<はじめに>
1998年3月、初めてミャンマーの地に降り立ちました。それから数か月たったころでしょうか、或る人から現地で日本語の通訳ガイドをしているチョーソーさんという青年を紹介されました。チョーソーさんは京都の大学に留学していたということで、京都弁なまりの日本語を流暢にあやつるインテリ風の雰囲気を持つ人でした。彼はミャンマー人にしては珍しく―実際おそらくは華人系であったでしょう―、仏教原理主義者でも現世利益主義者でもなく、京都弁なまりで理路整然とミャンマー人の国民性を分析してみせてくれて、私を驚かせました。その賢そうな顔つきと話しぶりにつられて、私はいきなりある質問をぶつけました。
「チョーソーさん、あなたがいまミャンマー人に一番読ませたい日本語の本は何でしょうか」
「もちろん、福沢諭吉の『学問のすゝめ』です。今ミャンマーに欠けていて必要なことがたくさん書かれています」
ああ、我が意を得たり!私の方が遠方から来たのですが、「朋遠方より来る、また愉しからずや」の気分にさせられたことを憶えています。当地に数か月滞在してミャンマー人を観察して感じたことは、近代的な国づくりを進めるために必要な精神革命(啓蒙精神の発揚)を理解するのに、諭吉のこの本ほど適切な本はなかろうと思い始めた矢先だったからです。
チョーソー氏には機会があれば、ミャンマー人の有志の前でこの著書を解説することにやぶさかではない旨を伝えました。残念ながら、その後チョーソー氏はアメリカに移住しましたので、その機会は訪れませんでしたが、その課題意識はその後も私の念頭にありました。
そうこうしてミャンマーでの生活もそろそろ10年を迎えようとするときに、在ヤンゴンの大分出身者の間で、「大分県人会」を立ち上げる話が出てきました。当時は、軍事政権下で圧制が進み、経済生活条件は日々悪化していました。そのため庶民の生活苦に同情した僧侶たちが、いっせいに抗議行動を行なった「サフラン革命」が勃発。私のレストランがあるヤンゴン中心街を僧衣をまとったお坊さんたちが、雨季の雨に打たれながらデモ行進する一方、完全武装した部隊が阻止線を張っている光景を目の前にして、感動と緊張のアンビバレントな感情に襲われたのを憶えています。革命そのものは権力の残忍極まる弾圧によって潰えたものの、邦人社会に強い衝撃を残しました。
ヤンゴン中心街をデモする僧侶たち。両側を市民の隊列が随伴している。
さらに運命はむごい仕打ちをします。それから8か月ほど経ってから、ミャンマーにサイクロン・ナルギスが襲来、ヤンゴンも直撃を受け壊滅的な打撃を被ることになります。高潮の被害などで、イラワジデルタの犠牲者は推定14万人、ヤンゴンも立木の6割方はなぎ倒され、町の光景は一変してどこがどこやら判別がつかないほどでした。このダブルパンチで観光客は激減、邦人でも日本に引き揚げる方が目立ち始めます。これに危機感を抱いた我々の間で、邦人同士でもっと親密になって助け合っていこうという機運が盛り上がります。当時たまたま私は大分県の「一村一品」運動に共鳴して研究していたので、主に大分出身者に勉強会を呼びかけました。そんな折、「一村一品」運動の発祥の地である日田市大山町の農協の有志が、我がレストランを訪れるということもあって、だったらヤンゴンにはひとつもない県人会組織を立ち上げようと、一気に話がまとまります。とにかくN日本大使も協力してくれる、アジア大分県人会の会長も発会式には役員ともども来緬するということで、沈滞気味の邦人社会に一石を投じることになりました。
私は6歳の時大分県を離れ、以後18になるまで北海道で育っているので、生粋の県人とは言えないというハンデを感じていました。それで発会にあたって、大分県出身の思想家について一文をものにして彩を添えようと、頑張って書いたのが以下の文章です―その後追加で書いたものも一緒です。文章にいくらか大分県ナショナリズムの雰囲気があるのは、県人会組織の発会という事情のせいです。諭吉に関しては、冒頭説明したような事情もありました。とにかく参考になる文献もほとんどなく、軍事独裁下、インターネットも活用が制限されるなかで認めたものなので、感想文の域を出ていないものですが、ちきゅう座のHさんに強く勧められたこともあり、敢えて原文を変えずに公表することにしました。
* * *
