軍隊から引き渡された朝鮮人 千葉県八千代で98年後の慰霊祭

 1923(大正12)年の関東大震災から、あと2年で100年になる。混乱の中で虐殺された朝鮮人の慰霊祭が千葉県北西部の八千代市で9月5日に営まれ、参加した私も思いを新たにした。この地では軍隊がいったん保護した朝鮮人を地元の住民に引き渡して処分させた事例が、教員OBたち市民グループの活動で明らかになっている。
 新型コロナ禍で一般参加に慎重な主催者に頼み、私は会場の高津山観音寺に向かう。集まった約30人は一昨年のほぼ3分の1に減ったという。慰霊祭は観音寺、地元旧住民の高津区特別委員会、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会(実行委)の3者共催で営まれた。関連する巡回供養もあった。
 住民に引き渡して処分させた、とはどういうことなのか。第1次大戦の捕虜を収容した陸軍習志野俘虜収容所の跡が近くにあり、バラックと呼ばれていた。震災後は大勢の朝鮮人を収容していた。
 実行委の大竹米子さん(90)は中学教員時代、郷土史研究会の生徒を連れて、震災時に小学3年だった女性から聞き取りをした。話を要約すると、手足を縛られて道に座らされている朝鮮人3人を見た、3人は地区の共有地で殺されたと後で聞いた。
 中学生の調査活動が地元紙に載ると、この件を綴った日記が大竹さんに持ち込まれる。和綴じ、縦書きの備忘録のような日記だという。証言に文字の記録が加わり、軍隊の関与を見据える中で、この解明を重点目標として実行委が発足する(1978年6月)。
 日記の所有者と慎重に交渉した結果、ぎりぎりここまでは、と了解を得た文面が『いわれなく殺された人びと』(1983年、青木書店刊)に載っている。日記の1923年9月7日の項を引用しよう。
 「……皆労(つか)れて居るので一寝入りずつやる。午后四時頃、バラックから鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有ったとて急に集合させ、主望者(ママ)に受取りに行って貰う事にした」
 翌8日。「……穴を掘り座せて首を切る事に決定。(同書の中略)穴の中に入れて埋め仕舞ふ……」
 埋めた所は「なぎの原」と呼ばれる共有地だ。実は少数の地元の人がそこに塔婆を建て、殺された朝鮮人を密かに供養していた。

市民グループ粘り強く解明
 慰霊祭は「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」の前で営まれた。すぐ近くの「なぎの原」で、前記3者の共同で遺骨6体を発掘したのは1998年9月。慰霊の碑を翌年建立し、碑の下に6体を納めた。軍関与の朝鮮人殺害を日記で確認してから21年かかっている。
 この21年は長いようだが、軍関与の史実を残し伝えようとする使命感の実行委と、近親者の加害責任に触れられたくない地元住民との間隔を縮めるために必要だったと私は受け止めている。
 何回もダメになった末、「なぎの原」でやっと実現した遺骨発掘。だが、地元住民から条件がついた--専門の業者に任せる、マスコミに知らせない、記録はとらない。
 この時の住民側の心情を実行委の平形千惠子さん(80)はこう推し量る。「デマに踊らされたことを悔やみつつも、身近な親族が殺害に手を下したと騒ぎ立てられたくなかったのでしょう」
 「それでも発掘しなければ、ここに埋められたという事実を私たちは確認できません。だから掘るしかなかった」
 慰霊の碑そのものにも同様の葛藤があった。軍が関与して住民に手を下させたことを、実行委は何とか碑文に刻みたかった。だが、交渉を重ねた末に地元の合意は得られなかった。事件から80年近く経ってなお、加害責任の枷(かせ)は外れていないのだ。
 実行委が検討した幻の碑文が2017年の冊子に載っている。「……陸軍は、軍管理の下にあったこの収容者の中から指導者と見なされる者を、九月七日~九日、近接の数ケ所の集落に振り分けて『処分』することを命じた。……各集落は軍の命令の呪縛に縛られ長い間口を閉ざしてきた」。ことの本質はここにある。

若い世代の参加が道拓く
 慰霊祭で実行委の吉川清代表(88)はこう挨拶した。「若い皆さんの調査を通じて県内の事跡も徐々に明らかになっています」
 若手の歴史研究者が実行委に加わり、2年後の事件100年に向けて、『いわれなく殺された人びと』の新版を刊行する作業などに参加していることを指している。
 慰霊祭で献花した洪世峨(ホン・セア)さん(43)もその一人だ。彼女は韓国から専修大学に留学し、博士号を得た後も日本に留まり、IT企業で仕事をしている。
 関東大震災の朝鮮人虐殺は韓国で最近まで関心が持たれなかったそうだ。洪さん自身は来日するまで全く知らなかった。専修大と大学院で日本近代文学を学んでいると、実行委に加わる田中正敬教授たちのグループと接して歴史の問題に目覚めたという。
 洪さんが実行委に加わり4年になる。資料の翻訳や新刊の編集に携わっている。一世代上の先輩方が聞き取った音声資料を、使えるか/使えないか/使ってはいけないか--の吟味もしている。
 虐殺された朝鮮人たちを洪さんはこうみる。「働きに来たが、日本語はほとんど話せない名もなき民衆が殺された。その人たちのことを忘れずに記憶・記録することが真相究明につながります」
 実行委の先輩が調べてきた仕事を「韓国人の私が、自民族の歴史として受け継ぎ、伝えることに意味があるのではないか」と語る。高齢になった実行委の先輩のインタビューも手掛けている。
 それとは別に、実行委は大学生の現地学習も受け入れている。今年5月には立教大学異文化コミュニケーション学部の石井正子教授と学生5人が、朝鮮人の埋められていた「なぎの原」とその一帯を歩き、慰霊の碑が立つ観音寺で説明を受けた。
 2年女子はこんな感想文を寄せた。「加害者の子孫もいたということを聞いてはっとしました。……どこまでその過去と向き合い背負うのか、私達も問われていると感じました」
 「『流言を信じた自警団によって朝鮮人が殺された』という教科書の一文からでは見えてこない事実に、今後のフィールドワークでも目を凝らしていきたい」とは4年女子の感想文だ。
 立教大生を案内した平形さんは「若い人が来てくれるとうれしい」と言う。「2度と繰り返さないために、事実を忘れて欲しくない」からだ。背後に「虐殺の事実をなかったことにしたい人たちの動きが進みつつある」のをひしひしと感じている。(2021年9月21日)
<メールマガジン「歩く見る聞く 73」から転載>

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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