編集部注:長文のため(上)(下)2回に分載した
1)書評「孫崎享著「『日米開戦へのスパイ』東條英機とゾルゲ事件」「日米の権力者は「ゾルゲ事件」をいかに政治利用したか」 (日露歴史研究センター会報50号掲載論文)
評論家・槙野亮一は孫崎享著に対する批判と同時に、拙文「尾崎秀実は日本共産党員だった」所載の「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」について、「尾崎秀実の14日検挙」説はあり得ないとする批判を日露歴史研究センター会報、「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」50号に掲載した。
これについて筆者は非常に心外に思っている。この論文は「2017年8月に脱稿」と書いてある。筆者は白井久也会長とともに本会の創立者の一人であり、日露歴史研究センターの幹事でもある。幹事会に欠席したことはない。幹事会は同時に会報の編集会議も兼ねているが、拙文(上掲書)に対するこんな批判が会報50号に掲載されることは、これまで報告はなかった。
会報50号は2018年4月の発行である。ちょうど明治大学の前回の講演会(2018年4月21日)と重なって、講演録の作成に追われていたから会報を読んでいる余裕がなかった。
しかも会報は50号が終刊号だから反論のしようがない。
その最終号に突如として、2005年11月、尾崎・ゾルゲ墓参会で報告した拙文「尾崎秀実の10月15日検挙は検事局が作り上げた虚構である」掲載の、「尾崎秀実の14日逮捕説」に対して、1年も前の「2017年8月に脱稿」したと書かれている論文が掲載された。
これでは「闇討ち同然」ではないか。憤懣やるかたない思いだ。これは「尾崎秀実の逮捕」をめぐるゾルゲ事件関連のことだから、この講演会で採り上げて批判者に答えることは、講演会の趣旨ともかけ離れていないので、予定した「講演録」からは逸れるが、この問題にきちっと対応したいと思っている。
拙文は「ちきゅう座」に掲載された筆者の論文集から孫崎享(元外務省情報局長)氏が検索して、拙文の「尾崎秀実の14日逮捕説」から大きなヒントを得て、『日米開戦へのスパイ─東條英機とゾルゲ事件』(祥伝社、2017年7月刊)が出版された、という経緯を直接、著者孫崎享氏から筆者は聞いた。著作にもそのとおり書いてある。
従って筆者の尾崎秀実「14日逮捕説」が評論家・槙野亮一の指摘どおり、「14日説」は誤りで、従来の定説「15日説」が正しいとすれば、筆者は孫崎享氏にガセネタを掴ませたことになる。
評論家槙野亮一論文には「尾崎秀実の逮捕は10月15日ではなく14日?」という小見出しがついており、以下の通り拙文の「尾崎秀実の14日逮捕説」に対する反論が2頁にわたって書いている。
(尾崎秀実の14日検挙説は)、「渡部富哉が初めて主張し、著者孫崎はこれに依拠して近衛追い落としの歴史的背景を描き出している。本書の序文「はじめに」で、さっそくその問 題に触れ、第一章「近衛内閣瓦解とゾルゲ事件」(58~9頁)、第3章「つながる糸」(219~230頁)で、「尾崎秀実の10月14日逮捕説」の議論を詳述している。
特に224~5頁では、10月15日と新説10月14日と併立させて時系列に並べて、それぞれ当日の発生事項(重要な近衛の辞意表明など)を対比説明している。
著者の主張によれば、特別高等警察(特高)の尾崎逮捕が14日でなく15日だとすることによって、歴史の闇がダイナミックに説明できるとしている。まさに説明が躍動するさまは、本書の最大の山場といえよう。(226頁)(渡部注、15日ではなく、「14日とすることによって」ではないか)
