- 構造的欠陥としての「売り」の困難
商品の貨幣にたいする「まことの愛」がなめらかにすすまないのはなぜか? ちょっと考えてみても、いろいろな解答がでてくる。まっさきに思いつくのは、恐慌だろう。しかし、これ以外にも、「売り」の困難についての記述は、『資本論』のそこここにみつけられる。
「まことの恋」にふれている個所では、次のように指摘されている。「分業体制のうちにそのばらばらな四肢〔membra disjeticta〕をしめしている社会的生産有機体の量的編制は、その質的な編制とおなじように、自然発生的で偶然的である。」(第1巻 122ページ)
おなじ個所でマルクスは、「独立した私的生産者」という表現をつかっている。これは資本家といいかえても、まったく不都合ははない。
専門家ではない身としては、わかりきったことも、ていねいに考えていくのが賢明だろう。まず、社会的分業の重要性について確認しておこう。これがなければ、われわれの生活が、かたときもたちゆかないというのは、身のまわりをみればすぐわかる。
しかし、マルクスにとって、社会的分業が重要なのは、すでにみたように、それが未来社会、つまり「真の自由の国」の基礎をつくりだすからである。社会的分業が発展して、生産力が向上すれば、「力の最小限の消費」で物質代謝をおこなうことができる。これは、労働にあてられる時間が最小限になるための条件にほかならない。
労働のための時間が減少すれば、それだけ、「自己目的としてみとめられる人間の力の発展」のための時間は増大する。「真の自由の国」を実現するうえで、「労働日の短縮こそは根本条件である。」(第3巻 828ページ)
また未来社会では、物質代謝のための活動、つまり生産活動のありかたも、根本的にかわることになる。それは、「自分たちの人間性にもっともふさわしくもっとも適合した条件のもとで」おこなわれる。(同上)
現代の資本制のもとでは、社会的分業とそこでの労働は、マルクスがえがく未来社会のそれとはまったくちがう相貌をみせる。おおきな相違のひとつは、私的生産者(資本家)が、まったく独立的に生産単位(企業)をつくることである。各生産単位のつながり、つまり社会的分業のネットワークは、あくまでも事後的に形成されるのでしかない。(未来社会での社会的分業の形成は、当然のことながら、自然発生的ではない。しかし、これ以上は、この問題にはふれないことにする。)
自然発生的にできあがった社会的分業のうちでは、なにが生産されるのか(質的編制)、それぞれの生産量がどれくらいなのか(量的編制)は、全面的に各生産単位にゆだねられている。つまり、全体でなにがどれだけ生産されるかは、マルクスのことばでいえば、「偶然的」である。
現代では、生産するがわは、たとえば、過去のデータやリサーチを駆使し、「売り」の困難を回避しようとこころみる。しかし、それでも、「偶然性」を完全に消去することは不可能である。
生産された商品が、それにみあう消費をみつけだせるか否かは、どうであれ、最終的には「偶然性」をまぬかれない。つまり、自然発生的な社会的分業の体系にとって、「売り」の困難は、その構造からでてくる欠陥なのである。
ある商品が、かりに今回は正価で完売したとしても、次回の出荷分がおなじ結果になるという保証はない。恐慌でなくても、「売り」の困難は資本制についてまわるというのが、マルクスの認識である。それでは、「売り」の困難によって、どのような事態が生じるのか、つぎにそれをみることにしたい。
2. 「売り」の困難と資源・エネルギーの濫費
商品が売れのこった場合どうなるのか? 単純に考えれば、おもな選択肢はふたつのようにおもえる。値引きで売りさばくのにも限度があるとなれば、最後は廃棄処分ということになろう。
「命がけの飛躍」と「まことの恋」のすぐ前の個所で、マルクスは、「リンネル織物業の生産条件が、われわれのリンネル織職の同意もなしに、かれの背後で激変した」と仮定し、その場合なにがおきるかを検討している。
