11)最近発掘された資料・「ゾルゲ事件新聞記事発表文」に対する稟議書
ごく最近、毎日新聞記者が「ゾルゲ事件記事解禁に関する内務・司法両当局談」の稟議書を発掘し、筆者にコピーが送られてきて、二人は検討した。言われてみればそんな資料があるだろうとは思うものの、実物を拝見するのは初めてのことだ。よくぞ米軍情報部の押収を免れたものだと思った。
質問に関係する部分のみ、評論家槙野亮一論文(含む三宅正樹教授の質問)の回答に関連する個所について、以下紹介する。(本資料は前述した「太田耐造関係文書」の一部分である。加藤哲郎教授よると、かなり膨大なもので、みすず書房の『現代史資料・ゾルゲ事件』(全4巻)に匹敵する分量であり、前述した「歴史のなかでのゾルゲ事件」もかなり訂正する箇所があるという。何よりも水野成、犬養健、西園寺公一などの訊問調書など、みすず書房で収録されなかった資料がかなり大量にあるという。したがってこれはそのうちのほんの一部だという)この資料の詳細は加藤哲郎教授がゾルゲ・尾崎墓参会などで報告するだろう。その目録を見るだけでもその分量の多いことに圧倒される。ゾルゲ事件研究は第二段階に入ったと言う感じだ。筆者はすでに「犬養健供述調書」や「西里龍夫著書」は入手していた。
司法省の記事解禁に関する、各省庁にたいする稟議書は、全文約50頁ほどのタイプ打ち されたもので、ゾルゲ事件の記事解禁に当たって、司法・内務当局の談話(素案)に対する稟議書に、内務、外務など関係省庁の意見書である。
表題は「国際諜報団事件に関する司法当局談」と記されており、解禁された新聞記事の本文は吉河光貞が執筆したとされている。
ゾルゲ事件に関する記事が公開されたのは1942年5月16日のことであり、新聞のタイトルは「『国際諜報団』を検挙 首謀者内外人五名起訴」とあり、その下部に「片言隻語も心せよ 不用意の中に機密漏洩」のタイトルで「司法・内務両当局談」と書かれている。
今回、発掘された資料はこの「司法・内務両当局談」の素案の稟議書に対する各関係当局の意見によって改定を積み重ねたものである。それを解禁された新聞記事と対照すると、どこが、どう改変されたのか、当局にとって不都合の箇所を具体的に知る事ができる。
最初の頁には司法省の稟議書(素案)に対する「内務省意見」が記録されている。本文(つまり素案)を黒く塗って、横に訂正文(内務省側の意見)が書かれ、鉛筆書きでその横に(1)「ドイツ大使館との関係・協力に対して感謝」と書かれている。
公表された新聞記事と稟議された原本とを比較対照すると、極めて重要な当局の意図が次々と浮上してくる。それはまるでドラマを見ているような躍動感がある。時間の関係で筆者の「14日、尾崎秀実検挙説」に関連して、その稟議書はどのように扱われたかという極めて興味がある点に絞って以下報告する。
まず注目すべきは大審院検事局の意見(昭和17年5月13日)である。
─、検挙の日時を明確にするの要なきや、
二、重要機密事項等の記載中重要という形容詞を一般的に削除するの要なきや
三、諜報団の活動項目中第一枚目裏面7行の「漸次獲得し」を適当に緩和すること
四、司法当局談中第2枚目の5を削除せられたし
五、西園寺公一に対する犯罪適示中「憂国有士」の「憂国」を削除するの要なきや
以上の大審院検事局の意見の5項目に対して、一、~五、のうち一、については×印。(つまり許可せず)二、は◎、三、四、五は「済」との決済が書かれている。
外務省非公式意見(昭和17年5月14日)は以下の通りである。
一、写真の掲載は絶対的に禁止する様せられたし
二、諜報団の活動状況の項目中二枚目の二行目「帝国の国策…策動し」を削除せられたし
三、司法当局談中、第一枚目6行目「もし…………慄然たるものがあるのである」を削除せられたし、