これらを読むと、近衛追い落としに政治的利用されたゾルゲ事件の役割と、尾崎逮捕は14日だという説に納得せざるをえないことになるだろう。だが常識的に考えて若干の疑問も残るので、ここに書き加えることにする。
(1)筆者は、尾崎の妻英子が戦後出版した『愛情は降る星のごとく』の前文で、尾崎の逮捕日を1941年10月15日朝としるしていることを確認している。(217頁)しかし、ウイロビーやゾルゲを取り調べた大橋秀雄の著作などを検証して14日説が真実であり、15日は間違っていると結論を出している。すなわち、何かを隠蔽する必要があって検察、警察当局は「15日検挙」に辻褄を合わせ、「これに矛盾する一切の記録は許可しないという方針をとった…戦後になっても、ゾルゲ事件の真実を明かしてはならないという圧力が存在することを意味しています」(229頁)
ところで、同書は戦後の発刊で、もはや特高や検察の強制(検閲)で14日を15日に直されたというのは、いかがなものか。戦後になっても、はたらいた圧力とは、どういうことだ。
英子夫人は夫との獄中書簡『愛情はふる星のごとく』で逮捕された日がめぐってくるたびにそのことに言及している。篠田正浩監督の映画「スパイゾルゲ」の冒頭部分、尾崎が自宅で逮捕されるシーンのディテールは、戦後、英子夫人や娘揚子の回想記に負っている。女性の日常生活の克明な記憶である。
2)佐々淳行著『私を通りすぎたスパイたち』(文藝春秋、2016年)掲載の記事から引用する。「尾崎秀実が逮捕された日、父(佐々弘雄)は尾崎ほか近衛内閣の側近にたちと会食の予定があったらしい…のちに朝日新聞記者になった4歳上の兄・克明の記録『父・佐々弘雄と近衛内閣の時代』…によると、「1941年10月14日、六本木の鰻屋『大和田』に、昼食、風見章司法大臣、有馬頼寧伯爵、朝日新聞記者田畑政治、尾崎、そして父(佐々弘雄)が集まった。近衛首相も出席する予定だったが、急に来られなくなったという。…数人が集まったところで、尾崎に電話がかかってきた。尾崎は電話から席に戻ると、『明日の講演会の打ち合わせをしたいからきてくれ、と明治大学の学生からいってきた』とばつがわるそうに言い残して去った。すぐに戻るからと言い残したものの、それっきり連絡もなく『大和田』には帰ってこなかった。…尾崎はそのまま逮捕されたようであった。…父弘雄が、尾崎が帰って来なかった理由、すなわち逮捕を知ったのは、10月16日だったようだ。その日以降のことは私も鮮明に覚えている。(上掲書19~20頁)
兄の記録の裏付けをとるため、佐々淳行は有馬と風見の日記を調べた。しかし、なぜか、11月14日前後の記載はない。本来あるべき記述が削除されたのではないかとしている。(同上20~21頁)(筆者注、「11月14日前後」ではなく、「10月14日前後」であろう)
この証言によれば、「1941年10月14日、六本木の鰻屋『大和田』に、昼食、風見章司法大臣、有馬頼寧伯爵、朝日新聞記者田畑政治、尾崎、そして父(佐々弘雄)が集まった。近衛首相も出席する予定だったが、急にこられなくなったという。…数人が集まったところで、尾崎に電話がかかってきた。尾崎は電話から席に戻ると『明日の講演会の打ち合わせをしたいから来てくれ、と明治大学の学生から言ってきた』とばつがわるそうに言い残して去った。
すぐに戻るからと言い残したものの、それっきり連絡もなく『大和田』には帰ってこなかった。…尾崎はそのまま逮捕されたようであった」(「会報」63頁、と書いている。
そんなことがあり得るか。たかが学生に対する講演会の打ち合わせなら電話で充分ではないか。近衛首相も参加が予定され、司法大臣や伯爵などをほうり放しにして尾崎が明治大学の学生との打ち合わせに出かけられると思うか。これは単なる伝聞ではないか。しかも若しそれが事実だと仮定すれば、「尾崎秀実の逮捕は14日」ということになるのではないか。筆者の説と相違する点は「14日早朝」という点だけではないか。