以下、しばらく本題への伏線として聞いていただきたいと思います。明治の大民権思想家中江兆民は、五十三歳のとき喉頭がんで余命一年半と医者から告げられます。が、さすがというべきでしょうか、兆民は死の宣告にもたじろぐことなく、平常心を保ち淡々とした風情で妻とともに好きな人形浄瑠璃を満喫し、かつ余命を一字一句に刻み込むように著述に専念します。日々肥大化し呼吸を困難にする喉もとのがん腫瘍と悪戦苦闘しながらです。
兆民は唯物論者としての筋を通し、死後の世界を信じない無神論的死生観を持して死に臨みます。いわく、死後にひかえる悠久のときと比べれば、十年二十年の年月の差などないに等しい――つまりひとより十年早く死のうが、永遠の時の流れからみれば その差は無視しえる程度のものでしかない。逆に一年半という期間は、ことをなし人生を楽しむには十分だとして、名著 「一年有半」「続一年有半」を八ヶ月のうちに書き終え、文楽をとことんまで堪能して、医師の宣告より十ヶ月も早く波乱万丈の生涯を閉じるのです。
「一年有半」は、日々新聞を読みながらつづった時評や観劇の感想などを日記風にまとめたものです。 たとえば、口語体に近い福沢諭吉などに比べると、文体は古く、漢学の造詣がかっただけに漢語も難解ですが、精神の躍動というものが生き生きと伝わってきます。思想家としてだけでなく、学校経営者 (慶應義塾)としても成功した福沢諭吉― それだけに政財官学界に及ぶ圧倒的な数の弟子や理解者に囲まれていた ―とちがって、兆民の民権思想と反藩閥政府の立場は極端な少数派に属し、それがために迫害と孤独と貧困に一生付きまとわれました。そしてとどめは、不治の病の宣告です。普通であれば、天をも呪いたくなるところです。しかし兆民の強い精神は、不運に屈することなくユーモアさえ感じられる言い回しで、その本領を発揮します。いわく、あまりにいままで社会を敵に回して批判するので、天が罰としてがん死をあたえたのかもしれないが、それならそれでよし。自分は残された時間を最大限有効に使って著述し、社会批判を続けてお返しをするまでだと言ってのけます。今はなはだ少ないものの、「徳は孤ならず、かならず隣あり」 (論語)で、いつか多くの理解者を得るであろうと、その自信はいささかも揺るぎません。
「続一年有半」の方は、兆民が一切の参考文献なしに十日間で完成させた兆民哲学のエッセンスです。兆民は大阪で聞病生活を送ったので、自宅のある東京の蔵書は使えませんでした。もっとも東京であつたとしても生活の困窮から漢籍以外の蔵書はほとんど売り払っていたといいますから、大阪と大して違いがなかったでしょうが。「続一年有半」は、「一年有半」とちがって哲学的な世界観、原理論として客観的な叙述のかたちがとられているものの、おのれに迫りつつある運命に対して、死をどういうものとしてとらえ、生との訣別の覚悟をどう固めるのか、一身に迫ったこの重大事への答えとしても読むことができます。
「魂は滅ぶが、肉体は不滅である」 という逆説的な言い回しには、その反骨精神と揺るがない無神論的な信念が充溢していて、兆民の面目躍如たるものがあります。――魂は脳髄の機能 (はたらき)に他ならないのだから、死によって脳の機能が停止すれば、魂もまた消滅する。ところが内体という有機体は、無機物に分解されてもそれを構成する元素そのものはなくならないのだから、不滅といえる。つまり今日風に言えば、エネルギー恒存の法則を含め物質はその形態を変えるだけで不滅であり、したがって肉体は宇宙に永遠にとどまり続けるということでしょう。それは当然無からの創造を唱える宗教的な世界創造神話を真っ向から否定するものです。兆民の一種物理学主義的な死生観がどこまで正しいのか、意見の分かれるところでしよう。しかし、私が強調したいのは兆民のように世界観、つまり社会や自然や人間を見る見方が生涯一貫しており、時の権力の圧迫にも揺るがなかった人は日本では珍しかったということです。だからこそがん死という個人の人生最大の不幸、不条理に直面しても、節を曲げて神仏に頼るようなことはなかったのです。われわれはそこに生き様と死に様の見事な一致を、そして明治人の骨太の精神、大勢に順応しない個人主義の貫徹をみることができるのです。(似たような個性は、内村鑑三にもみることができます)