四、同当局談中第二枚目の五を削除せられたし、
五、西園寺公一の肩書中外務省嘱託を削除せられたし、
(以上の外務省非公式意見の総てに「済」との記載がある。この他に新聞記事掲載要領が以下の通りある。
一、発表文(司法省発表及当局談)以外に亘らざること。
二、本件に関する記事差し止め並びにその一部解除を為したる事実に触れざること。
三、記事の編集は刺激的に亘らざる様注意すること。 例えば
(イ)トップ扱い、その他特殊扱いを為さざること、
(ロ)四段組以下の取り扱いを為すこと、
(ハ)写真を掲載せざること
(以上について筆者は稟議した文書と新聞発表の双方を対照した記録を作成した。講演会当日、展示する解禁された新聞は拡大コピーして展示する。)
大審院検事局意見の(─)、検挙の日時を明確にするの要なきや、に対して、×が記されていることを以て三宅正樹教授と評論家・槙野亮一にたいする筆者への質問に対する回答にならないだろうか。
つまり大審院検事局の意見に対して、尾崎秀実の検挙の日付の公表は許可されなかったのだ。大審院検事局がとりまとめた意見に対して×印をつける大審院検事局を監督する立場にいる人物(または上部機関)は一体誰なのか? 因みに×印は5項目中この1項目だけである。従って解禁された新聞記事には当然ながら尾崎秀実の検挙月日の記載は書いてない。
①それは単に記事公開に「大審院検事局が許可しなかっただけだ」、と受け止めることができるだろうか。この×印はもっと積極的な当局の意思表示と、その後の取り扱いを示していないだろうか。事実経過を詳細に調べた筆者にはそのように受け取れる。それが「14日検挙」の事実を隠蔽したことに結びついていると筆者には思える。
だが筆者にはそれが誰であり、どんな事情があったのかは政局絡みのことであり分からなかった。孫崎享著はそれを追及したのではないだろうか。内田弘専修大学名誉教授の「ゾルゲ・尾崎事件」像の転換ー孫崎享著『日米開戦へのスパイ』(祥伝社、2017年)を読む」(「ちきゅう座」に掲載)を重ねて読まれることをおすすめする。
②「特高月報」昭和17年8月分「国際共産党対日諜報団並びに軍機保護法、国防法案法違反被疑事件取調状況」の「被検挙者一覧表」の中で初めて「尾崎秀実の検挙年月日が昭和16年10月15日と記載されたのである。これが世情に伝わる尾崎秀実の10月15日検挙説であり定説になっている。「特高月報」は警保局の内部でさえ極秘資料なのである。一般の社会人にわかるはずはない。推測すれば14日逮捕された尾崎秀実は特高による熾烈極まる拷問をうけた。この事実を隠蔽するためではなかろうか。
『愛情は降る星のごとく』によって「15日検挙」が伝わったのではない。家族にどうして「勾引」と「勾留」の区別が付けられるだろうか。14日の「勾引」はやがて夫はそのうちに帰ってくるだろうという期待があったのだろう。そのために英子夫人には尾崎は「娘は学校に行ったか」と聞きながら、妻には言葉も交わさず引き立てられて行ったという。しかし当日の深夜に尾崎秀実は自供し、「勾引」は翌日になって「勾留」に代わった。
従って遺族には「尾崎の検挙は15日」という記憶が残ったのではないだろうか。
③「愛情は降る星のごとく」を引用するのは妻英子が「尾崎秀実の検挙は15日」としているからであり、当局も捜査の都合上、「14日勾引」は固く口止めされた。それは宮城与徳の検挙にも実例がある。宮城与徳の検挙を知らずに訪れた九津見房子、秋山孝治、ほかが次々に検挙された事が前述した「特高月報」に記載されている通りである。
14日検挙の事実を知っている者は尾崎秀実の他には妻英子と娘の揚子しかいない。(多分、松本慎一はのちに真相を知っていたと思われる)。その遺族に確認した者がこれまで一体誰がいただろうか。誰もいなかったではないか。