果たして14日に「六本木の鰻屋『大和田』で昼食」、は事実であろうか。
3)同論文によれば1941年11月1日発行『新亜細亜』11月号には、「南方調査の方法と企画を語る座談会」が掲載され、その出席者12名と司会が尾崎秀実であること、などが記載され、「開催期日は昭和16年10月14日夜」と出席者名の末尾に活字が1ポイント小さく、ゴジックで出席者名の次の行に記載されている。(会報64頁には『新亜細亜』1941年11月号の90頁の一部分が複写して掲載している)評論家槙野亮一が筆者の「尾崎秀実14日検挙」を否定する唯一の裏付け証拠資料だ。これについては後に詳細に反論する。
著者(孫崎享)は「尾崎の妻英子が戦後出版した『愛情は降る星のごとく』の前文で、尾崎の逮捕日を1941年10月15日朝としるしていることを確認している」と書いているが、筆者も「尾崎逮捕が定説とされた15日を、14日が正しい」と主張するからには当然この著作は詳細に検討した上のことだ。それは言われるまでもなく当然のことだろう。
4)評論家槙野亮一が拙文の「14日説が誤りだ」いうなら、筆者が14日説の裏付け資料として挙げたひとつについてでも反論することができるのか。或いは検討したのか。筆者が「尾崎秀実の逮捕は14日」説について挙げた裏付け資料は以下の通りである。(以下は拙文「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」に詳述している)。
①「検挙索引簿」(拙文、前掲書3頁)
②「検挙人旬報」(同3頁)、その何れにも検挙命令検事は玉沢光三郎であり、受命者は高橋与助警部で、目黒警察署に留置された。検挙№も321と両者は同じである。そこには「勾引月日」は「10月14日」、「勾留月日」は「10月15日」と両者は全く同様に書いてある。
③「最近に於ける共産主義運動検挙秘録」宮下弘の講演記録によれば、「14日の早朝、尾崎秀実を検挙して直ちに、宮下係長以下首脳部が取り調べに当たった」、「即日自白させた」と記載している。(上掲書、5頁)
④モスクワで発掘された「特高上申書」の宮下弘の項目には、「尾崎秀実が10月14日逮捕されるや直ちに彼を取り調べ」とある。さらに河野啓、柘植淳平、高橋与助の蘭の総てに尾崎秀実の逮捕が14日と明記されている。(『国際スバイゾルゲの世界戦争と革命』(白井久也編著・社会評論社2003年)
⑤14日の深夜になって尾崎秀実の自供がとられたこと(宮下弘『特高の回想』ほか)
⑥さらに決定的ともいえる「尾崎秀実14日検挙」の裏付け証言は思わぬところに潜んでいた。「特高月報」昭和17年8月分掲載の「ゾルゲを中心とせる国際諜報団事件」(内務省警保局保安課)(『現代史資料』ゾルゲ事件)(1)の冒頭に掲げられている「事件の概要」の5頁に「対日諜報機関関係被検挙者一覧表」が掲載され、その5人目に通説の通り「尾崎秀実、10月15日、検挙」と記載されており、これだけが唯一の当局の公式見解である。
だが同じ「特高月報」のわずか5行前(4頁)には、「昼夜兼行同人(筆者注、宮城与徳のこと)を追及し、且つ同人宅に張り込み員を附するなどにより続々連累者の検挙を続行、(注、九津見房子・1941年10月13日検挙、芳賀雄・1941年10月12日検挙、秋山幸治・1941年10月13日検挙)など)ついに検挙は組織の核心に及ぶを得て、10月14日以降、尾崎秀実、リヒアルト・ソルゲ等の検挙に及び」と書いてある。