「続一年有半」は内容自体にそれほど独創性があるわけではありませんし、論理の展開の範囲も限られているとはいえ、その迫力はさすが民権思想家として明治藩閥政府と妥協なき闘いをしてきて、「東洋のル ソー」と呼ばれただけのことはあります。哲学を生きたものにするのは、論証の緻密さや理論的構築の見事さはもちろんですが、それ以上にやはりそのひとの人生経験に裏打ちされた知性の輝きや信念の確かさ――私はこれを実存体験と言いたい――なのでしょう。
繰り返しになりますが、板垣退助、後藤象二郎の例にみられるように、同じ土佐出身の大物民権政治家が藩閥政府に買収されて節を曲げいくなかで、兆民が生涯通して思想的一貫性と徹底性を保持したことは 日本の知的伝統のなかでは稀有といっていいでしょう。好奇心が旺盛で新しい外国の文物を自分なりに吸収する、いわゆる換骨奪胎の能力には長けているが、その反面あきっぽく変わり身が早いと指摘されるわが国民性との比較において、兆民の特性が際立つのです。
そのことに関連して最後に「続一年有半」のなかの一言――「我が日本古来より今に至るまで哲学なし」、「哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず」とし、同じことですが、日本人は考えることの苦手な国民である云々。多少断定が過ぎるにしも、同趣旨のことを評論家の加藤周一が強調し、また司馬遼太郎――歴史の大舞台のなかで躍動する英雄的人物を描き、われわれに日本史の魅力ある側面を展開してみせてくれた――も指摘しています。つまり日本人は独特の短詩型 (短歌、俳句)に典型的にみられるように、 日常生活の細部と感情の動きへ関心を集中し、繊細な感受性をもって一瞬の美を捉え表現することには優れている。が、反面その印象は断片的であり感性的なものにとどまっていて、ものごとを論理的全体的に捉えるのが苦手である、と。そのうえで加藤、司馬ともども日本的知の伝統の例外として空海と道元の宗教哲学体系を挙げ、かつ加藤は江戸時代の三浦梅園を加えて哲学者の三傑としています。恐縮です、ようやく本題の三浦梅園たどりつきました。
三浦梅園(1723~1789)について
三浦梅園晋 (みうら・ばいえん・すすむ)は 、江戸中期、享保 8年豊後国東 (くにさき)半島の僻村 (大分県国東市安岐町富清―旧杵築藩国東郡富永村)に生まれ、そこで一生涯町医を本業として過ごし、そのかたわらヨーロッパ近代哲学にある意味では肉迫する「条理学」という難解な哲学体系を打ち立てました。大分県の地図を開き国東半島―― 少年時代私は、父の机の前の壁にはられた大分県の地図を見て、よくよくひとの頭に似ているものだといつも思いました――をよくみると、半島中央の両子岳 (標高七00m)の別府湾寄りの中腹に小さく富清と記されています。よくよく注意しなければ、ほとんどの人が見落としてしまうであろうほどの小さな小さな町です。どうしてこんな片田舎に一生埋もれるように暮らしていて、近代の暁鐘ともいえる独創的な知の体系を築き上げることができたのか。梅園とほぼ同時代、東北の秋田や八戸で同じように町医を営みながら独創的でかつ仮借なき封建制度の批判を行なつた安藤昌益ともども、不思議の感に打たれます。※
※「忘れられた思想家」安藤昌益を発見したのは、第一高等学校の校長、京都帝国大学文科大学初代学長を務めた狩野亮吉教授です。漱石の若いころの友人でもあった狩野は、安藤昌益だけでなく、志筑忠雄や本多利明などの思想家を発掘した人でもあります。三浦梅園の発見者は、哲学者の三枝博音先生です。先生は戦時下の暗い時代に、日本には人類の進歩に掉さすような思想家はいないのかを追究し、ついに三浦梅園を発見します。先生は戦後すぐかの「鎌倉アカデミア」という私立の学校を設立し、多くの人材を育てます―司会業で名を成した前田武彦もその一人でした。丸山眞男や林達夫など錚々たる知識人が参加協力しました。「鎌倉アカデミア」は、明治に続く第二の啓蒙時代として現代日本思想史にその名を残しています。三枝先生は不幸にも鶴見の列車事故に遭遇し亡くなられました。
