性

資本家の「指揮」は、したがって、二面的な性格をもつことになる。マルクスのことばで確認しておこう。

「それゆえ、資本家の指揮は、内容からみれば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが、一面では、生産物の生産のための社会的な労働過程であり、他面では、資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのである。」(351ページ)

この文章を読むとき、資本制の現実とむきあうマルクスの関心について、あらためて考えさせられる。マルクスが意図するのが、なによりもまず、資本制の根底的な批判であることはいうまでもない。

資本制とそれを擁護するブルジョア経済学の根底的批判こそが、「経済学批判」としての『資本論』がめざすものだろう。しかしながら、マルクスの批判は、対象の攻撃・否定をもっぱらとする単純な批判ではない。以下で、それを簡単にみておくことにしたい。

歴史の発展段階という観点からすれば、資本制には、未来社会の基礎を構築するという側面がある。マルクスは、資本制のうちのなにが未来社会の基盤となりうるのか、未来社会がなにを資本制から継承すべきかについても、一貫してつよい関心をよせる。

未来社会にあっても、労働は社会的労働であり、したがって労働過程は社会的労働過程であらざるをえない。社会的労働・社会的労働過程というかたちそのものは、資本制から未来社会にひきつがれていくはずである。

このようにみるなら、マルクスの資本制を見る目は、いってみれば複眼的である。資本制を批判するまなざしは、そのまま、資本制のむこうにあるはずの未来社会を構想するまなざしでもある。その視線が、資本制がもつ「二重性」の解析を可能にしているのである。『資本論』を読むにあたっては、つねにこのことを念頭においておく必要がある。

社会的労働過程というかたちの労働過程が、資本制の社会と未来社会に共通であることについては、確認しておかなければならないことが、まだいくつかのこっている。しかし、これ以上のおつきあいをお願いするのもどうかと思われる。それらについては、次回ということにしたい。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1345:250216〕