この報告書は宮下弘の執筆によるものと言われている。一応は検事局の顔をたて「尾崎秀実の検挙を15日」としながら、宮下たち現場サイドの苦労をこうした形で記録したのではないだろうか。この点についてはさらに今回、国会図書館で新たに公開された「太田耐造資料」によって解明されることになるだろう。
この資料で最も注目されることは、当時はいかに特高といえども被疑者の検挙は思想検事の指揮命令によるものであり、特高が独自に検挙するなどということは現行犯以外にはない。ましてや近衛内閣の顧問であり、朝飯会の常連として朝野にその名が知られた尾崎秀実の検挙ともなれば、慎重の上にも慎重に確実な裏付けがない限り逮捕には踏み切れないはずだ。
今回、新たに国会図書館が公開した「太田耐造関係文書目録」の「ゾルゲ事件関係資料」によれば、「外諜報被疑者検挙準備に関する件」、宛て先は各地方裁判所検事正となっている。(昭和16年7月25日、整理№104-1)がある。ゾルゲ事件の従来の説によれば1941年9月27日、北林トモが和歌山県粉河で検挙されたことから(注、ゾルゲ事件検挙記録によれば9月28日検挙と書かれている)ゾルゲ事件が発覚、宮城与徳の検挙から波及したとされてきたが、この資料によれば、北林トモ検挙の2カ月前に検挙の準備が手配されている。ゾルゲ事件の端緒は北林トモの検挙に始まるという、そんな偶然的な物語ではないことをこの資料は示している。
尾崎秀実検挙の以前に思想検事の会同もある。恐らく現場の特高の意見を検討してこれらの会議で、尾崎秀実検挙の指令が思想検事によって出たのだろうと思われる。筆者もこの資料は未見だからそれ以上のことは言えないが、警視庁警備部外事警察は昭和32年(1957年)6月に「ゾルゲを中心とせる国際諜報団事件」について、現在の「外事警察資料」として参考になるとして、「部外秘」で内部資料として刊行した。
内容的には「特高月報」と同じだが、ひとつだけ異なった極めて特徴的な箇所がある。それは「特高月報」(昭和17年8月分)69頁以下に掲載されている(1)昭和14年度に於いて漏洩通報したる事項のゾルゲ、尾崎秀実、宮城与徳らのもたらした情報一覧表の各項目別に「国家機密」、「極秘資料」、「軍用資源保護法」「軍事上の秘密事項」などの記録が記載録されていることだ。ということは「特高月報」記載にはそれらは一切削除されているが、その元版にはそれが書かれており、それが警察庁に存在しているということだ。しかも同様の資料が2種類あることも判明していて、両者は細部ではかなり違った表と表現がある。さらにそこにはもう一つの別の資料もある。後述する陸軍中尉橋本隆司の存在と彼がもたらした情報についても書かれている。
評論家・槙野亮一が「尾崎秀実の検挙は14日とするのは間違いだ」と拙文を批判する裏付けは『愛情は降る星のごとく』の英子夫人の回想と前述した1941年11月1日発行『新亜細亜』11月号には、「南方調査の方法と企画を語る座談会」だけではないか。
筆者はこれらの資料のなかで「勾引月日」が14日であり、「勾留月日」が15日であることに着目した。『広辞苑』を引いてもその差は分からない。
(広辞苑によると、「勾引」とは「裁判所が訊問のため被告人、証人その他の関係者を一定の場所に引致する強制処分」と書かれ、「勾留」は「裁判所が被疑者または被告人を拘禁する強制処分」と書かれている。)
多分14日は尾崎秀実はまだ被告人ではないから、形式的には証人として喚問されたのだろう。戦前の警察がよく使い慣れた「一寸署まで来てもらおうか」、という「参考人事情聴取」という形の検挙の仕方ではないか。「勾引」と「勾留」の違いが一般の主婦に分からなかったのだろう。特高は尾崎の14日の深夜に及ぶ拷問の末、供述を得て15日、「勾留」を尾崎英子に告げて家宅捜査に入り、以降、厳重に「15日勾留」を言い渡したのだろうと筆者は想定した。