筆者は拙文「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」に前述した米国議会図書館の資料を添付して、今井清一教授(注、尾崎秀実の娘揚子の連れ合い、横浜市立大学教授)に「前掲書」とともに送り、14日尾崎検挙の確認をもとめた。記録が残っていないから期日は不明だが、拙文を送ったのは多分2005年の拙文の発行当時のはずだ。 当時、今井清一教授から「その米軍の資料の存在は知っている」という返事があり、『尾崎秀実著作集』の月報があることなどの回答があったが、そのほかのことは何も書いていなかった。
2017年になってから日露歴史研究センターの会報が50号で停刊と決まったころ、突如、今井清一教授から連絡があり、「ゾルゲ事件研究の到達点」にいて書いてくれないかという依頼があった。(注、これは筆者の解釈違いだとのちに今井教授から知らされた)。筆者は今井清一教授宛てに8頁に及ぶ小論文を書いて送った。(2017年6月7日付)(別添の拙文)
そんなことがあって、本年1月、今井清一教授から拙文(前掲書)に引用した米国議会図書館資料の「尾崎秀実10月14日検挙」の資料のコピ―が送られてきた。この資料は拙文で引用している筆者にはなじみの資料だ。これをどのように理解すべきだろうか、それは遺族の意向と筆者は受け取った。
以上で三宅教授の質問と評論家槙野亮一論文に対する筆者の回答は時間がないので終わるが、評論家槙野亮一評論の最後の一文に反論しておきたい。彼は次のように書いている。
「ゾルゲ事件の裁判記録を読むとゾルゲが日本陸軍将官から直接入手した情報や、駐日ドイツ大使館付武官から間接的に入手した軍事上の情報があったが、入手経路は一切排除破棄されてしまっている。ゾルゲ・尾崎情報に軍関係のものがとぼしいといわれるが、乏しいのではなく、権力の中枢からの排除の意図が貫徹していたと言わざるを得ない。これらの日本側の事情に加え、旧ソ連・現ロシアの公文書館に所蔵されているゾルゲ関係文書(ゾルゲの多数の報告電報とそれに対する上級機関の評価・処理結果など)が公開されていない。しかも、その公開は当分、期待し得ないのである。したがってゾルゲ事件研究を試みても、現状を大きく動かすものにはならない」。と結論している。
軍事上の情報がなく、入手経路は一切排除破棄されていればゾルゲ事件研究は成り立たないのか。そんなことは最初から承知の上で日露歴史研究センターを立ち上げたのではないのか。これが1996年以来22年間継続してきた日露歴史研究センターの最後を飾る評価なのか。この評論家は「特高月報」とみすず書房『現代史資料・ゾルゲ事件』だけにたよって結論しているのではないか。
1936年にGRUからゾルゲに対して「現役の陸軍の将校を獲得せよ」との指令がきた。恐らくゾルゲにとって最大の難問だったのでないかと思われる。宮城与徳が組織した中には陸軍伍長の小代好信(下士官)の存在は明らかになっているが、これまでは「陸軍の将校の獲得」とは小代好信だと思われてきた。ところが警察庁の資料によるとそのほか、陸軍中尉橋本隆司の存在が明らかになり、「北樺太国境付近の警備状況、上敷香の兵営について、また軍特務機関の構成、①東亜局、欧局、米局、洋局及び、②ハルビンに於ける教育実情、③特務機関の土肥原中将について、などの情報が宮城与徳を通じてゾルゲに通報していたことも明らかになっている。
「太田耐造資料」のゾルゲ事件関係資料はみすず書房の『現代史資料・ゾルゲ事件』を越える分量である」という。毎日新聞2018年8月18日付けの一面トップ記事「ゾルゲ事件・報道統制文書 旧司法省幹部手控え発見」7段組の記事、及び同2面の「スパイ浸透 矮小化へ走る ゾルゲ事件文書 各省が修正要求」という4段記事には、加藤哲郎教授の「若い研究者たちによる、新時代の研究の宝庫だ。共同で解読すべき第一級の資料」とコメントしている。