空海や道元ならば、まだ分かります。かれらは名家の出身であり、当時の社会の中では中国留学経験もある第一級の知的エリートだったからです。個人のおかれた知的条件からいえば、梅園や昌益は、前者とは比較にならぬほどハンディキャップを背負っていたはずです。ただ東北は化外の地に近く、それに比べればまだ豊後ははるかに経済的文化的に恵まれていたといえるのかもしれません。戦国時代にはキリシタン大名大友宗麟が一大版図を築き、その庇護の下、かのフランシスコ・ザビェルが布教を行ない、 かつ天正遣欧少年使節団の一人として国東半島出身のベドロ岐部を送り出したことから分かるように、一時は大航海時代の世界とも直接つながっておりました。
その後鎖国令のもとでの百年弱、おそらく停滞と閉塞の時代を過ぎて、18世紀以降徳川幕藩体制は徐々に矛盾を深めていきます。貨幣経済の発達とともに石高制を基礎とする封建制度が揺らぎ始めたこの時期に――18世紀は17世紀に比べ、3倍の都市の打ち壊しや百姓一揆が起こっています―― 、幕政を担った徳川吉宗はいわゆる「享保の改革」を断行します。このなかで吉宗は寛永 (1630年)以来の洋書の禁を緩和し、青木昆陽などを登用して蘭学が勃興するきっかけをつくりました。
この機運に積極的に応えたのが、豊前豊後 (大分県)の小さな支藩を含む諸藩でした。各藩校に蘭学が取 り入れられ、特に中津藩主奥平昌鹿 (まさか)は、藩医前野良沢を庇護して蘭学研究を奨励しました。良沢は先に青木昆陽に蘭学研究を勧められ、47歳 にして (!)オランダ語習得のため藩主の許可を得て長崎に留学したのでした。この翌年 1771年に藩主にしたがって江戸にいき、このとき千住小塚原で刑死者の腑分け (人体解剖)を杉田玄自らとともに実見して、即「ターヘル・アナトミア」(オランダ語訳 「解剖図譜」)の翻訳を決意、1774年に苦心惨愴のすえ、「解体新書」を完成させます。 (「 解体新書」については、のちにまた触れます)。いずれにせよ、中津藩や日出藩、杵築藩などが競って蘭学を奨励した結果、豊前豊後は、「洋学のメッカ」として盛名を博するようになります。
三浦梅園やシーボルトにかかわる蘭学人脈を少し覗いただけで、往時の蘭学熱の確かさが手に取るように分かります。手元にある資料から拾ってみます と、日出 (ひじ) 出身の帆足万里 (1778~1852)。直接には脇蘭室 (1764~1814)の弟子ですが、蘭室が梅園の弟子ですから梅園閥のひとりといえます。一時日出藩に出仕して家老として藩政改革にあたりますが、職を辞した後は家塾で大勢の門弟を育て、蘭学を独習してその集大成として「窮理通」を著しました。梅園、広瀬淡窓とならんで三大文章家とされ、また豊後の三賢人とされています。「ほあし・ばんり」という語呂もよく、順風に帆をふくらませ、波濤を越えて世界へ乗り出していく様を連想させるいい名前です。※
※「福翁自伝」に帆足万里のことが出ております。「(諭吉の兄も漢学だけでなく)豊後の帆足万里先生の流を汲んで、数学を学んでいました。帆足先生といえばなかなか大儒でありながら数学を悦び、先生の説に『鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せておくというのは大間違い』という説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い」とあります。
さらに下って1823年 (文政 6年)、ドイツ人シーボルトがオランダ商館医として赴任すると、豊前豊後から多くの蘭学生が続々とその門をくぐります。渡辺崋山とともに「蛮社の獄」事件に連座して囚われた高名な蘭学者に高野長英 (1804~1850)がおります。そのかれと同期でシーボルトの鳴滝塾に入門した、帆足万里門弟の村上玄水 (1781~1843)。 長英は脱獄した後、中津に帰って藩御典医なっていた玄水の家に1ヶ月以上かくまわれていたといいます。
また門弟数千人といわれる日田・咸宜園※の広瀬淡窓とも縁戚関係にあった湯布院の日野鼎哉(1797~ 1850) 葛民 ( ?~ 1856)兄弟。最初、鼎哉は帆足万里の門下生であり、 のちに兄弟は鳴滝塾生となります。鼎哉は苦心の末、京都に除痘館を創設、家産を投げ打って天然痘克服のため種痘接種法を普及させました。また弟の葛民は、緒方洪庵とともに大阪での種痘普及に努力しました。さらに国東郡高田 (豊後高田)の賀来佐之 (かく・すけゆき 1801~1857)は鳴滝塾に入門し、シーボルトに4年間ついて医学と植物学 (本草学)を学びます。その後 島原藩にて種痘を普及させるに功績がありました。
