転載・童子丸開<徐京植さん「フクシマを歩いて」に基づく考察ーー根こぎと全体主義>

みなさまへ   松元

バルセロナの童子丸開さんが徐京植さんの「フクシマを歩く」に触発されて、進行し続ける日本の全体主義とその克服の方途について分析し提言しています。徐京植さんをはじめ、映像に登場する方々の発言もていねいに書き起こし、さらに中手聖一さんや小出裕章さんの発言も参照にしながらの長い考察による問題提起の試みです。
とくに徐京植さんが提起している「離れると見えないが、離れないと見えない」という同心円のパラドクスがここでも重要な論点になっていますが、ユーラシアの西端から東端をみた在スペイン日本人による警告であり貴重な証言でもあります。
目次は次の通りですが、ぜひサイトで全文をお読みくださるようお願いいたします。

(以下転載)
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徐京植さん「フクシマを歩いて」に基づく考察

根こぎと全体主義

 この長い考察は、次のビデオを見て、そこで提示され指摘されているいくつかの重要なテーマについて、思いつくままにつづったものです。
     http://www.youtube.com/watch?v=lq4xuXFKlDk
    フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての「3・11」 こころの時代

 徐京植(ソ・キョンシク)さんのお名前を見たとき、ふと学生のころ大学構内で見かけた一枚のポスターが私の記憶によみがえってきました。当時、京植さんの2人の兄、徐勝(ソ・スン)さんと徐俊植(ソ・ジュンシク)さんが留学中のソウルで北朝鮮のスパイとして逮捕され、それに抗議する運動が日本のいくつかの大学で展開されていたのです。確か「徐兄弟を救え」と書いてあったように記憶していますが、この当時激しい拷問に遭って焼け爛れたともいわれた勝さんの横顔、その奥で眼鏡の奥からまっすぐに前を見据える俊植さんの横顔が写るそのポスターは、それから40年ほど過ぎた今でも私のまぶたにくっきりと焼きついています。
 京植さんは、お母さんを亡くす不幸を乗り越えて兄たちの救出活動に打ち込まれるとともに、在日朝鮮人として活発な著作活動を続けられ、現在は東京経済大学の教授としてお勤めです。
 その徐さんが、2011年8月14日に放送されたNHKの番組『こころの時代:私にとっての「3・11」』に出演されました。それが早速YouTubeにアップされ、友人の知らせを受けて拝見しました。それは私が今までフクシマと放射能について見てきた多くのビデオや文章とはやや異なる角度からこの原発事故と放射能汚染を捕らえており、私が最もこだわってみたい方向に私を運んで行ってくれるものでした。多くの重要な示唆を含むものなのですが、まず、この番組に現れる順に私からの考察をはさみ、最後に私なりの「まとめ」を作ってみたいと考えています。ここで青い枠で囲まれる部分はビデオの文字起こしで、特に青い文字で書かれた部分は徐さんの言葉を文字に起こしたものです。

 この考察は非常に長いので、小見出しの一覧を作っておきます。(2)以下の項目については、クリックしていただければその小見出しの箇所に飛びます。
(1)根こぎ
(2)同心円のパラドクス
(3)魂の重心
(4)根について(欧州ユダヤ人たちを例に)
(5)原子力の「平和利用」と「軍事利用」の境目は無い
(6)「安楽全体主義」
(7)スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
(8)まとめ:「子どもを守る」ことが全体主義に対処する道

(1)根こぎ

 番組は徐さんが東京経済大学のゼミで学生たちを前に次のように話すシーンから始まります。

 「根こぎ」という言葉があって…、ちょっと聞き慣れないかもしれないけど…、つまり一個の根を下ろしている植物を徹底的に抜いちゃうというんです。もうその生命、生存の基盤そのものを破壊すると…。で、この「根こぎ」ということが人間に対して行われる、人間が人間に対して、人間を根こぎにするということがある、ということですね。戦争や植民地支配やその他で、世界中で多くの人々が根を抜かれてさまよっているわけですね。ディアスポラ、難民…、パレスチナの人々…、まさにそうですね。
 その人々が経験している痛みをですねえ、何か、数量化したり物量化して語るわけですね。それだけで語れるようなものじゃないんだ、ってことが、放射能という、核という、もう一つのこういう現在の経験から、私たちが考察してみるべき問題だと、私はそういうふうに思っているわけです。

