賢治作品の魅力は「くり返し」と「二面性」 -川村光夫著『宮沢賢治の劇世界』を読む-

 宮沢賢治ブームである。昭和初期の東北冷害に際し賢治が農民たちに献身的に奉仕したことが、東日本大震災を機に改めて多くの人々の関心を引いているからだろう。それに応えて賢治に関する情報を発信しようと、賢治の出身地の岩手県花巻市は、今年度から市役所内に「賢治まちづくり課」を店開きしたほどだ。そんな折り、岩手県西和賀町に住む川村光夫さん(90歳)の『宮沢賢治の劇世界』を読んだ。賢治の作品が放つ新たな魅力について教えられたように思った。

 西和賀町は岩手・秋田県境に近い、奥羽山脈のまっただ中にある町で、東を見ても西を見ても山また山が迫ってくる山間地だ。湯田町と沢内村が合併してできた町だが、山林と原野が多く、東北でも有数の豪雪地帯として知られる。
 川村さんは湯田村(湯田町の前身)の農家の生まれ。県立工業学校を卒業して東京・深川の日立製作所深川工場に就職したが、召集され、陸軍兵器学校へ。その後、九州・小倉の警備隊に配属され、米軍機から投下された不発弾を処理したり、米軍上陸に備えてタコツボを掘っているうちに敗戦。郷里に帰り、家業の手伝いを始めた。
 そのかたわら、村づくりの一環として文化活動をはじめ、仲間と地域演劇集団「ぶどう座」を創設する。戦前の新劇運動のメッカといわれた築地小劇場が、ぶどうのマークをつけていたので、それにあやかろうというわけである。1950年のことだ。地域に根ざした「ぶどう座」のユニークな活動は、全国の演劇関係者ばかりでなく、外国からも注目される。
 川村さんはその後、湯田町役場のいくつかの課長を歴任するが、その一方で「ぶどう座」の主宰者、劇作・演出家も続け、町役場退職後もそのポストにある。

 宮沢賢治には、早くから親しみを感じていた。第一の理由は、賢治の生地(花巻)と自分の生地(湯田)が地続きだから。奥羽山脈をはさんで賢治の花巻は山脈の東斜面、川村さんの湯田はその西斜面にあり、両者は山脈をはさんで背中合わせなのである。
 第二の理由は、川村さんにとって賢治は「同時代を生きた人」だったから。賢治が37歳の生涯を閉じたのは川村さんが小学6年の時(1933年=昭和8年)だった。

 理由はまだある。川村さん自身が演劇への道を歩むにつれて、詩人・童話作家であった賢治が演劇にも関心を持っていたことを知ったからだ。生前の賢治は短い劇台本4種を残したにすぎないが、没後、劇作のためのメモ10種が発見された。また、賢治自らが教壇に立っていた花巻農学校では、生徒らを指導して自作劇を上演した。それに、賢治を師と仰いで訪ねてきた山形県の農民に、帰郷後は農村劇をやりなさいと励まし、演劇書を与えた。こうしたことから、賢治は演劇への関心が深かったと、川村さんはみる。

 昨年3月11日の大地震は川村さんにとって「驚き」だった。が、続いて起こった東電福島第1原発の事故のニュースを聞いた時、「驚き」は「恐ろしさ」に変わった。しかも、その恐ろしさは日を追って深刻さを増し、人々は恐怖から逃れようと懸命だった。川村さんは思った。「賢治は37歳で世を去る。迫り来る戦争を避けようと懸命だった。今度の事故は戦争と比べようもないが、不気味であり深刻。もう一度賢治を読んでみなければ」  こうしてまとまったのが『宮沢賢治の劇世界』だった。昨年10月のことだ。141ページ。賢治と賢治の作品についてこれまで発表してきた論考や、新たに書き下ろした論考、作家・井上ひさし氏との賢治をめぐる対談などが収められている。

 同書の中で、川村さんは書く。
 「稀有の才能の持ち主だった賢治が、この面(演劇)での才能を開花させることなく終わったことは、まことに残念である。だが残された作品を仔細に読んでゆくと、賢治の劇的世界がだんだん見えてくる。印象だけで言ってしまえば、賢治の全作品がそのまま華麗な劇世界といってもよい」
 「さまざまなキャラクターをもって登場する人物たち。それら一つひとつが、きわめて鮮明で、まさにドラマを担って登場するにふさわしい明快さと大きさを持っている。それらの交わす言葉は、そのまま劇中人物の台詞となるような、堅牢さ、的確さをもって鮮やかである。筋の展開も、その結末もまた極めて独創的であり、劇的である」

 川村さんによれば、賢治の作品の魅力の源泉の一つは、昔話の語りなどに出てくる「くり返し」という手法を、さまざまな形に変化させて使っていることだという。それが、劇的効果をあげているという。