ここでの議論をみるなら、マルクスがおもに念頭においているのは、値引き(値くずれ)による売却であるようにおもわれる。物質的生活の水準を考えるなら、19世紀のイギリス社会では、生産されたばかりの商品の廃棄処分は想像しにくい。
これにくらべれば、現代の日本社会では、廃棄処分はやりやすそうである。生産物が廃棄される理由としては、価格の維持、保管費用(倉庫代)の高さなど、いろいろなことがあげられる。たとえば、書籍の取次での返本の断裁処分は、いまでもおこなわれているらしい。(数量はだいぶ少なくなったことだろう。)
生産者(資本家)にとって、生産物の廃棄は損失そのものである。それの減少は、資本家にとって重要な関心事であらざるをえない。大量生産・大量消費が無条件によしとされた時代にくらべれば、生産物の廃棄量は、おそらく、おおきく減少しているだろう。しかしながら、生産物が商品となって、ひとたび消費者の手にわたったのちは、事情はまったくちがってくる。
消費者が手にした商品は、使用され、損耗し、やがては使用不能となる。これは、しばしば、あらたな需要につながる。この場合、購入から消耗までの期間がみじかければ、資本家にはそれだけ好都合である。逆に、その商品の長期にわたる使用は、「売り」の困難につながる。
なるべくはやい時期での再購入をうながす手法は、それこそ枚挙にいとまがない。流行の変遷の操作、モデルチェンジによる従来型の陳腐化などは、もっともわかりやすい例である。保証期間はみじかく、とりかえの部品はきわめて高価である。このため、故障したら修理より新品購入という説明も、店頭でよく聞かされる。
身のまわりのさまざまな物品の実際の耐用年数がどれほどなのかは、消費するがわにはわからない(知らされていないというべきだろう)。われわれは、おそらく、ほとんどの物品について、実際の耐用年数よりも短い期間で買いかえている。(そのように誘導されている。)そうすることで、資本家の「売り」の困難を緩和しているのである。
まだ使用可能なものを買いかえるのもまた廃棄である。生産物をたとえば価格維持のために廃棄するのは生産者である。これにたいし、つかわれた物品を廃棄するのは消費者である。しかし、いずれも廃棄であることに変わりはない。
耐用の期限がくる以前の物品の廃棄は、その物品の生産に使用された資源・エネルギーが浪費されることにほかならない。たしかに、未使用品の廃棄とある程度つかわれた物品の廃棄では、むだにされる資源・エネルギーの量はおおきくことなる。とはいえ、資源・エネルギーの浪費であることにかわりはない。資本制は、そのうちに、資源・エネルギーの濫費、すなわち環境破壊の必然性を内包しているのである。
この浪費をよびおこすのは、くりかえしになるが、「売り」の困難である。そして、この困難は、資本制システムの社会的分業が自然発生的であることからの帰結である。
すでにのべたように、『資本論』第1巻の「まことの恋」がでてくるの個所では、まだ「資本家」は登場していない。しかしながら、社会的分業にもとづく全面的な商品交換がおこなわれる社会の典型は、資本制社会にほかならない。『資本論』の叙述は、はやい段階で、環境問題を考えるための手がかりを呈示していることになる。
資本制は、いわば不可避的に環境問題をひきおこす。第2 回で引用した第3巻の記述は、土地所有と農業についてであり、ここでとりあげたことがらと直接には一致しない。しかしながら、基本的な構図は、おなじといってよい。
第3巻の当該箇所での表現をつかって、マルクス的視点からの環境問題の理解を整理するなら次のようになる。資本にとって、なによりも重要なのは、当面の利益の確保である。そのために、資本は、本来は人類が存在するための条件、その再生産の不可欠の条件であるものを「搾取」し「乱費」する。(第3巻 820ページ)
人類の将来が、現在の利益のために犠牲に供されるのである。地球の人口が加速度的に増大しているただなかで、現在しか視界にないこうした愚行が、いつまでつづけられていくのか?