※日田市豆田町にある広瀬淡窓の実家の裏に、私の生家はありました。咸宜園の入門帖には村田蔵六(のちの大村益次郎)や清浦圭吾(のちの首相)の名前が記されています。
時代は前後しますが、梅園とは文通を通じた知音ともいえる元杵築藩藩医・麻田剛立 (1734~1799)の 名も忘れはならないでしょう。最初天文学・暦法を研究、医学にも卓越しておりましたが、のちに脱藩して大阪で天文学、暦法研究を続けて、大阪における蘭学の隆盛に貢献しました。大阪の有力経済人によって設立された町人のための文教機関である懐徳堂の同人。梅園が僻地にありながら情報音痴でなかったのは、麻田ら懐徳堂同人交流があり、当時最先端レベルの情報や知識のやり取りが可能だったからでしょう。懐徳堂は、その後山片幡桃や富永仲基など逸材を輩出しています。
1828年、伊能忠敬作成の日本実測全図の国外持ち出しが発覚したシーボルト事件。この事件で、シーボルトに地図を渡したとして捕われ獄死した幕府天文方・高橋景保 (かげやす)の父高橋至時 (よしとき)は、剛立の弟子であり、伊能忠敬の先生に当たります。伊能忠敬の測地事業に高橋景保らが協力して完成した日本実測全図のプロジェクトは、のちにふれる「解体新書」翻訳事業とならんで江戸時代の一大文化プロジェクトでありました。
こうしてみると、梅園の場合、ひとり屹立しているようにみえながら、じつはそのまわりに意外と広い人脈の裾野が広がっていたことが分かります。上にあげた人々のほとんどが本業が医者であることにも注目すべきでしょう。ひとの命を扱う職業というものは、特別な職業倫理を要求するものであり、そのため医療技術向上に直結する新知識への感受性や要求度が他の職業人より高いので、積極的に蘭学に向かったのかもしれません。貝原益軒 (1630~1714)「医は仁術なり。人を救ふをもって、志とすべし。これ人のためにするは君子医なり。人を救う志なくして、ただ身の利養をもって志とするは、これわがためにする小人医なり。医は病者を救はんがための術なれば、病気の貴賎・貧富のへだてなく、心を尽くして病を治すべ し・・・」(養生訓) しかし江戸幕藩体制という身分制社会では、そのことが実現しようもなかったことも事実です。幕末、オランダ医官ポンペが幕府養生所にきて、西洋医学とともに治療に貴賎・貧富のへだてをしないキリスト教的市民社会的平等で患者扱いをしようとしたとき、幕府側は激しく反発したのでした。
ともかく梅園は、三度の長崎遊学を除いては故郷を離れたことはないのであり、その点一度外国へ行ったきりで、それ以外は生涯同じ故郷のまちで人々の時計代わりになるような規則正しい生活を送った、 「ケーニスベルクの哲人」 と呼ばれたイマニュエル・カント (1724~1804)の生活に似ていなくもありません。カントは、若い頃にはニュートンカ学にもとづいて「カント=ラプラス説」という太陽系宇宙の生成進化についての画期的な学説を発表し、壮年以降は近代認識論の「コペルニクス的転換」といわれている哲学的大事業をなしたのですが、生活そのものは生涯独身で地味なものでありました。
梅園も田舎医者という地味な暮らしぶりの一方、日本の文化的伝統のなかでは突出した独自の思索で近代的な自然世界像を描き、それはある部分同時代のヨーロッパの力学的世界像を超える側面をすらもつといわれています。確かに長崎行きは、ヨ一ロッパの文物に直接触れられたという意味で重要ではありますし、長崎からの新風は絶えず新しい思考材料を梅園に提供したでしょう。しかし同時に麻田剛立ら大阪・懐徳堂系の学者との交流によって受けた知的刺激も、入手した天文地理などの情報 (地動説や地球球体説)が哲学的世界観として持つ意味を考えるうえで大きかったのではないかと思われます。それにしても徳川 中期になると、懐徳堂のような半官半民の学問所や家塾私塾が隆盛となります。幕府統制の枠を超えて自由な知識の交流が活発になるのは、そうした有力町人の教育熱と経済的なバックアップがあってのことだったのでしょう。懐徳堂では大阪商人の子弟が多いからといって、商売のノウハウを教えたわけでなく、商売の基礎になる商業道徳の修養に努めたのです。つまり商業とは、忠孝を重んじ義に仕えることによって信用を獲得し、そのことによって結果として利益を得る活動なのだとされます。