 この「根こぎ」という言葉でまず私の頭に浮かぶのは、遠い昔に本で読んだシモーヌ・ヴェイユのことです。たしか田辺保さんがお書きになった本だったと思います。内容は明確には覚えていませんが、ユダヤ人としてフランスに生まれ、慢性の頭痛に悩みながら、スペイン内戦に国際旅団の一員として銃を手にしてフランコ軍と戦い、その後ナチスの迫害を逃れて英国に移り住んで亡くなるまでの記録でした。その本には、彼女が自分の「根」を捜し求めて悩み、カトリックの神父と知り合ってキリスト教に接近する彼女の魂の遍歴と思索について書かれてあったと思います。その中で、フランス語の原文は知らないのですが日本語で「根こぎ」と訳された一つの言葉が、奇妙なほどにしっかりと私の頭に残りました。
 欧州のユダヤ人の問題はまた後でも触れることになりますが、彼女にとって「根」は自らの生命のあり方そのものであり、「根こぎ」にされることは肉体的な死よりもはるかに恐ろしいことだったのでしょう。その宗教に対するこだわりは自分の「根」に対するこだわりでした。

 そして実を言えば、私は徐さんの口から語られたこの言葉にぎくりとしました。果たしてこの自分にとって「根」とは何か考え込んでしまったわけで、糸の切れた凧のように…、というか、自分の「根」から逃れるようにこのユーラシア大陸の西の果てにたどり着き、そこに「仮根」を下ろしてへばりついている自分を改めて意識せざるを得ませんでした。そんな私が、以前にこのサイトに載せた文章の中で次のように書いたのです。
     http://doujibar.ganriki.net/fukushima/Japanese_and_radioactivity_KIDE.html
    放射能と日本人:小出博士「大人が放射能を引き受けよ」を巡って

 アフリカのサハラ砂漠南部地帯には気候の変化と急激な人口増加、国際的な経済不均衡や政治的な理由などで、大量の難民が発生しています。彼らは国連や先進国からのボランティアたちの援助によって、難民キャンプの中で何とか命をつないでいます。しかし、何百年、何千年かけて自然条件と人間の努力によって作られ維持されてきた自分たちの風土から根扱ぎにされ、文化も誇りも失い、他人にすがってしか生きていけません。
 「人間はパンのみによって生きるにあらず」という言葉がありますが、自分たちの土地と歴史と文化を失った悲惨さは、いかにパンがあっても、人間としてとうてい耐え難いものでしょう。
 放射能に汚染された地域の人たちが農業と漁業と林業を失い、それによって営々と築いてきた自分たちの風土から根扱ぎにされ、これから何十年も百年以上も政府や企業のまかないで生きていくことなど、人間にとってこれほどに不幸なことはないでしょう。カネで買われて廃棄処分にされるために農産物を作り魚を捕るなら、それはもう農業・漁業とはいえません。産業ではありません。「食べてもらいたい」と思って畑を耕し漁をし、「飲んでもらいたい」と思って牛乳を搾るからこそ産業なのです。その産業を生み出し維持するからこそ風土なのです。子から孫へと命をつなぎ、産業をつなぎ、文化をつなぎ、そこに住む人間としての誇りをつないで、初めて一つの人間社会といえるのだと思います。
 こういった福島という人間の社会をつぶしてはならない、そして、福島と日本中の子供たちに壊れた遺伝子を持たせてはならない、そのためには、日本中の、もう放射能の影響をさほど受けない年齢の者たちが、自ら進んで福島の産物に含まれる低線量の被爆を引き受けるべきだ、そうしてでも福島の産業と風土と人間社会を守るべきだ、自分たちの過去と現在と未来の現実を見つめることなく自分たちの業を汚染地帯に押し付けてその人間社会をつぶすようなことをしてはならない…。それは人間であることを自ら否定することではないのか…。

