資本論を非経済学的に読む 5

著者: 山本耕一 やまもとこういち : 駿河台大学名誉教授
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  1. 社会的労働過程

前回の議論で積み残したことがらをかたづけておこう。

最初に確認しなければならないのは、社会的労働過程における「資本の指揮」の二面性についてである。資本制に固有の「搾取」にかかわる側面と未来社会にひきつがれるべき側面は、どのように区別されるべきなのか?

たとえば、「労働時間の管理」は前者であり、「人員の配置や生産手段の合理的消費」は後者というようなふりわけは、単純にすぎるだろう。

「人員配置」や「生産手段の消費」にかんして、資本家が合理的であるのは、もっぱら価値増殖(搾取)のためである。そうした資本家的な合理性は、むろん未来社会にひきつがれるべき合理性と単純には同一視できない。このふたつの合理性は、資本制的な労働過程のうちで、いってみれば、ないまぜになっている。両者を明確に分離するのは、それほど容易ではない。

「労働時間の管理」についてもおなじことがいえる。資本家的管理のなかに、あるいは、普遍的と評価できるような合理性が見つかる可能性もないことはないだろう。現在の労働過程でおこなわれている資本制的な「指揮」のうち、未来社会に継承されるべき要素がなにかは、つまるところ、実際の具体的事例にそくして慎重に決定するほかはない。マルクスがおしえてくれるのは、あくまで基礎となる原則である。そこに、具体的な処方箋まで書かれていると考えるなら、それはマルクスにたいする甘えでしかない。

マルクス研究の歴史をふりかえるなら、「社会的労働過程」の「指揮」にまつわることがらとして、もうひとつ検討しておきたいことがある。あれこれ考えるなら、現状では、あるいは以下の議論はまったく無用という気もする。それでも、マルクスの考えかたの基本を確認するうえで、なにがしか役にたたないこともないとおもわれるので、あえてふれておこう。

  1. 「疎外された社会的労働過程」?

「疎外論か物象化論か」というのは、1970年代のマルクス研究で、ひとしきり論じられたテーマのひとつである。ここで、そのテーマを本格的とりあげるつもりはないし、まして、どちらか一方に軍配をあげようなどとは考えていない。(当方が廣松渉の影響下にあることは断っておかなくてはいけない。)目的は、あくまでも『資本論』のマルクスの論理の再確認である。

「疎外論」という発想にたつなら、「資本の指揮」のもとにある「社会的労働過程」は「疎外された社会的労働過程」であるとの了解がなりたつ。「資本家の指揮」についても、社会的労働過程の「疎外された指揮」とみなすことが可能だろう。しかし問題は、「疎外」ということの理解である。

「疎外」はむずかしい概念である。そもそも、マルクスの『経済学哲学草稿』の「疎外」が、おせじにもわかりやすいとはいえない。くわえて、「疎外」がしきりに論じられていたころの記憶をたぐるなら、この概念のつかわれかたには相当な幅があったという事実がある。あくまでも個人的な見解だが、「疎外」ということばが、かえって内容を理解しにくくしている感じたことも一度や二度ではない。

ここでは、おおざっぱに二つの類型をとりあげ、それぞれにそくして「疎外された社会的労働過程」についてみてみよう。

最初に、「疎外」のもともとの発想にちかいといえる使用法をとりあげ、これを「社会的労働過程」に適用してみることにする。まず、資本制以前的な「社会的労働過程」があり、これが第一段階である。資本制によって、この「過程」が疎外され、「疎外された社会的労働過程」が出現する。これが第二段階である。この疎外をとりのぞくことで成立するのが第三段階であり、それは、しばしば「本来の」あるいは「あるべき」という形容語がつけられて「本来のあるべき社会的労働過程」と表現される。

この使用法には、たいてい、「疎外からの回復」といういいかたがともなう。第三段階は、第一段階の復活とみなされる。ただし、単純な復活ではなく「高次での」復活とされる。なにをもって「高次」とするかは、それほど明瞭ではないが、ニュアンスとしては、未来社会(共産主義社会)にふさわしいということが含意されている。

このような理解で問題になるのは、第一段階である。資本制以前の「社会的労働過程」の典型の具体的形態は協業であろう。これ自体、近代以前の社会では、そう多くはないだろう。大規模なものとなれば、例外に近いとみてよい。さらに、そうした協業での「指揮」が、マルクスのいう「オーケストラの指揮」と同一視できるのか?

「オーケストラの指揮」であれば、すでにみたように、「すべての比較的に大規模な社会的または共同的な労働」に不可欠であり、そこには服従の強制という要素はない。一方、視界を階級社会にかぎるなら、そこでの社会的労働の指揮は、原則として、他者に服従をしいる権力の性格をおびることになる。資本制のもとでの社会的労働については、いうまでもないだろう。

「オーケストラの指揮」しか必要としないような協業は、いずれにしても、資本制以前の社会にあっても、小規模でごくまれにしか実在しないだろう。それをマルクスのいう「比較的に大規模」な社会的労働と同日に論じることはできない。

こうみてくるなら、第一段階の「疎外されていない社会的労働過程」を同定することの困難が浮き彫りにされる。資本制以前であっても、階級的な支配-服従の関係をふくむものは、当然のこととして除外される。また、かりにそのような「疎外されていない社会的労働過程」をさがしあてたとしても、それは、規模という点で、資本制の「社会的労働過程」とは隔絶しているだろう。そして、「社会的労働過程」の規模がちがえば、そこでの指揮のありかたも、ちがったものになるはずである。

こうしてみるなら、第一段階が疎外されて第二段階が成立すると考えるには、両者の相違がおおきすぎる。未来社会の「社会的労働過程」——資本制のそれと同等の規模をもつはずである——とそこにおける指揮が、第一段階の復活とみることも、当然のことながら無理である。

これは、「社会的労働過程」のみならず、三つの段階を設定する疎外論をなにかに適用するときに、一般的にみとめられる難点である。未来社会の「社会的労働過程」は、資本制的なそれを否定することで成立する。それはまちがいない。しかし、それ以上のことをいうのは、そうたやすくはない。

  1. 「社会的労働過程」の「本来あるべきすがた」?