 例えば、『注文の多い料理店』。登場人物はイギリスの兵隊のかたちをした2人の若い紳士。ぴかびかする鉄砲をかついで山へやってくる。疲れ果て、お腹も空いてくる。「何かたべたいなあ」と後ろを見ると、立派な西洋造りの家。「RESTAURANT山猫軒」の看板。「どなたもどうかお入りください」の文字。
 中に入ると、「注文はずゐぶん多いでせうがどうか一々こらへてください」とある。扉がいくつもあって2人がそれを次々と開けて入ってゆくと、その度に注文が書いてある。「こゝで髪をきちんとして、はきものゝ泥を落としてください」「鉄砲と弾丸はここへ置いてください」「眼鏡、財布、その他の金物類、ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」……その通りにして2人が進むと「壺のなかのクリームを顔や手足に塗ってください」「どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさんよくもみこんでください」「すぐたべられます」
 ここまできて、2人は「おやっ、これはおかしい」と気づくのだが、もうおそい。良く知られた名作なので結末をここで書くのは省くが、ここは山猫が仕掛けた罠、幻の料理店だったのだ。

 川村さんは書く。「この物語における『くり返し』の構造は、何枚もの扉をあけて進む、そのくり返しにある。……そのことで次への期待がふくらむ」

 『セロ弾きのゴーシュ』も良く知られた作品である。主人公は町の活動写真館でセロを弾くゴーシュ。仲間の中では一番下手で、楽長からはいつも叱られていた。それでも、ゴーシュは音楽をやめず、毎晩大きなセロを家まで運んで稽古を続ける。
 ある晩、来訪者があった。三毛猫だった。トマトを重そうに持っていて、「おみやげです。たべてください」という。見ると、ゴーシュの畑からもいできたもの。怒ってどなりつけると、猫はにやにや笑いながら「シューマンのトロイメライを弾いてごらんなさい。きいてあげますから」。腹を立てたゴーシュは嵐のような勢いで「印度の虎狩」という曲を弾く。猫は身体中から火花を出して驚き謝るが、ゴーシュはなお弾き続ける。
 次の晩にやってきたのはカッコウ。「外国へ行くので、ドレミファを教えて」という。ゴーシュは、カッコウはただ鳴いているだけで、鳴き方に違いはなかろう、と相手にしない。が、カッコウの熱意にほだされ、ゴーシュとカッコウはドレミファの合奏を始める。
 三日目の晩は、楽譜持参で「愉快な馬車屋」を演奏してくれという子狸がやってきた。さっそく、ゴーシュと子狸は合奏を始めたが、子狸が「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひく時はきたいに遅れるねぇ。なんだかぼくがつまづくやうになるよ」とぬかす。「さうかもしれない。このセロは悪いんだよ」と、悲しい顔をするゴーシュ。
 最後の晩の来訪者は、親子のネズミ。子ネズミの病気を治したい一心から、セロの中へ子ネズミを入れてくれという。ゴーシュはその通りにしてやり、ゴーゴーとセロを弾いてやる。セロの穴から出てきた子ネズミはすっかり元気を取り戻していた。
 活動写真館で行われた演奏会は無事終わる。聴衆はアンコールを求め、拍手は鳴りやまない。楽長はむりやりゴーシュを舞台に送り出す。

 川村さんは言う。「ここでの『くり返し』だが、それは言うまでもなく、小動物たちとゴーシュの心の交流のくり返しである。一つひとつの動物たちが、実に魅力的で意味深く、読む者をあきさせない」 
 さらに、『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』など3作品にみられる「くり返し」ついての論評で、川村さんはこうも言っている。「三作とも『くり返し』をくり返すことで、異空間に深く誘いこまれるようになっている」
 
 川村さんがあげる賢治作品の魅力のもう一つの源泉は「二面性をもつ表現方法」だ。
 賢治には『グスコーブドリの伝記』という童話がある。その舞台は、イーハトーブだが、川村さんによれば、イーハトーブは岩手という地名をエスペラント風に造語した賢治の言葉という。  
 川村さんは書く。「賢治はエスペラントという人造語を使うことで、未来社会を望む創作へと向かうこととなった。……賢治がイーハトーブという地名を口にする時、その底には岩手の経済的には貧しく社会的にはおくれた現実が沈んでいる。ドリームランドとしてイーハトーブの物語を描くとき、賢治は現実に縛られることなく自由となって飛翔することができた。こうして賢治の二面性をもつ物語が生まれ出たのである。人びとはそのことを知り心を癒し、希望とした現実から逃れようとしたのではない。なおも現実にせまろうとしたのである」

 非売品。が、川村さんは「在庫がある限り、送料を負担していただければお分けする」と話している。連絡先は「宮沢賢治の劇世界」刊行委員会(電話 0197-82-3087)

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