 私はアフリカの大量の難民を見るたびこの言葉を思いました。彼らはまさに「根こぎ」にされた人々なのです。また、後で徐さんも触れておられることですが、上の文章を準備している最中に、相馬市の酪農家が「原発さえなければ」という「遺書」を残して自殺したことを知りました。棄てるために乳を搾らなければならない、その酪農家にとって奴隷労働以上につらいことだったのでしょう。彼は実に残酷に「根こぎ」されて死に追いやられました。最も惨忍に「殺された」わけです。

 この「フクシマからの警告」のシリーズにある次の対談文字起こしの中で、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」代表の中手聖一さんは次のように語っておられます。
     http://doujibar.ganriki.net/fukushima/talking-Iwakami_vs_Nakate.html
    文字起こし:(対談)中手聖一×岩上安身
    子供に優先的に放射能汚染の少ない環境を!食べ物を!

…。この放射能の問題というのは、広島・長崎の人たちからたくさん学んでいるようにですね、福島県はもう被爆者なんですよ。ばらばらにされたら、地域の中で自分の身を隠して生きるようになっていくんです。しっかりと福島県人として助け合いながら、場合によっては慰めあいながら、しっかりと、故郷がきれいになって除染されて、戻ってくるまで、疎開地でがんばるためには、アイデンティティ、コミュニティーが必要なんです。
(中略)
つまり、被爆者の問題というのは「差別の問題」ですから、その差別に、私たち福島県民は向かい合っていかなければならない、向かい合える子供に育てなければならないんで、そういう意味ではね、コミュニティーをしっかり作ると。疎開先でもね。ちょうど外国に行って日本人コミュニティーをみなさん作ってらっしゃるように…。そういうような疎開の仕方が必要だということを、これから提案していこうと思っています。

 おそらく中手さんは同郷の人たちが、特に子どもたちが、「根こぎ」されることを必死に拒んでいるのでしょう。そして気づいているはずです。自分たちを「根こぎ」にするものが、放射能だけではなく、日本という非情な国家だけでもなく、常に差別を内包する日本人社会そのものだ、ということを。
 もちろん、在日朝鮮人として「根こぎ」を自らの状態と重ね合わせながら生きてこられた徐さんが語る言葉と、私のような自ら半分根無し草状態になってしまった日本人が語る言葉とでは、その重さが何百倍も異なるのでしょう。しかし私も精一杯、現実に対する感性とともに、目に見えないもう一つの現実を嗅ぎ取る想像力を研ぎ澄ませてみたいと思います。

[以下をクリックすると、それぞれの「章」が開きます。―編集部]
(2)同心円のパラドクス
(3)魂の重心
(4)根について(欧州ユダヤ人たちを例に)
(5)原子力の「平和利用」と「軍事利用」の境目は無い
(6)「安楽全体主義」
(7)スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
(8)まとめ:「子どもを守る」ことが全体主義に対処する道

http://doujibar.ganriki.net/fukushima/up-rooting_and_totalitarianism.html より転載。
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★また徐さんからの連絡によれば、以下のとおりアンコール放送が決定したそうです。徐さんご自身、「まだご覧いただいていない方々などは、この機会にご覧下されば幸いです。ご意見・ご感想などもお聞かせ下さい。」と述べています。

『こころの時代 シリーズ・私にとっての3・11 フクシマを歩いて 徐京植』
本放送(地上波・Eテレ)  9月25日(日)5:00~6:00
再放送(地上波・Eテレ) 10月1日(土)13:00~14:00
(デジタル教育テレビ 9月26日(月)14:00~15:00)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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