5)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「、尾崎秀実の訊問調書」によると、「昭和16年10月15日、目黒警察署において検事玉沢光三郎は裁判所書記大塚平八郎立ち会いの上、右被疑者に対し訊問すること左の如し」─(いわゆる「人定訊問」)というのは、14日に宮下弘、高橋与助ら特高が尾崎秀実に拷問を加え、深夜になってようやく尾崎秀実の自供を得た。その報告を受けて、翌15日、検事玉沢光三郎がいわゆる「人定訊問」といわれる第一回目の供述をとったという形を作った。そこに保身にたけた官僚の対応があったことを書いた。エリートである検事は凄惨な拷問の現場には立ち会わないのが通例である。
伊藤律が39年11月に検挙されたときも逮捕状などはなかった。「参考人の事情聴取」は治安維持法違反容疑者にはよく使われた手法のひとつだ。「勾引」は検挙によるものと区別されていた。英子夫人の回想も「勾留」=検挙された日が記憶されたのだ。
6)三宅正樹(明治大学名誉教授)からの質問
前回の講演会(4月21日、明治大学リバティーホール)のおりに、三宅正樹明治大学名誉教授から、拙文「尾崎秀実の14日逮捕説」に対して、「満州評論」に掲載された、昭和16年10月25日付の「大陸政策十年の検討」という座談会記事を手渡された。その座談会は尾崎秀実が検挙されたとされる15日の前日の14日に開催された、と書かれているという。
その三宅教授提供の座談会の記事によると、出席したのは尾崎秀実ほか平貞蔵、橘樸、細川嘉六など六名の名が書かれており、のち『橘樸著作集』第3巻(勁草書房)に同文が再録されているとう。そのコピーが数日後、三宅教授から筆者に送られてきた。全く筆者の知らなかった文献である。
「満州評論」には「14日の座談会」の記録には開催月日や場所などは書いてなかったが、後に三宅教授から送られてきた『橘樸著作集』(第三巻)には、その「座談会の記事」が転載され、その掲載文の末尾の570頁に、編集後記のような形で、「この座談会は昭和16年10月14日、東京・銀座裏のある小さな中華料理店で挙行」、「満州評論創刊10周年記念特集として企画された」などと書かれており、一人当たり5円の会費が徴発されたことも書いてあった。
前述した評論家槙野亮一論文が、拙文「尾崎秀実の10月15日検挙は検事局の作った虚構である」に対する反論のひとつの資料として挙げた、1941年11月1日発行『新亜細亜』11月号掲載の「南方調査の方法と企画を語る座談会」の出席者名の次の蘭に記載された、「昭和16年10月14日夜」は、上述の通り「満州評論」に書かれている東京銀座裏の小さな中華料理店で座談会が開かれ、尾崎秀実がそこに出席していたという記録と日時が重なっている。
同一人物が同じ日に2つの懇談会に出席することなどできるわけがない。この一事を以て『新亜細亜』11月号掲載論文に書かれた「10月14日夜」に対する充分な反論になるだろう。
さらに「1941年10月14日、六本木の鰻屋『大和田』に、昼食、風見章司法大臣、有馬頼寧伯爵、朝日新聞記者田畑政治、尾崎、そして父(佐々弘雄)が集まった。近衛首相も出席する予定だったが、急に来られなくなったという。……数人が集まった」などということになると尾崎秀実は同じ日に3つの会合に出席したことになる。
筆者にいわせればそのどれかが正しいのではなく、そのいずれもが誤りなのだ。それは当局の指示によって「14日夜」と記載されたものだと確信している。その根拠は新たに発掘された資料(後述する)と次に掲げる中村哲の証言が裏付けている。
7)中村哲(法政大学総長)は証言する