つまり社会の公益性と両立する新しい商業観の確立に努めたのです。次第に台頭する有力商人層は、経済的な力だけではなく、精神的な面でも武士道徳をしのぐものを身につけたいと欲求するようになっていたのです。懐徳堂の大思想家であり、かつ大高利貸商人升屋の番頭だった山片幡桃は第一級の商人としてその代表格であり、家法による規律ある取引によって信用を得て経営拡大し、諸藩の財政再建や金融制度確立や商業発展にも大きな功績がありました。 ともかく梅園を育てた環境について考えるとき、現地も見みずに勝手な想像ですが、両子山中腹の自宅からは別府湾や豊後水道方面はよく見渡せたでしょうから.地球的規模 (グ ローバル)の発想をするにはいい条件だったのかもしれません。
さて、近世日本における近代ヨーロッパ科学 (医学、天文学、地理学、植物学)の受容は、八代将軍徳川吉宗が青木昆陽と野呂元丈にオランダ語の習得を命じたときが始まりです。この享保の改革による洋学の濫場を担った医者たちは、とりあえずは漢方医であり、そのなかから洋学を志し知の革新の最前線に立つものが現れたわけです。
具体的には、著名な三人――中津藩医・前野良沢 (1723~1803)、若狭小浜藩医・杉田玄白 (1733~ 1817)、国東町医・三浦梅園 (1723~1789) ――の仕事が蘭学勃興の端をなしたのですが、それだけではありません、玄自の「蘭学事始」に登場するだけでも中川淳庵、桂川甫周、大槻玄沢などそれなりに多数にのぼっており、彼らは近世日本の哲学史・科学史に大きな足跡を残しました。もっとも幕府の洋学奨励の思惑は、あくまで暦法や医療技術の改良、殖産興業といった技術的効用性や実用性のみにあり、近代科学がもつ伝統的な考え方を破壊する世界観的側面は厳しく取り締まりました。それは本家ヨーロッパにおいても同様で、ガリレオらの地動説が伝統的なカトリックの天文観と対立するがゆえに、ローマ法王庁から異端の説として禁止された例は有名です。ガリレオより少し前のルネサンス期には、イタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、アリストテレス=プトレマイオス的天体観を否定し、宇宙は無限 (永遠)として神の創造による世界の始まりを否定した咎で火あぶりの刑に処せられました。
したがって当時の蘭学の習得は、幕藩体制のトップマネージメントの厳しい監視のもと、その許容範囲内で細々と行なわれざるをえませんでした。まして幕府が官学に指定した朱子学 (宋代の新儒教) の考え方に対立する説は、異端として厳しい迫害を免れませんでした。わけても松平定信の寛政の改革 (1787年)における「寛政異学の禁」以降、多くの蘭学者は厳しい受難に会い、蘭学研究会 「尚歯会」に集う渡辺睾山や高野長英たちは結局死を免れなかったのです (「蛮社の獄」1839年)。事実をつまびらかにし真理を追究するものが、真実を恐れて都合の悪い事実をおおい隠そうとする専制者、独裁者によって迫害の憂き目を見るのは、古今東西変わることがありません。「蘭学事始」にも、「解体新書」出版に際しての玄自らの危惧、懸念がそれなりに大きいものだったことが述べられています。
――前にオランダ事情を紹介した本が、発禁になった例もあるので、この書が禁令に触れて罰せられる恐怖もあったが、わが国の医学の前進のためと覚悟して翻訳出版を決意した。ただ桂川甫月の父甫三が幕府の高位の医務官 (法眼)だったので、かれに政治工作をして推挙してもらってうまくいった、とあります。
これから梅園の哲学について若干触れようと思いますが、その哲学体系を十全に理解するには、仏教や道教、わけても朱子学の哲学用語 (太極、理気、陰陽五行等)や体系についてそれなりの知識と理解をもっていなければならないでしようし、おそらくもっていても梅園独特の難解さの壁を突き破り、内在的な理解に達するのは至難の業でしょう。その仕事はこれからの私の課題として、ここでは私の能力の範囲で近代初頭の西欧の哲学との比較でみて、どういう新しさを梅園哲学はもっていたのかを追究してみましょう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14031:250104〕