3. 「社会的労働」の「むだな手間」への転化
ここでは、「売り」の困難が、「社会的労働」におよぼす影響をみてみよう。
最初に、社会的分業について、あらためて考えておこう。いまとりあげている第1 巻のこの個所では、作業場内分業がまだ本格的には登場していない。したがって、社会的分業そのものについて検討するには絶好の場面である。(作業場内分業は、第1巻の356ページ以下で、まずマニュファクチャ分業としてとりあげられる。)
発達した社会的分業のもとでは、個人(ここでの規定はただの「生産者」である)の「労働」は、すでにみたように、無数の諸個人の欲求をみたす。また、その個人のさまざまな欲求は、無数の他の諸個人の「労働」によって充足される。
こうして、「労働」とそれによる欲求の充足によって、諸個人のあいだに相互依存の体系がつくりだされる。諸個人の生は、この相互依存的なつながりにささえられている。くりかえしになるが、この社会的つながりがなければ、われわれの日常生活は、かたときもたちゆかない。
各人は、その「労働」をとおして、相互依存的な社会的関連の一端をにない、それぞれの生の維持に寄与しあう。このことが、まさしく、「労働」に社会的性格をあたえるのである。マルクスのいう「社会的労働」には、これまでみてきたのにくわえて、こうした意味もふくまれている。
作業場内分業は、この事態をみえにくくする。「労働」が細分化され、個人が独力で製品を完成することがなくなる。そうなれば、「労働」の当事者が、他の諸個人の欲求を充足しているという実感をもつのはむずかしい。しかし、第三者的にみれば、諸個人の相互依存的なかかわりという事態には、なんらかわりはない。
これに、さらに、搾取という要素がつけくわわっても同じである。各人は、「労働」をとおして、相互依存的に欲求を充足しあう。そうすることではじめて、各人の生の維持が可能になるのである。(当然のことながら、搾取者はこの相互依存のうちにはいない。搾取者は、一方的に依存している。あるいは、この相互依存が産出するたかい生産力に“寄生”しているといったほうがいい。)
この諸個人の相互依存的かかわりの体系そのものは、基本的には、未来社会にもひきつがれていくはずである。むろん、是正すべきことは、かずかぎりない。たとえば、いまある「労働」が、すべて、この体系に不可欠ということはない。資本制でなければ不必要となるような「労働」の認定は、そうはいっても、さほどたやすくはない。
さらに、資本制のもとで一般的な固定化された分業は、未来社会では廃止されるべきことをマルクス(エンゲルス)は強調する。固定化された分業は、階級の存在と不可分であり、これは当然だろう。
しかし、未来社会における社会的分業のありかたを構想するのは、きわめてむずかしい。各人が、日替わりでさまざまな仕事をわたり歩くというのは、およそ非現実的だろう。
また、すでに指摘したように、未来社会では不必要になる労働もすくなくあるまい。それでも、のこる労働の種類は、おびただしい数にのぼるだろう。それらすべてに、個人が、順次に従事していくというのも考えにくい。
そもそも、AIやロボットの本格的導入によって、生産の現場や事務的業務がどのように変化するか、専門外の身としてはまったく想像できない。ここでは、未来社会における固定化された分業の廃止というマルクス(エンゲルス)の原則を復唱するにとどめておきたい。
未来社会は、いまある社会的分業の体系をそのままひきつぐことはできない。それでも、こうした体系をつくりだしたこと自体は、ともあれ、資本制社会の未来社会にたいする貢献のひとつにかぞえられてよいだろう。
労働の社会的性格にもどろう。
資本制社会では、労働は、あくまでも結果的に「社会的」になるのである。例の「命がけの飛躍」および「まことの恋」の直前の個所で、マルクスが提出した仮定にたちかえろう。それは、「リンネル織物業の生産条件」が、突然に激変したというものであった。こうしたことは、いうまでもなく、現代のどの生産部門でもおこりうる。
この場合、「昨日までは、うたがいもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日はそうでなくなる。」いま市場にあるリンネルは、ちょっとまえに、「社会的に必要な労働時間」で生産された。しかし、いまでは、その一部は「余分に支出された労働時間」とみなされるのである。
日常のことばに、「むだな手間ひまかけて」というのがある。必要もない労力と時間をついやしたというのだから、否定的にしかつかわれない。「余分に支出された労働(時間)」は、まさに「むだな手間(ひま)」である。そして「むだな手間(ひま)」は、当然のこととして、むくわれることはない。
いまとりあげているリンネルの織物労働の一部が、最初から「むだな手間」だったわけではない。あくまでもリンネルの生産条件の変化の結果、そうなったのである。
しかし、それは、いまでは「むだな手間」となんらかわらず、したがって、それに対価が支払われることはない。その労働は、なされなかったのとおなじであり、本来もっていたはずの「社会的」という規定を実現することなく消滅するのである。
これについては、検討すべきことがらが、まだおおくのこっている。それらは、回をあらためてとりあげることにしたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1352:250505〕