前述した「1941年10月14日、六本木の鰻屋『大和田』に、昼食」とは、佐々弘雄の直話ではなく、伝聞にすぎない。ここに評論家槙野慎一が引用した記事は佐々弘雄本人の直話ではなく、すべて誤った伝聞にすぎない。
中村哲(法政大学学長は以下の通り証言する。
「福田内閣ができたころ首相官邸の集会で、松本重治さん(筆者注、連合通信上海支局長、戦前は近衛文麿、戦後は吉田茂の政策ブレーンとして活動した)と話し合っていましたら、キミと会った日は尾崎の捕まった日だったことを覚えているか、と言われたのです。そうなると、昭和16年10月15日の前のことになります」。
「平貞蔵さんのすすめで麻布「『大和田』のうなぎやの「風見章さんの会」、会する者は松本、牛場、北山富久次郎、平、私、あと誰がいたか思い出せず」と書いている。伝聞ではなく、本人が執筆したものである。六本木の鰻屋『大和田』の会は「風見章さんの会」だったこと、
さらに重要ななことはその末尾に書かれている、「先便の風見さんの会、あの日尾崎さんが捕まらなければ、西園寺、尾崎と出てきた会だったことを改めて思い出しました。ああいう会の日取りは尾崎、平の両氏が決めていたはずです」(『尾崎秀実著作集』第四巻、月報、後半の部分は今井清一・楊子宛の私信と書かれている)
これによれば今井清一教授は歴史家だから、このときすでに尾崎秀実の逮捕は「14日」であったことを確認したと思われる。
8)内閣書記官長『風見章日記』から何が見えてくるか
評論家・槙野亮一が引用している「風見章日記」についても触れておきたい。
「兄の記録の裏付けをとるため、佐々淳行は有馬と風見の日記を調べた。しかし、なぜか、11月14日前後の記載はない。本来あるべき記述が削除されたのではないか」としている。(筆者注、11月ではなく尾崎秀実逮捕の10月14日前後ではないか)
同書は5年ほど前に早稲田大学から出版されたが、評論家槙野亮一が孫引きしているようなものではなく、決定的に重要なことは、尾崎秀実の逮捕当時だけではなく、第一次近衛内閣成立当時の日記から、尾崎秀実に関する記録の総てが『風見章日記』から消去されているという事実だ。同「日記」によれば、尾崎秀実の新聞記事が解禁されて発表された時は、刑事2人が風見章の私邸に張り込んでいた、と書いている。
風見章の行動の監視とともに、連絡に来る者の検挙もその任務のひとつだったのだろう。尾崎秀実の逮捕に関する解禁された新聞記事に関する風見の感懐は何も書かれていない。日記には当然書かれるべきはずの尾崎秀実の死刑判決や処刑執行についての感想も書いてない。自らの関係箇所は抹消したのだ。
松本慎一が戦後書いた尾崎秀実の処刑前の教戒師と尾崎秀実の会話のやりとりなどを含めて、尾崎秀実の処刑当日の日記に転載、引用して、戦後になって日記の体裁をとりつくろったことは明白だ。つまりこの部分は戦後になって挿入した作文である。そのときに書かれた日記ではない。
当時、尾崎秀実の検挙を知って佐々弘雄など尾崎秀実と交際のあった人たちは、尾崎秀実が逮捕されたとわかった途端に、「日記」手紙、記録類のすべてを焼却処理したという。それは当然のことだろう。この風見章日記も同じことだ。最初にその関係書類と手紙などすべての記録を焼却したのは素早く情報を入手した佐々弘雄ご本人ではなかったのか。佐々弘雄が尾崎秀実を近衛につないだ人物であり、おなじ朝飯会のメンパーだったからだ。
評論家槙野亮一がここまで記載するなら、現在「風見章日記」は早稲田大学から出版されているから一読の上で反論すべきだっただろう。「風見章日記」には第一次近衛内閣成立のゾルゲ事件と尾崎秀実の最も肝心な時期のすべて抹消されている。尾崎秀実の検挙当時だけではない。しかし「日記」には尾崎秀実の処刑後、山手線の車中で尾崎秀実の妻英子さんと尾崎秀実の処刑50日後に会った事や、細川嘉六、伊藤律などについての興味のある記録も書かれている。