つぎに、「疎外された労働過程」について想定される二番目の考えかたをみてみよう。この考えかたでは、第一段階は設定されず、したがって、それにともなう困難は除去される。この場合、資本制のもとでは、「社会的労働過程」は疎外されており、未来社会では、その疎外が克服されて、「本来のあるべきすがた」になるという図式がでてくることになる。

ここでの問題点は、未来社会の「社会的労働過程」を「本来のあるべきすがた」とすることにある。かりに、それが「本来のあるべきすがた」であるとしても、そうした評価が可能になるのは、「疎外されていない労働過程」が実現されたのちである。

それが実現されることがなければ、支配-服従関係をともなう「労働過程」が、現実として、どこまでもわれわれのまえにたちふさがる。そのかぎり、資本は、そうした「社会的労働過程」のありかたが自然であり、「本来のあるべきすがた」だと主張することができるだろう。資本のそのような言辞は、現実が変革されないかぎり、圧倒的な説得力をもちつづける。

現実の変革によってあたらしい「社会的労働過程」が成立し、それが「本来のあるべきすがた」とされることで、かつての「労働過程」の「疎外」がうきぼりになる。いってみれば、「疎外」を「疎外」とみる視点が現実性をもつのは、「疎外」が克服されてからなのである。

さらにいえば、資本制が打倒されれば、それで自動的に「社会的労働過程」が「本来のあるべきすがた」になるという保証はない。資本制が終焉したのち、あるべき「社会的労働過程」を実現するには、おそらく、みじかくはない試行錯誤を必要とする。

資本制のただなかで、あるべき社会的労働過程を具体的に構想するのは、おそらく不可能である。さらに、そのような社会的労働過程が、ひとたび実現されたなら、それはそのまま自然に維持されていくと考えるのも、あまりに楽観的だろう。

4. 資本制の「墓掘り人」

いうまでもなく、現状が「疎外されている」と規定しても、それによって、「疎外」の克服が必然的であることにはならない。「疎外」の克服は、ひとえに、「疎外」のうちに生きることを強制されている諸個人の実践的な営為にかかっている。

マルクスが、資本制の終焉を確信していたことに疑問の余地はない。そうなれば、そこにおける「疎外」も克服されることになるだろう。しかし、それは、歴史のながれのなかで自動的に進行する事態ではない。マルクスにとって(いうまでもなくエンゲルスにとっても)、歴史をうごかすのが諸個人であるというのは、自明のことがらである。資本制を終焉させるのも、未来社会を構築するのも、諸個人の実践的営為である。

『共産党宣言』の有名な表現をつかうなら、資本制はたしかに自分の「墓堀り人」をうみだす。しかし、その「墓堀り人」たちが、実際に資本制をほうむる墓を掘らなければ、あたらしい社会が到来することはない。

『資本論』でいえば、第7編第24章第7節「資本制的蓄積の歴史的傾向」のうちで、おなじことがいわれている。資本制の存立をおびやかすのは、資本制がうみだした労働者階級である。「資本制的私有の最後をつげる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(第1巻 790ページ)

しかし、いくら機が熟しても、鐘はひとりでに鳴ったりはしない。あるいは、鐘は鳴っても、それで資本制が自動的に消滅するわけではない。収奪者を収奪しようと意図する諸個人の行為がなければ、資本制は存続しつづける。

いいかえるなら、ある歴史的使命をもった人びとの存在は、その歴史的使命が現実化される保証にはならない。資本は、あらゆる手だてをつかって、「墓掘り人」にその使命を自覚させないようつとめてきた。そして、これまでのところ、資本のそうした術策がおおきな成功をおさめていることは、あらためて指摘するまでもないだろう。

さらにいえば、鐘が時をつげているのに「墓掘り人」が動こうとしないなら、すくいようのない悲喜劇が展開される。いまわれわれが、地球上のいたるところで目にしているのは、そのような悲喜劇である。山師の不動産屋の大富豪大統領に熱狂する労働者というのは、まさしく現代を象徴する図といってよい。

いずれにしても、生産の現場での資本の指揮は、おおむね所期の目的の達成に成功している。歴史をふりかえるなら、労働者階級の力が強大な時期もあり、目的の達成がかならずしも容易だったわけではない。明確な失敗といえるケースも散見されはする。

しかし、生産過程そのものは、資本によって組織され、資本の直接的なコントロールのもとにある。資本が、生産過程でみずからの指揮を貫徹させることは、困難がともなうとはいえ、基本的に可能である。

これにたいし、流通過程は、資本家にとって、まったくちがった相貌を呈する。次回は、流通過程に目を転じることにしよう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1348:250314〕