この資料の公開は次時代の研究者に引き継がれ、ゾルゲ事件研究を加速させることになることは間違いない。これに続いて朝日新聞がその資料の全体像の紹介を間もなく出るだろう。復刻の作業もすでに始まっている。評論家が締めくくった言葉とは全く異なった世界がいま広がろうとしている。
筆者はアンドレー・フェシューン氏から提供され、後に『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』(社会評論社、2003年)に掲載された「秘録ゾルゲ事件─発掘された未公開文書」やNHK取材班下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』や、チャルマース・ジョンソン著『尾崎・ゾルゲ事件─その政治学的研究』などの著作を生み出し、現在ではミハイル・アルキセーエフ著『中国に於けるソ連軍事諜報機関・1930年~1933年』が会報に連載中だったが、アンドレー・フェシューン氏によればゾルゲの中国時代の活動でわからないことは何もないという。そのアレクセーエフ氏は、次は日本に於けるゾルゲの活動について書くという。
当然そこにはロシア側の資料が公開されるだろう。
少なくともここには戦後生還してソ連に帰国したマックス・クラウゼンの極秘電報の通信の実情が書かれるはずであり、駐日大使館員武官のイワノフ中将との連絡の実体験が記録されるだろう。
今回公開された太田耐造資料の公開も、或いは日露歴史研究センターの会報が国会図書館に毎号寄贈されてきたことも多少は影響したかもしれない。
2017年はロシア革命100年の記念の年に当たり、モスクワでアンドレー・フェシューン氏が最後となるゾルゲ事件国際シンポジウムを本年10月末ころ企画している。
残念ながら日露歴史研究センターは組織としては対応できないが、筆者は実行委員会を立ち上げて参加することにしており、すでに7名の参加希望者がいる。日本が参加しないゾルゲ事件国際シンポジウムはあり得ないからであり、これまで多くの資料の協力をえたことに対する感謝と返礼でもあるからだ。そしてここには必ず新しい資料が付け加えられるはずである。
(追記・筆者の「質問に答える」について三宅正樹教授から次のような返辞が届いた。
「尾崎秀実の逮捕の日付に関しましては、先日お送り申し上げました『橘樸著作集』第3巻収録『満州評論』第21巻第17号所載の座談会の日付が誤りでない限りは、銀座裏の中華料理店で行われた昭和16年10月14日の座談会に尾崎秀実が出席した事実が記載されている訳ですから、14日逮捕はあり得ないと考えられます」8月14日付。という便りがあったが、筆者が挙げた7項目の裏付けにたいする反論や「新亜細亜」11月号の座談会が11月14日行われていることの矛盾点などについては何も触れていなかった。
(完了)
参考のために以下を付録として補足しておく。
吉河光貞検事の回想には時間があれば触れておくこと。
「15日の午前10時、午前11時には尾崎は自白したのです。」(「昭和史探訪」、雑誌「法曹」に再録。
「尾崎秀実の手記」によると、「揚子はもう学校に行ったか」と確かめてから勾引された事が事実とするなら、拷問もなく、わずか3時間程度の時間しかない。玉沢光三郎は尾崎秀実の取り調べを担当し、吉河光貞はゾルゲの取り調べを担当した。検挙命令者も尾崎秀実は玉沢の名になっている。取り調べは吉河によると、目黒署ではなく、旧三田署だったという。しかし高橋与助の訊問調書は全部「目黒警察署にて」である。