9)尾崎秀実は日本共産党員だった
拙文「尾崎秀実は日本共産党員だった」についても一言付け加えたい。従来は「尾崎秀実は日本共産党員ではなく、もっと上位のところに登録された秘密党員だ」などという供述調書の二番煎じの様な意見が主流であり、定説化していた。
「もっと上位のところとはコミンテルンに登録されていた秘密党員」だなどという者がいたが、コミンテルンは個人を対象にする組織ではないことは共産党員ならば常識だ。
(注、例外として中国の宋慶齢(孫文の未亡人)の場合があるそうだ。のち彼女が死ぬ直前の1981年5月に本人のたっての希望により、中国共産党籍が与えられたという。)
尾崎秀実の場合はソ連赤軍第4課に登録されており、ゲオルギーエフ氏からその記録の内容の説明を受け、表紙だけをコピーしてもらった。公開の許可がおりていないからだという。
筆者が執筆した当時、会報編集者から、「尾崎秀実が日本共産党員だとするその根拠は何か」、「それは伝聞ではないか、他に根拠はないのか」「裏付資料がないか」などとしつこく聞かれ、「伝聞」ではない。「証言」だと拙文の全文の解説をしても、なおも繰り返し質問され、説明する意欲を失った。非合法時代の共産党の入党の証拠、裏付けなどは推薦者の証言しかないのだ。それは入党紹介者及び本人の供述がない限り分からないのが原則だ。石堂清倫が言う通り、「共産党の飯を食った者でなければ分からない」のかもしれない。
ところが上記の「風見章日記」によれば、「昭和18年6月19日、斉藤茂一郎氏の招待にて歌舞伎座裏の京亭にて昼食す。近衛公のほか牛場友彦、岸道三、白州次郎三氏も同席す。
近衛公曰く、尾崎秀実の公判には20名ほどの特別傍聴人在りたるが、その中の一人より富田前内閣書記官長が伝聞したりとて語れるところによれば、尾崎は頗る冷静なる態度にて裁判長の訊問に答え、且つ率直に共産党員たるを自認したる由なりと。また曰く尾崎は風見よりは何事をも探知し得ざりしことを言明したる由なりと。(『風見章日記』200頁)。
こうしてようやく拙文「尾崎秀実は日本共産党員であった」が裏付けられた。以上でわかる通り評論家・槙野亮一論文は拙文「尾崎秀実14日検挙」説の反論には全くならない。
10)「ゾルゲ事件処理に関する検事打ち合わせ会議」とその構成メンバー
ゾルゲ事件の被疑者の検挙直後から、問題は急遽、「ゾルゲ事件処理に関する検事打ち合わせ会議」と言われる検察当局の最高会議が設置され、事後の対応の基本はこの会議にゆだねられた。その会議の最初の会議がいつ開かれたかは記録がないが、第2回(昭和17年2月28日)、第3回は昭和17年4月2日開催)と2回と3回の記録はわずかながら残されている。「歴史のなかでのゾルゲ事件」(つづき)(『現代史資料・ゾルゲ事件』第2巻、541頁)これはもしかすると今回公開された太田耐造資料にはより詳細に記録されているかも知れない。
第2回「ゾルゲ事件処理に関する検事打ち合わせ会議」(昭和17年2月28日)によると、その構成は以下の通りである。
検事総長以下、大審院側から総長、次長、思想係全検事。
控訴院側から検事長、次席検事、芳江検事、
地検側から検事正、次席検事、中村登音夫部長、玉沢光三郎検事、吉河光貞検事、
本省側から桃沢事務官などが出席したと記録されている。(第3回、昭和17年3月4日
の出席者もほぼ同じである)。
この打ち合わせ会議が何回開催されたかは記録がないが、ゾルゲ事件がわが国に及ぼした影響の巨大なことはこれによっても判断できる。
(下)に続く
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study991:180908〕