吉河光貞も参加した『太田耐造追想録』の巻末の座談会では吉河も参加しているが、その経緯を報告しているのは吉河ではなく、玉沢検事である。従ってこの吉河光貞の証言は
記憶違いとしか言いようがないと思われたが、今回国会図書館で公開した「太田耐造関係文書目録」によると、「尾崎秀実の供述要旨」(昭和16年10月17日付)が(請求№172)あるから、これを確認しないと何とも言えないだろう。
「古在由重『戦中日記』から15日検挙説の紹介と反論。(時間があればこれも報告する)
お茶の水の駅の横の聖橋で、尾崎秀実が逮捕された翌日のこと、尾崎秀実の秘書、高橋ゆうから古在が聞いた尾崎秀実の逮捕のこと。
尾崎秀実の拷問についての後藤順一郎の目黒警察署の体験談と録音テープの存在。後藤順一郎の回想とその録音テープの紹介。(秘話)
目黒署には当時、後藤順一郎が留置されていた。彼は尾崎秀実の拷問の現認者であり、尾崎が看守に抱えられながら房に帰って来たとき、一人で立っていることもできないほどの拷問をうけたというが、彼の証言は「尾崎秀実の検挙は定説は15日とされており、後藤の目黒署に於ける体験は14日のことだから却って笑いの種となり、信頼性がないとされた。
後藤はその後、この話はしなくなったが、当時は何人かの人が後藤の体験談を聞いている。 これに着目したのは堀見俊吉だった。彼は思想犯の前歴者で、予防拘禁所に勾留されていたとき、解禁されたゾルゲ事件の新聞を山辺健太郎がその新聞を堀見の房に放り込んで行ったから見たという。生まれも、家も同じ台湾で、尾崎秀実の家の裏側に住んでいたという。子供のとき尾崎から抱っこされた経験があるという。戦中に彼は尾崎秀実の私設秘書を務めていたことがあった。
そんな経緯で堀見はゾルゲ事件には非常な関心をもって調べていた。そんな彼は後藤順一郎を一夜、自宅に招いて鍋を囲みながら、後藤からその話を丹念に聞いた。その録音テープが筆者のところに残っている。15日検挙説には二人とも首を傾げながら、疑問符を付けながらの対談になっている。二人が生きていたら筆者の「14日逮捕説」にどんな対応を見せただろうか。
「特高月報」の尾崎秀実14日検挙に関する「特高月報」の記録。
「重大なる間諜組織の伏在を推定せしむるものあり、昼夜兼行同人を追及し、且つ同人宅に張り込み人を付するなどにより続々連累者の検挙を続行、ついに検挙は組織の核心に及ぶルト・ソルゲらの検挙に及び、爾後、宮城、を得て10月14日以降、尾崎秀実、リヒア尾崎の取り調べの進捗にともない、次表(「検挙者一覧表」)記載の如き経過にて情を知れる者、知らざる者を合し、昭和17年6月8日までに総計35名の被検挙者を出すに至り、ここに国際共産党対日諜報機関の秘密組織を壊滅して、その全貌を明らかなからしむるを得たり。
(以下、「対日諜報機関被検挙者一覧表」が続く。
加藤哲郎教授によると、いま憲政記念館所蔵の膨大な太田耐造資料がネットで公開されているという。そこにはこれまで未公開だったみすず書房並のゾルゲ事件関係資料が公開されているという。筆者の2周り若い人たちが登場する時代になった。
日露歴史研究センターの50号に及ぶ会報も次の世代への道案内と橋渡しが出来たのではないだろうか。
最後に毎日新聞(8月18日付)は、1面トップ記事で「ゾルゲ事件報道統制文書──旧司法省幹部手控え発見」6段組で大々的に報道し、2面でもおなじ分量の記事「スパイ浸透 矮小化へ走る──ゾルゲ事件文書 各省の修正要求」を掲載した。
筆者の前回の講演はこれに拠っている。(注、二面の記事は掲載を省略した)
ロシアの研究者も極めて強い関心を示している。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study992:180908〕